第一章 失われた色の恋
水野蒼(みずの あお)の世界は、千五百度の熱を帯びたガラスと、沈黙でできていた。海辺の町に構えた小さな工房「蒼硝舎(そうしょうしゃ)」。そこで彼は、溶けたガラスに息を吹き込み、形を与えるガラス工芸家として生きていた。彼の作るガラスは、海の深さや空のうつろいを写し取ったような、静かで切ない青色をしていた。
蒼には秘密があった。それは呪いとも言える、彼の本質を蝕む特異な体質だ。彼は、誰かを本気で愛してしまうと、その相手と共に過ごした大切な記憶から順に失っていくのだ。かつて一度だけ、身を焦がすような恋をしたことがある。笑い合った日、喧嘩した夜、初めて手を繋いだ瞬間のときめき。愛が深まるにつれて、それらの記憶は砂の城のように崩れ去り、最後には彼女の顔かたち、声、名前さえも思い出せなくなった。残ったのは、胸にぽっかりと空いた、理由のわからない喪失感だけ。以来、蒼は人と深く関わることを避け、孤独という名の鎧を纏って生きてきた。もう二度と、あの空虚を味わいたくはなかった。
その静寂を破ったのは、からん、とドアベルを鳴らして入ってきた一人の女性だった。
「わあ……すごい……」
彼女は、棚に並べられた蒼の作品群を見て、子供のように目を輝かせた。太陽を吸い込んだような明るい髪、快活な声。彼女は月島陽向(つきしま ひなた)と名乗った。新しく町の植物園に赴任してきた植物学者だという。
「この青、すごいですね。夜明け前の海の色みたい。でも、どこか寂しそう……」
陽向は、一つのグラスを手に取り、光にかざした。彼女の指先が触れただけで、その無機質なガラスに体温が宿ったように見えた。蒼は、自分の心臓が、炉の火とは違う熱でじくりと音を立てるのを感じ、慌てて目をそらした。
「……ただの青ですよ」
ぶっきらぼうな返事にも、陽向は気を悪くした様子もなく、にこりと笑った。
「ううん、違います。これは、水野さんの心の色なんでしょう?」
その言葉は、蒼が固く閉ざしていた心の扉を、いともたやすくこじ開けていくようだった。危険だ、と警報が鳴り響く。この女性を好きになってはいけない。彼女の笑顔を、この快活な声を、記憶から消し去る未来が待っているのなら、最初から知らない方がいい。蒼は、彼女から距離を取ろうと心に誓った。しかし、運命とは皮肉なもので、陽向はそれから何度も、蒼の工房を訪れるようになった。
第二章 積み木のようにもろい日々
陽向は、まるで乾いた土地に染み込む水のように、蒼の日常に溶け込んでいった。珍しい野草を小さな花瓶に生けて持ってきたり、植物園の温室に蒼を招待したりした。彼女といると、モノクロだった世界に色が灯るようだった。ガラスを吹く合間に交わす他愛ない会話。彼女が淹れてくれる、少し変わったハーブティーの香り。工房に響く彼女の笑い声。
蒼は必死に抵抗した。これは恋ではない、と自分に言い聞かせた。だが、積み木を一つずつ重ねるように、二人の時間は着実に積み上がっていく。ある雨の日、植物園の大きなガラス温室で、二人は雨音を聞いていた。熱帯のシダ植物が放つ湿った匂いが、二人を包む。
「ガラスって、植物と似てるかも」と陽向が言った。「どちらも、光と水と、少しの奇跡でできてる」
その横顔を見つめながら、蒼は抗うことを諦めた。ああ、好きだ。この人を、好きになってしまった。その自覚は、甘美な喜びであると同時に、絶望的な宣告でもあった。
恐怖は、すぐに現実のものとなった。ある朝、目覚めた蒼は、ふと、陽向と初めて会った日のことを思い出そうとして、頭の中に濃い霧がかかっていることに気づいた。彼女がどんな服を着ていたか、最初にどの作品を褒めてくれたか、その記憶が曖昧になっている。背筋を冷たい汗が伝った。始まったのだ。記憶の崩壊が。
それからというもの、蒼は悪夢にうなされるようになった。陽向との思い出が、まるで燃え尽きていくフィルムのように、端から白く消えていく夢だ。植物園の温室で交わした言葉も、彼女が好きだと言ったハーブティーの名前も、まるで他人の出来事のように遠ざかっていく。
蒼の苦悩に気づいたのだろう、陽向は何も聞かず、ただ静かにそばにいてくれた。しかし、その優しさこそが、蒼をさらに苦しめた。記憶を失っていく自分は、彼女を愛する資格があるのだろうか。空っぽの心で、彼女の隣に立ち続けることができるのだろうか。幸せな日々は、足元から崩れていく積み木のように、あまりにもろかった。
第三章 硝子のなかの残像
記憶の欠落は、容赦なく進行した。ある日、蒼は陽向が好きな花の名前を忘れ、別の日に、彼女の誕生日を忘れた。忘れるたびに、心に鋭い痛みが走る。それは、自分の手で、愛する人との繋がりを一つずつ断ち切っていくような、耐え難い苦痛だった。
ついに、蒼は決心した。陽向のすべてを忘れてしまう前に、彼女の前から消えなければならない。
「別れてほしい」
工房を訪れた陽向に、蒼は炉の火を見つめたまま告げた。背後で、陽向が息を呑む気配がする。
「どうして……?何か、私、悪いことした?」
震える声に、胸が張り裂けそうになる。振り向いて、抱きしめて、本当のことを言いたかった。君を愛している、でも、愛しているからこそ、君との思い出を失うのが怖いのだ、と。しかし、それを告げれば、彼女はきっと離れないだろう。そして、いずれ自分が彼女を完全に忘れてしまった時、彼女を深く傷つけることになる。
「君に飽きたんだ。もう、ここへは来ないでくれ」
絞り出したのは、人生で最も冷たく、醜い嘘だった。陽向は何も言わなかった。しばらくの沈黙の後、静かに工房のドアが閉まる音がした。蒼は、その場に崩れ落ち、声を殺して泣いた。炉の炎が、涙に濡れた彼の顔をゆらめきながら照らしていた。
陽向が去ってから、蒼は工房に閉じこもった。食事もろくに取らず、眠りもせず、ただ狂ったようにガラスを溶かし続けた。悲しみも、絶望も、すべてを千五百度の炎に焼き尽くしてしまいたかった。彼は無心で竿を回し、息を吹き込み、形を整えていく。何を創っているのか、自分でもわからなかった。
数日が経ち、ふと我に返った時、工房の冷却炉には、彼がここ数日で無意識に創り上げたガラスのオブジェがいくつも並んでいた。雫の形をしたもの、歪んだ球体、複雑に絡み合った蔓のようなもの。それらをぼんやりと眺めていた蒼は、ある一点に目を奪われた。
手のひらに収まるほどの、淡い緑色を帯びたガラス玉。何気なくそれを手に取り、光にかざした瞬間、蒼は息を呑んだ。
ガラス玉の内部に、信じられない光景が映し出されていた。それは、忘れたはずの、陽向と訪れた植物園の温室だった。シダの葉脈、ガラスの天井を叩く雨粒、そして、こちらを見て微笑む陽向の横顔。幻覚かと思った。だが、隣に置かれた雨粒の形をしたオブジェを手に取ると、そこには相合傘をして歩いた雨の日の街並みが、まるで封じ込められたように揺らめいていた。
蒼は、工房に並んだすべての作品を、震える手で一つずつ確認した。そこには、失われたはずの陽向との思い出が、色鮮やかな残像となって、一つひとつ宿っていたのだ。記憶は消えたのではなかった。彼の魂が、その喪失に耐えきれず、最も得意とするガラスという媒体を通して、愛の記憶を無意識のうちに保存していたのだ。それは呪いではなかった。喪失ではなく、愛を最も美しい形で永遠に留めるための、彼の魂が生み出した、あまりにも切ない「変換」という奇跡だった。
第四章 君という名の道標
工房に並ぶガラスのオブジェたち。それは、蒼が陽向と過ごした日々の、輝かしい墓標であり、同時に、消えることのない愛の証だった。彼は今、陽向の顔をはっきりと思い出すことができない。彼女の声を、その温もりを、記憶の中から手繰り寄せることはできない。けれど、このガラスたちが、彼の魂が、陽向を愛していると叫んでいた。
蒼は、工房にあるだけのクッション材で、それらのガラス細工を一つひとつ丁寧に梱包した。そして、大きな段ボール箱をいくつも抱え、工房を飛び出した。息を切らし、陽向が住むアパートのドアを叩く。
ドアを開けた陽向は、憔悴しきった蒼の姿と、彼が抱えるいくつもの箱を見て驚いていた。その瞳には、まだ悲しみの色が滲んでいる。
「水野さん……」
「陽向さん」
蒼は、息を整えながら言った。
「ごめんなさい。僕は、あなたのことを、もうあまり覚えていないんです。あなたの好きな花も、僕たちが交わした言葉も、ほとんど忘れてしまった」
陽向の顔が、絶望に歪むのがわかった。だが、蒼は続けた。
「でも、これを見てほしい」
彼は箱を開け、一つ、また一つと、思い出が封じ込められたガラス細工を取り出して、彼女の前に並べていった。
「僕の記憶は、ここにあります。僕の頭はあなたを忘れても、僕の魂は、あなたとの一瞬一瞬を、こうして形にして留めていた。僕はあなたのことを覚えていない。でも、このガラスたちが、僕がどれほどあなたを愛していたか、そして今も愛しているかを、物語っているんです」
陽向は、ガラスの中に揺らめく二人だけの情景を、食い入るように見つめていた。彼女の瞳から、大粒の涙がいくつもこぼれ落ち、並べられたガラス玉の上で小さく跳ねた。
やがて彼女は顔を上げ、涙に濡れたまま、最高の笑顔で微笑んだ。
「ばかだな、水野さんは」
そう言って、彼女は蒼の胸に飛び込んできた。
「大丈夫。これからは、私があなたの記憶になるから。あなたが忘れてしまったことを、私が何度でも話してあげる。そしてまた、新しい思い出を、一緒に作っていけばいい。最初から、何度でも始めましょう」
記憶ではなく、魂に刻まれた愛を頼りに、二人は再び手を取った。
数日後、蒼の工房では、炉の火が再び赤々と燃えていた。彼の前には、まだ形を成さない、熱く溶けたガラスの塊がある。それは、これから始まる二人の、最初の思い出を封じ込めるための器だった。たとえ明日、今日のことを忘れてしまっても、この硝子のなかの残像が、永遠に君という名の道標となって、僕を導いてくれるだろう。蒼は、新たな愛の記憶を吹き込むべく、静かに竿に口をつけた。