第一章 親友が遺した予言書
相葉拓海が死んだ、という知らせは、梅雨の合間の、やけに日差しが強い日の午後にもたらされた。電話の向こうで聞こえる事務的な声が、まるで遠い国の出来事を語るように、現実感なく俺の鼓膜を滑っていく。交差点での、トラックによる追突事故。ほぼ即死だったらしい。
俺、高村圭介にとって、拓海は唯一無二の親友だった。システムエンジニアとして、論理と効率を世界のすべてだと信じて疑わない俺とは正反対の男。売れない画家で、いつも金に困っていたが、その瞳はいつだって子供のようにキラキラと輝いていた。「圭介、世界はさ、お前が思ってるよりずっとカラフルなんだぜ」が口癖で、俺のモノトーンの日常に、無理やり原色の絵の具を塗りたくるような男だった。
拓海の葬儀が終わり、彼の両親に頼まれて遺品整理を手伝うことになった。四畳半一間の、絵の具の匂いが染みついたアパート。そこが彼のアトリエであり、城だった。キャンバスの森をかき分け、乱雑に積まれた画集の山を崩さないように進む。悲しみよりも、虚無感が胸に広がっていた。この部屋の主がもういないという事実が、まだ受け入れられない。
その、奇妙なノートを見つけたのは、そんな時だった。ベッドの下の木箱に、大切そうに仕舞われていた、革張りの古びたノート。何気なく手に取り、ページをめくった俺は、息を呑んだ。そこには、拓海の、見慣れた少し癖のある文字で、未来の出来事が日記のように綴られていたのだ。
『六月十四日。雨。圭介が俺のアパートに来る。あいつ、無理して平気な顔をしてるだろうな』
それは、まさしく今日の日付だった。背筋に冷たいものが走る。偶然か? 彼の創作か? 俺はページをめくる手を止められなかった。
『六月十七日。晴れ。駅前のカフェ『レンガ亭』で、赤い傘を持った女性がコーヒーをこぼす。圭介はそれを見る』
『六月二十日。曇り。圭介が担当するプロジェクトで、致命的なバグが見つかる。しかし、深夜、思わぬところから解決のヒントを得る』
そして、ノートの最後のページ。そこには、俺の思考を完全に停止させる一文が記されていた。
『六月十日。快晴。俺は死ぬ。でも、大丈夫。ここからが、俺がお前に贈る、最後の作品の始まりだから。――これを、圭介が見つけること』
心臓が氷の塊になったように冷たく、重くなった。六月十日。それは、拓海が事故に遭った日だ。彼は、自分の死を知っていたというのか? これは、死んだ親友が遺した、悪趣味な冗談なのか。それとも、俺の知らない世界の法則を記した、本物の予言書なのだろか。絵の具の匂いに満ちた部屋で、俺はただ呆然と、そのノートを握りしめていた。
第二章 書き換えられた現実
論理で構築された俺の世界は、その日から静かに軋み始めた。拓海のノートは、まるで俺の日常を侵食するウィルスのように、頭から離れなかった。常識的に考えれば、すべては偶然か、拓海の悪戯だ。そう結論づけて、ノートを燃やしてしまえば楽になれる。だが、できなかった。最後のページに書かれた「お前に贈る、最後の作品」という言葉が、鉛のように心を縛り付けていた。
そして、六月十七日。ノートの記述を確かめずにはいられなかった俺は、仕事を早めに切り上げ、駅前のカフェ『レンガ亭』に向かっていた。馬鹿げている。そう自分に言い聞かせながらも、足は自然とそこへ向かう。ガラス張りの店内を見渡せるテラス席に座り、アイスコーヒーを注文した。予言の時刻とされる午後三時が近づくにつれ、心臓の鼓動が速くなる。
午後三時を少し過ぎた頃だった。一人の女性が店に入ってきた。その手には、鮮やかな赤い傘が握られている。俺は息を呑んだ。まさか。女性は窓際の席に座り、コーヒーを注文する。数分後、ウェイトレスがコーヒーを運んできた、その瞬間。女性が不意に立ち上がろうとして、テーブルの脚に躓いた。ガシャン、というけたたましい音と共に、コーヒーカップが宙を舞い、白いブラウスと床に褐色の染みを作った。
周りの客が驚きの声を上げる中、俺だけが、音のない世界にいるかのように、その光景をただ見つめていた。ノートの記述は、現実になった。
この日を境に、俺はノートの虜になった。六月二十日、予言通りプロジェクトで深刻なバグが見つかり、チームはパニックに陥った。俺も終電を逃し、会社で頭を抱えていた。その時、ふと目にした清掃員の女性が鼻歌で歌っていた古い民謡のフレーズが、全く関係ないはずのアルゴリズムの解決の糸口をくれたのだ。偶然とは思えなかった。
拓海は、本当に未来を知っていたのだ。俺の中で、世界の前提がガラガラと崩れ落ちていく。だが、それと同時に、新たな、そして最も大きな謎が浮かび上がってきた。なぜだ。なぜ拓海は、自分の死を予知していながら、それを避けようとしなかったんだ? 何もせず、ただ交差点でトラックに轢かれるのを待っていたというのか?
ノートを読み返すたび、拓海の存在がより濃く感じられた。ページの間々には、「圭介はきっと、この頃には仕事で認められてるはず」「あいつ、ちゃんと飯食ってるかな」といった、俺を気遣う言葉が散りばめられていた。それは、生前のあいつが俺にかける言葉と全く同じ温度を持っていた。友情だけは、予言や論理を超えて、確かにそこにあった。だが、その友情が深ければ深いほど、彼の死の謎は、俺の心を締め付けた。
第三章 世界で最も優しい嘘
ノートの記述は、些細な出来事を経て、一つの目的地を示していた。『七月七日。七夕の夜。午後七時に、俺たちが出会ったあの丘に来てくれ。そこで、最後の答えが待っている』
七月七日。俺は会社を休み、夕暮れの光が街をオレンジ色に染める中、電車を乗り継いで、大学時代によく拓海と二人で訪れた丘へと向かった。そこは街を一望できる、小さな公園だった。俺たちが夢を語り、時には喧嘩もし、そして肩を並べて夜景を眺めた、思い出の場所。
約束の午後七時。丘の上には誰もいなかった。ただ、古びたベンチの上に、ぽつんと一冊のスケッチブックが置かれているだけだった。拓海がいつも持ち歩いていた、くたびれたスケッチブック。俺はそれを手に取り、ゆっくりと開いた。
最初のページには、拓海の文字でこう書かれていた。
『圭介へ。ここまで来てくれて、ありがとう。驚かせてごめんな。実は、あのノートは未来予知のノートじゃない。俺が書いた、壮大なフィクションだ』
フィクション? 頭が真っ白になった。意味が分からなかった。ページをめくると、そこには緻密な計画書が、拓海のイラスト付きで描かれていた。
『計画① カフェ『レンガ亭』の赤い傘の女性。彼女は、俺が所属している劇団の女優、夏美さん。日当五千円でお願いした。圭介の顔写真は渡してある』
『計画② プロジェクトのバグ。これは予知できないから、清掃員の田中さんにお願いした。圭介が困っていたら、この歌を歌ってくれって。ヒントになるかは賭けだったけどな』
『協力者リスト』として、何人もの名前と顔のスケッチが続く。古本屋の店主、近所の子供たち、行きつけの飲み屋のマスター。俺がノートの予言だと思っていた出来事は、すべてが拓海によって仕組まれた、壮大な舞台劇だったのだ。
俺は愕然として、その場に座り込んだ。騙されていた。だが、怒りは湧いてこなかった。ただ、途方もない感情の波に襲われ、言葉を失った。スケッチブックの最後のページに、その理由が書かれていた。
『圭介。俺、癌なんだ。末期の。医者には、持って半年だって言われた。お前に言うか迷ったけど、お前のことだから、きっと自分のせいみたいに思い詰めるだろ。だから、黙ってることにした。
でも、俺がいなくなった後、お前がまた一人きりの世界に閉じこもっちまうのが、何より怖かった。お前は、俺がいないと駄目なんだよ。いや、俺が、お前がいないと駄目だったのかもしれないな。
だから、考えたんだ。俺にできる、最後の悪戯を。俺がお前に残せる、最高の作品を。
このノートは、予言書じゃない。お前を、俺が愛した人たちと繋ぐための、宝の地図だ。俺の描いた登場人物たちは、みんな実在する。みんな、お前のことを知ってる。だから、会いに行ってみてくれ。彼らは、今日からお前の友達だ。
じゃあな、親友。俺の人生は、お前がいたから、最高にカラフルだったぜ』
涙が、後から後から溢れて止まらなかった。未来予知なんかじゃなかった。超常現象でもなかった。そこにあったのは、ただ、一人の親友が、もう一人の親友のために遺した、あまりにも深く、不器用で、そして世界で最も優しい嘘だった。論理や効率では到底たどり着けない、人間の想いの計り知れない温かさに、俺はただ打ちのめされていた。
第四章 未完成の肖像画
その日を境に、俺の世界は色を取り戻し始めた。いや、今まで見えていなかった色が見えるようになった、と言うべきか。俺は拓海が遺した「宝の地図」を手に、彼の協力者たちを一人ずつ訪ねて回った。
カフェでコーヒーをこぼした女優の夏美さんは、俺の顔を見るなり「あ、高村さん!拓海くんから、いつも話を聞いてましたよ」と太陽のように笑った。清掃員の田中さんは、「あの子は、いつも人のことばかり心配する子だったねえ」と目を細めた。彼らは皆、拓海という太陽に照らされた向日葵のように、温かく、真っ直ぐな人たちだった。彼らと話すうちに、俺は知らなかった拓海の顔をたくさん知った。そして、拓海を通して、彼らもまた、俺という人間を知ってくれていた。頑固で、人付き合いが下手で、でも根は優しいやつだと。
人との間に壁を作っていたのは、俺自身だった。拓海は、その壁を、命を賭した最後の作品で、内側から壊してくれたのだ。
数週間後、俺は再び拓海のアトリエを訪れた。もう、絵の具の匂いは悲しみの匂いではなかった。それは、親友が生きた証の、誇らしい香りだった。部屋の隅に、イーゼルに立てかけられたままの、一枚の大きなキャンバスが目に入った。それは、描きかけの絵だった。
近づいて、息を呑んだ。
そこには、大勢の人々が描かれていた。夏美さん、田中さん、飲み屋のマスター、古本屋の店主。拓海の「協力者」たちが、皆、楽しそうに笑っている。そして、その輪の中心に、まだ輪郭線だけで彩色のされていない、一人の男がいた。少し照れくさそうに、でも、どこか嬉しそうに微笑んでいる、俺の姿だった。
拓海が最後に描きたかったもの。それは、予言された未来ではなく、俺が、彼の愛した人々と繋がり、笑い合っている未来の姿だったのだ。これが、拓海が本当に見たかった景色だったのだ。
俺はキャンバスにそっと指で触れた。涙が一筋、頬を伝った。でも、それは悲しみの涙ではなかった。ありがとう、拓海。お前の遺したこの世界で、俺はもう少し、不器用に、でもカラフルに生きてみるよ。
窓の外には、拓海が好きだった、どこまでも突き抜けるような青い空が広がっていた。それはまるで、俺の新しい始まりを祝福してくれているようだった。