第一章 ベンチの上の忘れもの
水島健太の日常は、限りなく透明に近かった。色も、味も、匂いもない。朝、決まった時間に鳴るアラームで目覚め、同じ車両の同じドアから満員電車に乗り込む。都心のデザイン事務所では、可もなく不可もなしの仕事をこなし、終業時刻になると同時にパソコンを閉じる。まるで精密に設計された歯車のように、ただ決められた軌道を回るだけの日々。感情の振れ幅は、穏やかな凪のように静まり返っていた。
その単調な日常に、ほんの僅かな不協和音が混じり始めたのは、二週間ほど前のことだ。
いつものように会社からの帰り道、乗り換えで利用する駅のホーム。端の方にぽつんと置かれた木製のベンチに、それが「在った」。最初は、誰かの忘れ物だろうと気にも留めなかった。淡いピンク色のガーベラが一輪。誰かを待つ間に買ったのだろうか。そんな想像をぼんやりと浮かべただけで、健太はその場を通り過ぎた。
しかし、翌日も、そこには花があった。今度は、凛とした白いカラーが一輪。その次の日は、快活な黄色のチューリップ。忘れ物にしては、あまりに不自然だった。まるでベンチそのものが、日替わりで小さな花を咲かせているかのようだ。花はどれも、切り口が瑞々しく、露が光っているかのように新鮮だった。
誰が、何のために?
健太の無菌室のようだった心に、小さな疑問の染みがじわりと広がっていく。彼は、ここ数年で初めて、自分の意思で「何かを気にし始めた」ことに気づいていなかった。通勤経路という単なる記号でしかなかった駅のホームが、健太にとって初めて「意味」を持つ場所に変わりつつあった。彼は毎日の帰宅時、そのベンチを確認するのが無意識の習慣になっていた。今日はどんな花が咲いているだろうか。それは、灰色だった彼の世界に差し込んだ、初めての色だった。
第二章 色彩のない日々の、唯一の彩り
ベンチの花は、健太の生活にささやかな変化をもたらした。彼はスマートフォンの検索窓に、花の名前を打ち込むようになった。「スミレ 花言葉」「フリージア 花言葉」。スミレは『小さな幸せ』、フリージアは『感謝』。まるで、顔も知らない誰かから、秘密のメッセージを受け取っているような気分だった。
もちろん、馬鹿げた考えだとは分かっていた。自分にそんなメッセージをくれる人間などいるはずがない。事務所では必要最低限の会話しかせず、プライベートで会う友人もいない。健太は、人間関係という名の面倒なロープを、自ら進んで断ち切ってきたのだから。
それでも、期待せずにはいられなかった。もしかしたら、この無機質な都会の片隅で、誰かが自分を見ていてくれるのではないか。自分の孤独に気づき、そっと励ましてくれているのではないか。そんな甘い幻想が、乾いた心に染み渡るのは心地よかった。
健太は、花の送り主の正体を突き止めようと、少しだけ行動を変えてみた。いつもより一本早い電車に乗ってみたり、ホームをうろついてみたり。しかし、それらしい人物は見当たらない。駅員に尋ねても、「さあ、忘れ物なら事務所に届きますが…」と要領を得ない返事しか返ってこなかった。
ある日の夕方、健太がいつものようにベンチの花――その日は青いデルフィニウムだった――を眺めていると、一人の老婆に声をかけられた。
「綺麗だねえ、そのお花」
振り向くと、駅の清掃員の名札をつけた、小柄な女性がにこやかに立っていた。皺の刻まれた顔は、まるで使い古された革製品のように柔らかい光沢を放っている。
「ええ、まあ…」
健太はどきりとした。この人なら何か知っているかもしれない。
「毎日、違う花が置かれてるんですよ。誰かの忘れ物なんですかね?」
探るように尋ねると、老婆は「さあ、どうなんだろうねえ」と首を傾げた。「でも、誰かさんの心を和ませてくれてるなら、忘れ物でもいいものだね」。そう言って優しく微笑むと、彼女は清掃用具のカートを押して、ゆっくりと雑踏の中へ消えていった。
老婆の言葉は、健太の心に小さな棘のように刺さった。誰かさんの心。それは、紛れもなく自分のことだった。自分は、この花に心を和ませてもらっていた。その事実に気づいた瞬間、健太は言いようのない羞恥と、ほんの少しの温かさを感じていた。
第三章 夜明けの告白
謎は解けないまま、季節は初夏を迎えようとしていた。健太の中の小さな好奇心は、いつしか無視できないほどの大きさに膨れ上がっていた。彼はついに、夜明け前から駅で張り込むことを決意した。平日の朝、まだ空が藍色に染まる午前四時半。健太は柱の陰に身を潜め、固唾を飲んでベンチを見つめていた。
鳥のさえずりが聞こえ始め、東の空が白み始めた頃、人影が現れた。見覚えのある姿。清掃員の、あの老婆だった。彼女は手慣れた様子でホームを掃き清め、例のベンチに近づく。健太は息を止めた。やはり、彼女が花の送り主だったのだ。
しかし、次の瞬間、健太の予想は根底から覆された。老婆はベンチに花を「置いた」のではない。そこに置かれていた一輪のひまわりを、慈しむような手つきでそっと拾い上げたのだ。そして、持っていた小さなビニール袋に丁寧に入れると、何事もなかったかのようにその場を去ろうとした。
違う。彼女は犯人じゃない。花を「片付けて」いたんだ。
健太が混乱していると、入れ違うようにして、もう一つの人影がホームに現れた。まだあどけなさの残る、高校生の少年だった。彼は周囲を不安げに見回し、誰の姿もないことを確認すると、おずおずとベンチに近づいた。そして、学生カバンから大切そうに一輪の花――白いユリ――を取り出し、そっとベンチの上に置いた。彼はそこに数秒間立ち尽くし、まるで祈るかのように目を閉じると、すぐに踵を返して足早に去っていった。
これだ。これが真実だ。健太は衝動的に少年を追いかけ、その肩を掴んだ。
「待ってくれ!」
少年はビクリと体を震わせ、怯えた目で健太を見上げた。
「あの、ベンチの花…君が?」
観念したように、少年は小さく頷いた。その瞳は、朝露に濡れた葉のように潤んでいた。
「どうして、あんなことを…」
健太の問いに、少年はしばらく黙り込んでいたが、やがて、堰を切ったようにぽつりぽつりと語り始めた。
一年前の今日、彼の双子の妹が、この駅で事故に遭って亡くなったこと。妹は花が大好きで、植物図鑑を抱えて野原を駆け回るような子だったこと。だから、せめてもの供養に、妹の月命日だけでなく、毎日、彼女が好きだった花をここに手向けているのだと。
「でも、駅に供え物なんてしたら、迷惑だって分かってるから…。だから、始発が動く前に、誰にも見られないように置いて、すぐに立ち去るようにしてたんです」
健太は言葉を失った。自分へのメッセージだと思っていた花は、見知らぬ少年が亡き妹へ捧げる、深く、静かな祈りそのものだった。自己中心的な自分の幻想が、ガラスのように砕け散る音がした。
「じゃあ、あの清掃員の人は…」
「たぶん、気づいてるんだと思います」。少年は少しだけ微笑んだ。「僕が花を置いていること。そして、これが誰かの忘れ物じゃないってこと。だからきっと、ゴミとして処分される前に、毎朝そっと片付けてくれてるんだと…思います」
少年の言葉が、健太の胸を強く打った。そこにあったのは、謎でもミステリーでもない。ただ、一人の少年の痛切な哀悼と、それを見守る一人の老婆の、声なき優しさだった。自分がその中心にいるかのように思い上がっていた日常の裏側で、こんなにも切実で、温かい物語が紡がれていたのだ。健太は自分の愚かさに、顔が焼けつくような思いがした。
第四章 見えない花束
その日を境に、水島健太の世界は一変した。灰色のフィルターが取り払われ、世界は本来の鮮やかな色彩を取り戻したかのようだった。駅の雑踏も、無表情な人々の顔も、以前とは全く違って見えた。この人々の中にも、それぞれに語られない物語があり、悲しみや、喜びや、そして静かな優しさが息づいているのかもしれない。そう思うと、無関心だったはずの世界が、急に愛おしいものに感じられた。
健太の行動も変わった。彼は翌日から、出勤前に小さな花屋に寄るようになった。そして、少年が供えた花の少し離れた場所に、自分も一輪の花をそっと置くようになった。それは誰に対するものでもなかった。少年への共感か、その妹への追悼か、あるいは老婆への感謝か。彼自身にも分からなかったが、そうせずにはいられなかった。
ある激しい雨の日の朝。健太は傘をさし、いつものようにホームの柱の陰から見ていた。ずぶ濡れになりながら花を供える少年。そのすぐ後にやってきた老婆。彼女はいつものように少年の花を拾い上げ、そして、健太が置いたもう一輪の花も手に取った。彼女は二輪の花をしばらく見つめると、ふと、清掃用具室の方へ歩いて行った。そして、持っていた空のペットボトルに水を入れ、即席の一輪挿しを作ると、その二輪の花を飾り、用具室の小さな窓辺にそっと置いた。
「ここなら、もう少しだけ咲いていられるかねえ」
誰に言うでもない、優しい呟き。その光景を目にした瞬間、健太の頬を、雨とは違う熱い雫が伝っていくのが分かった。見えないところで交わされる、声なき対話。優しさの連鎖。世界はこんなにも、静かな奇跡に満ちていたのか。
数週間後、健太は事務所の会議で、新しいプロジェクトを提案していた。
「『日常に隠された、名もなき物語』。これをテーマにしたキャンペーンを展開したいと考えています」
彼の言葉には、以前の彼からは想像もできないほどの熱と力がこもっていた。同僚たちは、人が変わったかのような健太の姿に目を丸くしている。
今、健太は駅のベンチに座っている。もうそこには、花は置かれていない。少年は、おそらく心の区切りをつけたのだろう。それでいい、と健太は思った。
けれど、彼には見える。ベンチの上に、これまで供えられてきた無数の花々が、幻のように咲き誇っているのが。ひまわりも、ユリも、ガーベラも。それらは、少年の祈りと、老婆の優しさと、そして、それに気づくことができた自分の心の変化を束ねた、見えない花束のようだった。
日常は、何も変わらない。電車は走り、人々は行き交う。しかし、健太にとって、その風景はもはや透明ではなかった。無数の物語と感情が織りなす、豊かで、かけがえのないタペストリーに見えていた。彼の心には、決して消えることのない、温かい光が確かに灯っていた。