サイレント・デュエット

サイレント・デュエット

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第一章 無音の女

俺、水瀬響(みなせひびき)には、秘密がある。人の感情が「音」として聞こえるのだ。

幼い頃から、世界は不協和音に満ちていた。喜びは軽やかなフルートの旋律、怒りは耳障りなチェロの軋み、悲しみは窓を叩く冷たい雨音。音響設計士という仕事は、いわば天職だった。ノイズを制御し、美しい響きをデザインする。それは、混沌とした世界で俺が唯一、秩序を見出せる行為だったからだ。

だが、その能力は呪いでもあった。言葉と裏腹な心の音に幾度となく裏切られ、人の本音という名の騒音に疲れ果て、いつしか俺は他人との深い関わりを避けるようになっていた。心に分厚い防音壁を立て、孤独という名の静寂に安住していた。

その日も、俺は行きつけのカフェの隅で、押し寄せる音の洪水から耳を塞ぐように本を読んでいた。店内に渦巻く、店員の作り笑いのチープなシンセサイザー音、恋人の自慢話に隠された嫉妬の金管楽器、締め切りに追われる男の焦燥が刻む性急なビート。うんざりだ。

その時だった。ふと、店のすべての音が凪いだように感じた。いや、音が消えたわけじゃない。ただ一点、完全な「無音」の領域が生まれたのだ。視線を上げると、窓際の席に一人の女性が座っていた。

色素の薄い髪が午後の光を吸い込んで柔らかく輝き、白いブラウスが彼女の線の細さを際立たせている。手にした文庫本に静かに目を落とす横顔は、まるで一枚の絵画のようだった。だが、俺を惹きつけたのは彼女の美しさだけではない。彼女からは、何の音も聞こえなかった。生命活動が停止しているかのような、絶対的な静寂。周囲の雑音が嘘のように、彼女の周りだけが真空地帯になっている。

こんなことは初めてだった。人は、たとえ無表情を装っていても、心の中では常に何かしらの音を奏でている。退屈、安らぎ、虚無。どんな感情にも固有の音色がある。だが、彼女は違う。空っぽなのだ。

好奇心と、得体の知れない恐怖。そして、その静寂に対する抗いがたいほどの渇望。俺は気づけば席を立ち、彼女のテーブルに向かっていた。

「あの、すみません。その本、面白いですか?」

我ながら、あまりに陳腐な口実に顔が熱くなる。彼女――藤宮詩織(ふじみやしおり)は、ゆっくりと顔を上げた。驚いたように少しだけ見開かれた瞳は、深い森の湖のような色をしていた。そして、その瞳からも、何の音も聞こえてこない。

「ええ、とても」

彼女の声は、澄んでいて、涼やかだった。だが、その声に重なるはずの心の音は、やはり存在しなかった。俺は、生まれて初めて、他人の感情を推し量ることができないという状況に立たされていた。目の前にいるのは、美しい謎そのものだった。そして俺はこの時、自分の孤独な世界を根底から揺るがす存在に出会ってしまったことを、まだ知らなかった。

第二章 静寂という名の幸福

詩織との時間は、俺にとって救いだった。図書館の司書をしているという彼女は、その職業柄か、穏やかで物静かな女性だった。俺たちは週末ごとに会い、美術館を巡り、公園を散歩し、静かなカフェで言葉少なにお茶を飲んだ。

彼女と一緒にいると、俺の世界からノイズが消えた。これまで俺を苛んできた他人の心の騒音は、彼女の纏う静けさの中に吸い込まれ、無力化されていく。まるで、最強のノイズキャンセリング機能が搭載された安息所だ。俺は、生まれて初めて心からの平穏を感じていた。

「響さんの周りって、なんだかいつも静かですね」

ある日、詩織がふとそう言った。

「そうかな」

「はい。一緒にいると、ざわざわした気持ちが落ち着くんです。まるで、自分だけのために調律された空間にいるみたい」

俺は息を呑んだ。俺が彼女に感じていたことを、彼女もまた、俺に感じていた。互いが互いの「静寂」であったのだ。その事実は、俺たちの関係が運命的なものであるかのように思わせた。

やがて俺たちは恋に落ちた。それは、ごく自然な流れだった。彼女の唇に初めて触れた時、俺は世界で最も美しい音が聞こえるのではないかと期待した。愛の告白。歓喜のシンフォニー。しかし、聞こえてきたのは、すぐそばを通り過ぎる車の排気音と、遠くで鳴る教会の鐘の音だけ。彼女の心は、変わらず深い静寂に包まれたままだった。

それでも、俺は幸福だった。少なくとも、初めは。彼女の「愛してる」という言葉に、裏切りや打算の不協和音が混じらない。それだけで十分だった。俺は自分の能力のことを、彼女には話さなかった。この呪われた耳のことを知れば、彼女は離れていってしまうかもしれない。この奇跡のような静寂を失うことが、何よりも怖かった。

だが、関係が深まるにつれて、その静寂は徐々にその相貌を変えていった。それは安らぎであると同時に、分厚い壁にもなった。

彼女が、亡くなった飼い犬の話をして涙ぐんだ時。俺には、その悲しみの深さを測る「音」が聞こえなかった。

彼女が、仕事で成功したことを嬉しそうに報告してくれた時。俺には、その喜びの大きさを共感する「音」が聞こえなかった。

彼女の感情は、すべてが言葉と表情だけを伴う、サイレント映画のようだった。俺は必死にその意味を読み取ろうとしたが、確信が持てない。彼女は本当に悲しいのか? 本当に喜んでいるのか? 俺の知らないところで、何か別の感情を抱いているのではないか?

かつてあれほど憎んでいた他人の心の音が、今では喉から手が出るほど欲しかった。詩織の心が奏でる音なら、どんな耳障りなノイズであろうと構わない。彼女の本当の感情を知りたい。その渇望は日増しに強くなり、俺が幸福だと思っていた静寂は、いつしか底の知れない孤独の深淵へと姿を変えていた。俺は、愛する人の心を、何一つ理解できていなかったのだ。

第三章 不協和音の真実

俺は、まるで探偵のように、詩織の過去を調べ始めた。罪悪感はあった。だが、彼女を理解したいという想いは、そんな倫理観をたやすく乗り越えた。彼女がかつて通っていたという音楽大学の記録を、仕事のコネを使い、無理を言って閲覧させてもらった。

そこに記されていた名前に、俺は目を疑った。

『藤宮詩織 - ヴァイオリン科 首席』

詩織が、ヴァイオリニスト? あの、音のない彼女が? 俺の頭は混乱した。ページをめくると、コンクールの受賞歴がずらりと並んでいる。その輝かしい経歴は、あるコンクールを最後に、ぷつりと途絶えていた。卒業名簿に、彼女の名前はなかった。中途退学。一体、何があったのか。

さらに調査を進め、俺は当時の音楽雑誌の小さな記事に辿り着いた。

『期待の若手ヴァイオリニスト、藤宮詩織、コンクール本番で演奏を中断。心因性の失調か』

記事によると、彼女は将来を嘱望された天才だった。しかし、大きな国際コンクールのファイナルの舞台、大観衆と審査員が見守る中、最初のフレーズを奏でた直後、ぴたりと動きを止め、そのまま舞台袖に消えてしまったのだという。記事には、当時彼女の恋人であり、そのコンクールで指揮を振っていた若手指揮者との関係のもつれが原因ではないか、というゴシップめいた憶測も書かれていた。

全身から血の気が引いていくのが分かった。俺が求めていた静寂。俺が安らぎを感じていた彼女の「無音」。それは、彼女が音楽を、そして自らの感情を奏でることをやめてしまった、痛々しい傷跡そのものだったのだ。

彼女は、心を閉ざしたのではない。壊してしまったのだ。過度のプレッシャー、そしておそらくは信頼していた恋人からの裏切りによって、彼女の心は音を奏でる機能を失った。俺が聞いていた「無音」は、平穏などではなかった。それは、言葉にならない叫びが凝固した、巨大な氷の塊だった。

俺はなんて愚かだったんだ。自分の都合のいいように、彼女の沈黙を解釈していた。彼女の苦しみの残骸の上で、安穏と眠っていたのだ。俺が彼女に惹かれたのは、彼女の魂の静けさではなかった。俺自身の自己中心的な安らぎのためだった。その事実に気づいた瞬間、俺の心臓を、これまで聞いたこともないほど醜く、歪んだ不協和音が突き刺した。それは、紛れもなく俺自身の自己嫌悪の音だった。

第四章 君が奏でる最初の音

その夜、俺は詩織のアパートを訪ねた。押入れの奥に仕舞われていたヴァイオリンケースを見つけた時、彼女は悲しそうに微笑んだ。

「見つかっちゃった」

俺は震える声で、すべてを話した。自分の能力のこと。彼女から音が聞こえないこと。その静寂に救われていたこと。そして、その静寂が彼女の痛みそのものだと知って、どれほど自分が恥ずかしく、愚かだったかということ。

「ごめん。俺は、君の静けさを利用していた。君の苦しみに気づかずに……」

詩織は黙って俺の話を聞いていた。やがて、彼女の大きな瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。それは、音のない涙だった。

「逆よ、響さん」彼女は静かに言った。「私の方こそ、あなたの静けさに甘えていた。あなたと一緒にいると、音を出さなくてもいいって、許されている気がしたの。もう二度と、誰かの期待に応えたり、感情を音にして評価されたりしなくていいんだって。でも、それは逃げだった。私は、自分の心と向き合うのが怖かっただけ」

互いに、互いの静寂に逃げ込んでいた。俺たちは似たもの同士だったのだ。孤独で、臆病で、不器用な魂。

俺は決意した。音響設計士としての自分のすべてを懸けて、彼女のためだけの空間を創ろうと。防音設備を完璧に施し、どんな微かな音も美しく響くように緻密に計算された、小さな音楽室。そこは、誰の評価も、期待もない、ただ彼女の心が解放されるためだけの聖域だ。

数ヶ月後、俺の仕事場の一角に、その部屋は完成した。壁には柔らかな光を拡散する木材を使い、床には音の振動を優しく受け止める特殊な素材を敷いた。

俺は詩織を招き入れ、部屋の中央に置かれた椅子に、彼女のヴァイオリンをそっと手渡した。

「詩織さん。ここでは、どんな音を出したっていい。間違えてもいいし、途中でやめてもいい。誰も聴いていない。もし君が望むなら、俺も耳を塞ぐ。ただ、俺は君の音が聴きたい。嬉しい音も、悲しい音も、怒りの音も。どんな不協和音でも構わない。君の、本当の心の音を」

詩織は、長い間、ヴァイオリンをただ見つめていた。やがて、彼女は震える手でそれを構え、ゆっくりと顎の下に固定した。そして、祈るように目を閉じる。

時が止まったかのようだった。

やがて、弓がそっと弦に触れる。キィ、という、錆びついた扉が開くような、か細い音。それはお世辞にも美しいとは言えない、ためらいと恐怖に満ちた音だった。

だが、俺の耳には、確かに聞こえた。

生まれて初めて聞く、彼女の心の音。

それは、完璧なハーモニーではなかった。不安を映すヴィオラの震え。過去の傷跡をなぞるチェロの低い呻き。それでも、もう一度信じてみたいという、か細い希望を奏でるフルートの切れ切れの旋律。それらが混ざり合った、不器用で、まとまりのない、しかし、どうしようもなく人間的で、愛おしいメロディだった。

俺の頬を、涙が伝った。それは、他人の心を覗き見てしまう呪いの涙ではない。愛する人の魂が、長い沈黙を破って、自分だけに語りかけてくれたことへの、感謝と喜びの涙だった。

詩織は、目を開けて俺を見た。彼女の瞳にも涙が光っていた。そして、彼女の心からは、今度ははっきりと、柔らかなピアノの和音が聞こえてきた。それは、安らぎと、少しの戸惑いと、そして確かな愛情の色をしていた。

俺たちのデュエットは、まだ始まったばかりだ。きっとこれからも、たくさんの不協和音を奏でるだろう。けれど、それでいい。完璧な愛などないのだ。互いの不完全さを受け入れ、その不揃いな音を、ただ愛おしく聴き合うこと。それこそが、俺たちだけの、真実のハーモニーなのだから。

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