君の心の味がするまで

君の心の味がするまで

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第一章 静寂の甘味

水島湊(みずしま みなと)にとって、世界は常に味に満ちていた。それは比喩ではない。満員電車の車内は、焦燥感の酸味、嫉妬のえぐみ、疲労の鉄錆びた味で舌が痺れる地獄だった。楽しげな会話が聞こえれば蜂蜜のような甘さが、怒声が響けば唐辛子を丸ごと齧ったような辛さが、口内を支配する。湊は生まれつき、他人の強い感情を「味」として感じてしまう共感覚の一種を持っていた。

この特異な体質のせいで、湊は深く他人と関わることを避けて生きてきた。感情の奔流は、どんな美食も台無しにする暴力的な調味料だったからだ。彼が選んだ職業はパティシエ。自らの手で、純粋で、偽りのない、ただひたすらに優しい「甘さ」だけを創り出せる唯一の聖域。客の「美味しい」という喜びの味がふわりと口に広がる瞬間だけが、彼の呪われた味覚が祝福に変わるひとときだった。

その日、彼の聖域に、一人の女性が迷い込んできた。

小野寺凛(おのでら りん)。それが彼女の名前だった。雨の匂いが残る午後のパティスリー『Le Calme(ル・カルム)』に、彼女は音もなく現れた。色素の薄い髪、静かな湖面を思わせる瞳。表情に乏しく、何を考えているのか読み取れない。彼女がショーケースの前に立った時、湊は息を呑んだ。

味がしない。

何の味もしなかった。喜びも、悲しみも、期待も、迷いも。まるで上質な蒸留水のように、彼女の周りだけがクリアな無味無臭の世界だった。湊の舌が、生まれて初めて本当の「休息」を得た瞬間だった。

「…おすすめは、ありますか?」

鈴を転がすような、と形容するにはあまりに静かで、けれど芯のある声だった。湊は我に返り、ショーケースの中で一番自信のある、苺とピスタチオのムースを指さした。

「こちらなど、いかがでしょう。ピスタチオの香ばしさと、苺の甘酸っぱさのバランスが…」

説明しながらも、湊の意識は彼女から発せられる「無」に集中していた。彼女はただ静かに頷き、そのムースとコーヒーを注文して窓際の席に座った。湊は厨房の奥から、そっと彼女を盗み見た。フォークを入れ、一口、また一口と、ゆっくりとムースを口に運ぶ。その所作は美しかったが、彼女の表情は変わらない。もちろん、湊の口にも何の味も広がらなかった。

「美味しい」という、あのキラキラとした砂糖菓子のような甘い味さえ、しない。

それなのに、湊は奇妙な安らぎと、胸の奥がちりりと焦げるような強い興味を覚えていた。味がしない彼女だからこそ、もっと知りたい。彼女が本当に感じている「味」を、この舌で確かめてみたい。湊の人生で初めて抱いた、矛盾した渇望だった。

第二章 無味の幸福

凛は、それから週に二、三度、店を訪れるようになった。いつも同じ窓際の席で、湊のおすすめのケーキを静かに食べる。二人の間に交わされる言葉は少なかったが、その沈黙は湊にとって心地よい毛布のようだった。感情の味がしない凛との時間は、湊が唯一、ありのままでいられる安息の場所となった。

やがて二人は店の外で会うようになり、自然な流れで恋人になった。映画を観ても、公園を散歩しても、凛の表情が大きく動くことはなかった。だが、湊の手を握る彼女の指先はいつも温かく、その温もりだけが、彼女の感情を伝えてくれているような気がした。

湊は幸福だった。人生で初めて、誰かをこんなにも愛おしいと思った。感情の洪水に溺れることなく、ただ純粋に、一人の人間として相手を見つめることができる。それは奇跡に近いことだった。

しかし、その幸福は、薄氷の上にあるような危うさを孕んでいた。

「湊さんの作るケーキ、本当に美味しい。いつも、すごく優しい味がする」

ある夜、そう言って微笑んだ凛の顔を見ても、湊の舌には何の味も感じられなかった。優しい味? それはどんな味だ? 甘いのか、それとも、もっと複雑な温かい味がするのか。湊には分からない。彼女が浮かべる穏やかな微笑みの裏側で、彼女の心が何を感じているのか、全く想像ができなかった。

愛している。その気持ちに嘘はない。だが、自分は彼女の心を何一つ理解できていないのではないか。彼女が本当に喜んでいるのか、悲しんでいるのかさえ、分からない。湊が感じていた安らぎは、いつしか「無理解」という名の深い孤独に変わり始めていた。

「凛は、怒ったり、悲しくなったりしないの?」

ある時、思い切って尋ねてみたことがある。凛は少しだけ目を伏せ、静かに答えた。

「あまり…感じないの。昔から、感情の起伏が少ないみたい」

その答えは、湊の胸に小さな棘となって突き刺さった。自分の能力が壊れたわけではない。彼女が、本当に「感じない」人間なのだとしたら? 感情の味がしない彼女に救われたはずが、今ではその「無味」が、二人を隔てる透明な壁のように感じられてならなかった。このままではいけない。そう思うのに、どうすればいいのか分からなかった。

第三章 涙のレシピ

関係がぎくしゃくし始めたのは、そんな不安が頂点に達した頃だった。湊は、凛の心が分からない焦りから、無意識に彼女を試すような言動を取るようになっていた。わざと他の女性の話をしたり、約束の時間に少しだけ遅れたり。しかし、凛はいつもと変わらず、静かなままだった。嫉妬の苦味も、怒りの辛味も、失望の塩味も、一切しない。湊は自分の浅ましさに自己嫌悪しながら、ますます深い闇に落ちていった。

そんなある日、風邪を引いた凛を見舞うため、初めて彼女の部屋を訪れた。部屋は彼女自身を映したように、物が少なく、けれど清潔に整えられていた。眠っている凛の額に濡れたタオルを替え、何か温かいものを作ろうとキッチンに向かった時、本棚の隅に置かれた一冊の古いノートが目に留まった。

それは、凛の日記だった。見てはいけない。そう頭では分かっていたのに、湊の指は抗えなかった。彼女を理解したいという渇望が、倫理観を麻痺させていた。

『十三歳の夏。家族旅行の帰り、車が崖から落ちた。私だけが、助かった』

湊は息を呑んだ。日記は、淡々とした文字で、その後の彼女の心の軌跡を綴っていた。両親と兄を一度に失った少女が、その大きすぎる悲しみと罪悪感から心を護るため、無意識のうちに感情に蓋をするようになったこと。喜びも、怒りも、悲しみさえも、感じないように。感じてはいけない、と。

『感情は、痛い。だから、もういらない』

ページをめくる手が震えた。湊は、とんでもない勘違いをしていたのだ。彼女は感情がない人間なのではない。ありすぎるほどの感情を、心の奥底に、誰にも届かない深海に沈めているだけなのだ。

そして、湊の心を鷲掴みにする一文があった。

『湊さんのケーキを食べた時だけ、胸の奥が少しだけ温かくなる。昔、お母さんが作ってくれたレモンパイの味を、ほんの少しだけ思い出す。あの味は、とても甘くて、少しだけしょっぱかった』

レモンパイ。甘くて、しょっぱい。

その瞬間、湊は全てを理解した。凛から「味がしなかった」のではない。湊が今まで感じてきたのは、彼女が常に纏っていた「無味無臭の、静かな悲しみ」そのものだったのだ。それはあまりに巨大で、深く、そして静かだったために、湊の舌はそれを「無」としか認識できなかった。彼が感じていた安らぎは、安らぎなどではなかった。それは、巨大な喪失が生み出した、魂の「静寂」だったのだ。

湊の頬を、涙が伝った。ごめん、凛。気づかなくてごめん。君はずっと、一人で凍えるような静寂の中にいたのか。

湊は日記をそっと閉じ、キッチンに立った。彼の中で、何かが決定的に変わった。呪いだと思っていたこの能力は、彼女を救うために与えられたものなのかもしれない。彼女の失われた味を、感情を取り戻す。世界で一番、優しくて、温かいケーキを作ろう。彼女のお母さんのレモンパイには敵わないかもしれない。でも、僕なりの「涙のレシピ」で、彼女の心を溶かしてみせる。湊は、パティシエとして、一人の人間として、初めて自分の能力と正面から向き合う決意をした。

第四章 はじまりのひとくち

湊はそれから数日間、店を休み、レモンパイの試作に没頭した。凛の日記にあった「甘くて、少しだけしょっぱい」という言葉だけが頼りだった。最高のレモン、バター、小麦粉を取り寄せ、配合をミリグラム単位で調整していく。オーブンから漂う甘酸っぱい香りが、湊の決意を後押しした。彼が目指したのは、単に美味しいパイではない。凛の心の深海に沈んだ、温かい記憶の味を呼び覚ますための、魂のケーキだった。

そして完成したレモンパイを手に、湊は再び凛の部屋を訪れた。

「凛のために、焼いてきたんだ」

目を覚ました凛は、少し驚いたようにパイを見つめた。湊は皿に取り分け、フォークを添えて彼女の前に置く。部屋に、バターとレモンの優しい香りが満ちた。

「…いただきます」

凛は、いつもと同じ静かな声でそう言うと、小さなフォークでパイの先端をそっと掬った。湊は固唾を飲んで見守る。彼女がそれを口に運んだ、その瞬間。

凛の大きな瞳から、ぽろり、と一粒の涙がこぼれ落ちた。

そして、湊の口の中に、信じられないほどの優しい味が広がった。それは、陽だまりのような温かい甘さ。絞りたての果汁のような鮮烈な喜び。そして、後から追いかけてくる、ほんのりと切ない塩味。懐かしさ、愛おしさ、悲しさ、そして感謝。数えきれない感情が溶け合った、複雑で、深く、そして圧倒的に美しい「味」。

「…おいしい」

凛は、泣きながら笑っていた。それは湊が今まで見たことのない、完璧な笑顔だった。

「お母さんの味だ。でも、もっと優しい。…湊さんの味がする」

その言葉とともに、再び甘く切ない感情の波が湊の舌を洗い流す。ああ、これが、君の心の味だったのか。こんなにも温かくて、綺麗で、愛おしい味だったのか。

湊は凛の隣に座り、その震える肩をそっと抱きしめた。もう、言葉はいらなかった。凛の感情が完全に戻ったわけではないだろう。心の傷が癒えるには、長い時間がかかるのかもしれない。

だが、それでいい。湊には、この呪わしくも愛おしい味覚がある。これから、何度でも君のためにケーキを焼こう。君が笑うたびに広がる甘さを、涙するたびに感じる塩味を、そのすべてを僕が受け止めよう。

二人の間にはまだ、静かな時間が流れている。しかし、その静寂はもはや「無」ではなかった。それは、これから紡がれていく、数えきれないほどの感情の味に満ちた、温かい「はじまり」の味だった。

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