玻璃(はり)の海の、未完の約束

玻璃(はり)の海の、未完の約束

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第一章 琥珀色の時間と謎の訪問者

古びたインクと紙の匂いが満ちる空間で、僕は埃を払うように日々をやり過ごしていた。神保町の裏路地に佇む「柏木古書店」。祖父から受け継いだその店は、僕にとって世界のすべてであり、同時に世界からの避難場所でもあった。背表紙の並びだけが秩序で、物語の中だけが真実。僕は、現実の人間関係がもたらす予測不能な感情の揺らぎより、結末の決まった物語に安らぎを見出す、そんな二十八歳だった。

彼女が初めて現れたのは、木犀の香りが街路に満ち始めた九月の午後だった。月島栞と名乗った彼女は、まるで陽光を編み込んだような柔らかな雰囲気を持っていた。彼女は決まって、文庫本の棚の一番隅にある、一冊の本を手に取った。広岡渉という、今では誰も知らない作家が書いた『玻璃の海の約束』という恋愛小説だ。

初日、彼女はそれを熱心に立ち読みし、夕暮れの鐘が鳴ると、深々と頭を下げて帰っていった。次の日も、その次の日も。栞は毎日同じ時間にやってきては、同じ本を手に取り、同じ場所で、まるで初めて読むかのようにその世界に没入するのだ。買っていく素振りは一切ない。

一週間が過ぎた頃、僕の内の静かな湖面に、小さな、しかし確かな波紋が立ち始めた。苛立ちと、それ以上に強い好奇心。

「あの、お客さん」

ついに僕は声をかけた。栞はゆっくりと顔を上げ、大きな瞳で僕を見る。その瞳は、物語の海の深さを映しているようだった。

「その本、よほどお好きなんですね。もう内容を暗記できるんじゃないですか?」

少し棘のある言い方だったかもしれない。だが、彼女は怒るでもなく、ふわりと花が綻ぶように微笑んだ。

「ええ、とても。でも、不思議なんです。何度読んでも、毎日違う発見があって。昨日見えなかった景色が、今日は見えるんです」

その答えは、僕の予想を軽やかに裏切った。彼女の言葉は、まるで詩の一節のように僕の心に染み込んだ。その日から、僕の日常は静かに色を変え始めた。彼女がその本を読む姿をカウンターから盗み見ること。閉店間際に交わす、他愛もない会話。それらは、僕の琥珀色の時間に差し込んだ、一筋の鮮やかな光となった。なぜ彼女は、この一冊にこれほどまでに惹きつけられるのか。その謎は、やがて僕の心を掴んで離さない、甘やかな引力になっていった。

第二章 指先が触れる、物語の温度

栞との静かな交流は、古書店の埃っぽい空気に新しい香りを運んできた。僕たちは、閉店後のわずかな時間、言葉を交わすようになった。話題の中心は、いつも『玻璃の海の約束』だった。

「この主人公、航(わたる)は少し不器用ですよね。もっと素直になればいいのに」

栞は、本のページを愛おしそうに撫でながら言う。

「でも、その不器用さが彼の誠実さの表れなんじゃないですか」

僕は、いつの間にか彼女と物語を語り合うために、その本を何度も読み返すようになっていた。彼女は、登場人物たちをまるで古い友人のように語った。彼らの喜びを自分のことのように笑い、彼らの哀しみに眉をひそめる。その感受性の豊かさに、僕は心を揺さぶられた。人を遠ざけ、物語の世界に閉じこもっていた僕の心に、栞はゆっくりと、しかし確実に踏み込んできた。

「柏木さんは、どうして古本屋さんになったんですか?」

ある夜、彼女は唐突に尋ねた。僕は少し戸惑いながら、人と深く関わるのが苦手なこと、言葉の裏を探り合うような関係に疲れてしまった過去を、ぽつりぽつりと打ち明けた。栞は何も言わず、ただ静かに僕の話に耳を傾けていた。その沈黙は、どんな慰めの言葉よりも優しく、僕の心を解きほぐしていくようだった。

栞が店に来る日。僕は朝から少しだけ落ち着かない。彼女が来ない日。僕は一日中、時計の針の音を気にしている。ああ、これが恋というものなのだろう。その自覚は、苦さと甘さを伴って僕の中に広がった。

十一月に入り、街路樹の葉が赤や黄色に染まる頃、僕は一つの決心をした。あの『玻璃の海の約束』は、店の最後の在庫だった。少し日焼けし、角が擦り切れたその一冊を、彼女にプレゼントしよう。僕のこの気持ちを、ささやかな形で伝えたかった。丁寧に埃を払い、新しいブックカバーをかける。僕の指先が触れる本の温度が、まるで彼女の体温のように感じられた。明日、彼女が来たら渡そう。僕の心は、期待と不安で張り裂けそうだった。

第三章 玻璃の海の、未完の約束

翌日の午後、栞はいつものように店に現れた。しかし、その表情はいつもの陽光のような明るさを失い、薄い雲に覆われているようだった。僕が「こんにちは」と声をかけても、力なく微笑むだけだ。カウンターの下に用意したプレゼントを渡すタイミングを、僕は完全に見失ってしまった。

彼女は『玻璃の海の約束』を手に取ると、いつもの場所で読み始めた。だが、その視線は頻繁に宙を彷徨い、時折、か細いため息が漏れた。閉店時間が近づき、僕が声をかけようとした、その時だった。

「柏木さん」

栞が先に口を開いた。

「私、もうここには来られなくなるかもしれません」

その言葉は、冷たい刃のように僕の胸を突き刺した。頭が真っ白になる。

「どうして……?引越しでもするんですか?」

やっとの思いで絞り出した声は、自分でも情けないほど震えていた。栞は静かに首を横に振る。そして、今まで見たことのない、深い哀しみを湛えた瞳で僕を見つめた。

「この本、『玻璃の海の約束』は……私が愛した人が書いた、未完の小説なんです」

時が止まった。古書店の静寂が、耳鳴りのように僕の頭の中で反響する。

「彼は、二年前に交通事故で亡くなりました。この本を書き上げることなく……。出版社に持ち込む直前だった原稿だけが、彼の部屋に残されていました。私は、彼がどんな結末をこの物語に与えたかったのか、それを知りたくて……。彼が何を伝えたかったのか、その欠片を探して、毎日ここに来ていたんです」

彼女の言葉の一つ一つが、僕が築き上げてきたささやかな恋の世界を、根底から崩壊させていく。僕が惹かれた彼女の謎は、僕の知らない誰かとの、あまりにも深く、そして悲しい愛の物語だったのだ。

「でも、もう時間がなくて……。私、彼に会いに行かなくちゃいけないから」

彼女はそう言うと、儚く微笑んだ。その言葉の意味を、僕は悟ってしまった。彼女自身が、命の灯火が消えかけているということを。僕の恋心は、彼女の計り知れない喪失感と、死の影の上にあったのか。無力感が全身を襲う。だが、それと同時に、どうしようもないほど強い想いが込み上げてきた。この人を、この人の心を、どうにかして救いたい。僕に、何ができる?

第四章 きみが紡いだ、最後の頁

その日から、僕は憑かれたように動いた。栞のために、僕にできることは何か。答えは一つしかなかった。古書店の店主として、僕が持つすべての知識と人脈を使い、彼女の亡き恋人、広岡渉という作家の痕跡を辿ることだった。

古い文芸誌を漁り、絶版になった彼のデビュー作を探し出し、出版社の知人にまで連絡を取った。そして、ついに一つの手がかりを見つけ出した。小説の中に繰り返し登場する「玻璃の海」という言葉。それは、ガラス細工の工房が点在する、実在する海辺の町の古い呼び名だったのだ。

「月島さん、一緒に行ってくれませんか」

僕は震える声で、栞に電話をかけた。「その場所に、彼が伝えたかった結末のヒントがあるかもしれない」

数日の沈黙の後、彼女から「行きます」という短い返事が届いた。

二人で向かったその町は、冬の澄んだ空気が海風に乗り、ガラスの風鈴がちりちりと鳴る、静かで美しい場所だった。僕たちは、小説に描写されていた小さな岬に立った。眼下に広がる海は、午後の陽光を浴びて、まるで砕かれたガラスのようにキラキラと輝いていた。

「彼は、この景色が好きでした」

栞は、遠くを見つめながら静かに語り始めた。彼との出会い、共に過ごした日々、そして彼がどんな想いでこの物語を書いていたか。航という不器用な主人公は、彼自身の投影だったこと。物語の結末を、ずっと二人で話し合っていたこと。

「彼は言っていました。『結末は重要じゃない。大事なのは、誰かを愛したその時間そのものだ』って。でも私は、どうしても結末が欲しかった。彼が生きていた証が、形として欲しかったんです」

彼女の話を聞きながら、僕の心の中に、一つの結末が像を結び始めていた。それは、ハッピーエンドでも、バッドエンドでもない。

「月島さん」僕は彼女のほうを向き、ゆっくりと言葉を紡いだ。「結末は、一つじゃなくていいのかもしれない。彼が本当に伝えたかったのは、物語の終わり方じゃない。あなたを愛していたという、その事実。あなたが彼のことを想って過ごした、この二年間の時間。それこそが、彼が望んだ『玻璃の海の約束』の、本当の続きだったんじゃないでしょうか」

僕の言葉に、栞の瞳から大粒の涙が零れ落ちた。それは哀しみの涙でありながら、どこか安堵の色を浮かべていた。彼女は、長すぎる呪縛から解き放たれたように、深く、深く息を吸った。

「ありがとう、柏木さん」

その声は、海風に溶けていった。

この旅で、僕は変わった。ただ本を売る人間から、物語に込められた人の想いを繋ぎ、誰かの心に寄り添うことができる人間へ。彼女が僕を成長させてくれたのだ。

数ヶ月後、春の気配が街を満たし始めた頃。栞はもう、店には来なかった。

ある日、一人の若い女性が店を訪れた。栞の妹だと名乗った彼女は、僕に一通の封筒を手渡した。中には、栞からの手紙が入っていた。

そこには、僕への感謝の言葉と共に、彼女が考えたという『玻璃の海の約束』の結末が、短い物語として綴られていた。愛する人を失ったヒロインが、彼の思い出を胸に、涙を拭って、新しい朝に向かって一歩を踏み出すという、希望に満ちた結末だった。

そして、手紙の最後には、こう追伸があった。

『柏木さん、あなたの物語も、素敵な結末になりますように』

僕は手紙をそっと閉じ、窓の外を見上げた。雨上がりの空に、淡く、消え入りそうな虹がかかっている。栞との出会いが、僕の人生という物語の、最も美しく、そして切ない一頁になったことを知った。僕は、失われた愛の物語と、これから始まる僕自身の物語に想いを馳せ、静かに微笑んだ。その微笑みは、もう昔のような諦観の色を帯びてはいなかった。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

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