第一章 色褪せた街と冷たい記憶
人々が心の安寧と引き換えに、感情を差し出す街「セレニタス」。この街では、耐え難い悲しみや苦痛な記憶は、幻獣『忘却喰い』に喰わせるのが常識だった。忘却喰いは記憶に付随する激しい感情だけを喰らい、人々は事実としての「記録」だけを残して平穏な日常を取り戻す。街は静かで、争いごとも少なく、誰もが穏やかな表情を浮かべていた。しかし、その穏やかさは、まるで上質な蝋人形のように、どこか生気を欠いていた。
僕、エリアはこの街で『記憶修復師』の見習いとして働いている。師匠の仕事は、忘却喰いに感情を喰われた後の、無味乾燥になった人々の記憶記録を整理し、必要に応じて閲覧できるよう整えることだ。書庫に並ぶ水晶板には、持ち主の人生が淡々と刻まれている。「最愛の娘を病で失った」「故郷が戦火で焼かれた」「親友に裏切られた」。そこには悲痛も絶望もなく、ただの出来事が、天気予報のように記されているだけだった。
僕自身も、忘却喰いの世話になった一人だ。物心つく前に両親を不慮の事故で亡くした僕は、そのショックで心を閉ざしかけたらしい。見かねた親戚が、僕を忘却喰いのもとへ連れて行った。おかげで、僕の記憶から両親を失った悲しみは綺麗に消え去っている。
だが、それが僕を長年苛んでいた。周囲の大人たちは「エリアの両親は本当に仲が良くて、お前を心から愛していたよ」と語る。幸せな記憶。温かい記憶。しかし、僕が自身の記憶を探っても、そこに温度はなかった。両親の笑顔を思い出そうとしても、それはインクで描かれた挿絵のように平面的で、陽だまりのような温かさも、肌を撫でる風の心地よさも感じられない。感情を喰われるとは、こういうことなのか。悲しみだけでなく、幸せだったはずの記憶の温もりまで、全て奪い去られてしまったのではないか。
その疑念は、ある日決定的な違和感に変わった。書庫の奥深くで、僕は偶然、両親の事故に関する公式記録の水晶板を見つけてしまったのだ。そこには、馬車の転落事故、と簡潔に記されていた。僕はその文字の羅列を指でなぞった。その瞬間、頭の奥で何かが軋んだ。温かさではない。僕がずっと探し求めていたものではない、ぞっとするような『冷たさ』の欠片が、心の底を一瞬だけ掠めたのだ。
それは、忘却喰いが喰い残した、微かな感情の残滓なのだろうか。なぜ、幸せな記憶のはずなのに、こんなにも冷たい?
真実が知りたい。たとえそれが、この街の安寧を乱す禁忌だとしても。僕は、喰われた感情を取り戻すため、忘却喰いが棲むという『静寂の森』へ向かうことを、固く心に誓った。僕の本当の記憶は、一体どんな色をしていたのだろうか。
第二章 静寂の森の鏡
セレニタスの街を囲む『静寂の森』は、その名の通り、異様なほど静まり返っていた。鳥のさえずりも、風が木々を揺らす音も、虫の羽音すらしない。まるで世界から音が奪われたかのような、圧迫感のある沈黙が支配していた。忘却喰いは、人々の感情と共に、この森の生命のざわめきすらも喰らってしまったのかもしれない。
一歩、また一歩と足を踏み入れるたび、空気が重くなっていくのを感じる。木々の葉は色褪せ、地面を覆う苔は乾ききって灰色だった。ここは、感情の墓場だ。人々が捨てた悲しみ、怒り、苦しみが、音も立てずに朽ちていく場所。僕は腰に下げた水筒の水を一口含んだが、それはただの液体でしかなく、喉の乾きを潤す以上の意味を持たなかった。
数時間歩き続けた頃だろうか。森の開けた場所に、僕はそれを見つけた。忘却喰いの巣とされる、巨大な洞窟。その入り口には、奇妙なものが点在していた。ガラス細工のように透き通った、涙の形をした石。触れるとひんやりとしていて、中には微かな光が明滅しているように見えた。人々が忘却喰いに捧げた感情が、喰われた後に残した抜け殻なのだろうか。僕はその一つを拾い上げ、ポケットにしまった。
洞窟の奥へと進むと、ひんやりとした空気が肌を刺した。暗闇の先に、ぼんやりとした光が見える。光の源に近づくと、そこは広大な空間になっており、天井の苔が燐光を放っていた。そして、その中央に、それはいた。
『忘却喰い』。
伝説で語られるような、牙を剥く恐ろしい怪物ではなかった。体長は大きな馬ほどもあるだろうか。鹿のようなしなやかな四肢を持ち、全身は磨き上げられた黒曜石のような滑らかな体毛で覆われている。だが、最も印象的だったのは、その顔だ。のっぺりとした顔には目も鼻も口もなく、ただ、水面のように揺らめく、大きな鏡のようなものが嵌め込まれているだけだった。
僕が息を飲むと、鏡面に僕の姿が映った。恐怖と期待に強張った、見慣れた自分の顔。しかし、次の瞬間、鏡の中の僕の表情が歪んだ。それは僕自身の顔でありながら、僕が知らない、深い絶望に沈んだ顔だった。
忘却喰いは、一歩、僕に近づいた。威嚇するでもなく、ただ静かに。その鏡のような顔は、対峙する者の心の奥底を、本人すら気づいていない深淵を映し出すという。僕はごくりと唾を飲み込み、震える声で語りかけた。
「僕の記憶を……僕の両親の記憶の感情を、返してくれ」
忘却喰いは動かない。ただ、その鏡面が、さざ波のように揺らめき始めた。
第三章 返却された絶望
忘却喰いは言葉を発さなかった。代わりに、その鏡面から放たれた柔らかな光が、僕の額に触れた。抵抗はできなかった。いや、する気も起きなかった。光は抵抗なく僕の意識の奥深くに侵入し、忘れ去られていた記憶の扉を、軋ませながらこじ開けていく。
(返してくれ。僕の幸せな記憶を)
心の中でそう願った。両親の温かい笑顔、抱きしめられた感触、優しい声。僕がずっと取り戻したいと願っていた、陽だまりのような時間を。
だが、僕の脳裏に流れ込んできた光景は、その願いを無慈悲に打ち砕いた。
そこは、僕が暮らしていた古いアパートの一室だった。しかし、部屋の中はひどく荒れていた。家具はほとんどなく、窓は板で打ち付けられている。幼い僕が、部屋の隅で毛布にくるまって震えている。そして、父さんと母さんがいた。
彼らは笑ってはいなかった。やつれ、疲れ果てた顔で、僕を見ていた。その目には、愛情と、そしてそれ以上に深い、どうしようもない絶望の色が浮かんでいた。
「ごめんな、エリア」
父さんの掠れた声が聞こえる。
「もう、どうすることもできないんだ」
母さんが泣き崩れる。その手には、小さな小瓶が握られていた。中身は毒だ。長く続く飢饉と貧困が、二人の心を完全にへし折ってしまっていた。
これは事故じゃない。馬車が転落したんじゃない。
父さんと母さんは、僕を遺して、自ら命を絶とうとしていたのだ。彼らは最後の力を振り絞って僕を抱きしめた。それは温かい抱擁などではなかった。骨と皮ばかりの腕が、僕の体に食い込む、痛々しくて、悲痛な抱擁だった。
「お前だけは、生きてくれ」
それが、僕が聞いた最後の言葉だった。
景色がぐにゃりと歪む。僕は全てを理解した。忘却喰いが僕から喰らったのは、「幸せな記憶の温もり」などではなかった。幼い僕が抱えるにはあまりにも重すぎる、両親の死の真相と、その瞬間の『耐え難いほどの悲しみと絶望』だったのだ。僕が感じたあの『冷たさ』の正体は、この絶望の残滓だった。
忘却喰いは、僕を守ってくれていた。この残酷な真実の感情から、僕の心を。
僕が取り戻そうとしていたものは、僕の心を根底から破壊しかねない、猛毒の感情だった。真実を知った今、全身の力が抜けていく。僕はその場に膝から崩れ落ちた。目の前の幻獣は、変わらず静かに僕を見つめている。その鏡面には、涙すら流せず、ただ茫然と虚空を見つめる僕の顔が映っていた。
さあ、どうする?
忘却喰いは、そう問いかけているようだった。この絶望の感情を、今、お前に返そうか?それとも、このまま真実という名の記録だけを抱いて、感情のない平穏に戻るか?選択は、お前自身だ、と。
第四章 心、満ちる時
どれくらいの時間、そうしていただろうか。洞窟の中には僕の荒い呼吸だけが響いていた。頭の中では、両親の最期の光景が何度も繰り返される。彼らの絶望した瞳、震える手、そして僕に向けられた、悲痛な愛情。
感情を取り戻せば、この絶望が現実になる。僕の心は、その重みに耐えられるだろうか。壊れてしまうのではないか。セレニタスの人々のように、全てを忘却喰いに委ねて、色のない平穏を生きる方が、どれほど楽だろう。
だが、本当にそれでいいのか?
僕は、ポケットに入れていた涙形の石を取り出した。ひんやりとした石を握りしめる。これを手放した誰かも、僕と同じように苦しみから逃れたかったのだろう。でも、その結果、彼らは何を得た? 感情のない、空虚な日々だ。
両親は、僕に生きてほしかった。絶望の淵で、それでも僕の未来を願った。ならば、僕が生きるべきは、偽りの平穏の中ではない。彼らが遺してくれた命を、全ての感情と共に生き抜くことこそが、本当の意味で彼らの願いに応えることになるのではないか。
悲しみも、苦しみも、絶望も。それがあったからこそ、僕はここにいる。それら全てが、紛れもなく僕自身の一部なのだ。
僕は顔を上げた。忘却喰いの鏡面には、迷いを振り払った、覚悟を決めた僕の顔が映っていた。
「返してくれ」
今度は、はっきりとした声で言った。
「悲しみも、絶望も、全部。それが、僕の両親が生きた証で、僕が生かされた証だ。僕は、それら全てを抱きしめて生きていく」
僕の決意に応えるように、忘却喰いは静かに頷いたように見えた。その体から、無数の光の粒子が立ち上り、まるで銀河のように僕の周りを舞い始める。そして、それらの光は、ゆっくりと僕の胸に吸い込まれていった。
その瞬間、凍りついていた心のダムが決壊した。
胸の奥から、熱い塊がせり上がってくる。両親の深い愛情。僕の未来を願う切実な想い。そして、どうしようもない現実への絶望。死の恐怖。僕を遺していくことへの断腸の痛み。全ての感情が、濁流となって僕の全身を駆け巡った。
「父さん……母さん……っ!」
声にならない叫びと共に、涙が溢れ出した。それはもう、空虚なものではない。温かくて、しょっぱくて、血の通った、本物の涙だった。僕は子供のように声を上げて泣いた。悲しくて、苦しくて、でも、不思議と心は満たされていた。失われたピースが、ようやくあるべき場所にはまったような、完全な感覚。これが、生きるということなのだ。
僕はセレニタスの街に戻った。街の景色は昨日と何も変わらない。人々は相変わらず穏やかで、静かだ。しかし、僕にはもう、その景色が以前と同じには見えなかった。彼らの穏やかな表情の裏にある、捨て去られた感情の不在が、痛いほどに伝わってくる。
僕はもう、記憶修復師の見習いではない。僕には、新しい役割ができた。この街の人々に伝えるのだ。悲しみや苦しみから逃げることは、生きることから逃げることなのだと。感情の全てを抱きしめた先にこそ、本当の強さと、色鮮やかな世界があるのだと。
僕の旅は、まだ始まったばかりだ。時折、胸を締め付ける悲しみに襲われるだろう。それでも、僕はもう逃げない。この温かい痛みを抱きしめて、未来へと歩いていく。僕の心には、両親が生きた証が、確かに息づいているのだから。