第一章 虚ろな男と褪せる村
リヒトは、色のない男だった。
彼の瞳は、磨かれた黒曜石のように光を反射するだけで、虹彩の色を持たなかった。髪は夜の闇よりも深い黒。そして肌は、まるで上質な羊皮紙のように血の気のない白さだった。彼が纏う服は、常に墨と炭で染め上げた濃淡の灰色のみ。それは、彼が暮らす村「ニジノモリ」の、万華鏡をひっくり返したような鮮やかな色彩の中で、異様なほど浮き上がっていた。
この世界において、色は生命そのものだった。人々は朝日が放つ黄金を吸い込んで一日を始め、熟した果実の赤を食して力を得、夜空の紺碧に心を鎮めて眠りについた。彩術師と呼ばれる者たちは、自然界の色素を抽出し、それを編み上げることで傷を癒し、作物を育て、炎や風を操った。色は魔力であり、感情であり、存在の証明だった。
だからこそ、リヒトは呪われた存在だった。生まれつき一切の色を持たない彼は、「虚ろな者」と呼ばれ、人々から忌み嫌われた。彼が触れた花は瞬く間に色褪せ、彼が長く留まった場所は活気を失っていく。それは彼の意志ではなかった。彼の体は、まるで渇いたスポンジのように、周囲の色を無差別に吸い上げてしまうのだ。彼は色の泥棒だった。
彼は村はずれの灰色の石造りの家で、誰とも関わらず、ひっそりと生きていた。彼にとって唯一の慰めは、村の中央にある広場から聞こえてくる人々の笑い声と、イリアという少女の存在だった。イリアは、村で一番のパン屋の娘で、太陽のような笑顔と、茜色の髪を持つ少女だった。彼女だけが、リヒトを見ても怯えた顔をしなかった。遠くから彼女の姿を盗み見るだけで、リヒトのモノクロームの世界に、ほんの一瞬、幻のような色彩が宿る気がした。
しかし、その平穏も長くは続かなかった。ある春の日から、ニジノモリに奇妙な現象が起こり始めたのだ。「褪色病」と人々が呼ぶようになったその異変は、静かに、だが確実に村を蝕んでいった。教会のステンドグラスの青が薄れ、子供たちの頬の赤みが消え、豊かに実っていたはずの麦畑が、くすんだ藁のような色に変わり果てていった。
村人たちの囁き声は、やがて明確な敵意となってリヒトに向けられた。「虚ろな者の呪いだ」「あいつが村の色を盗んでいるに違いない」。石を投げつけられることも一度や二度ではなかった。リヒトは、ひたすら耐えた。自分に原因がないと証明する術も、この体質を治す方法も知らなかったからだ。
決定的な出来事が起きたのは、夏祭りの前の日だった。リヒトがいつものように、人目を忍んでイリアのパン屋の近くを通りかかった時、彼女の悲鳴が聞こえた。駆けつけると、彼女は店の前に置かれたプランターの前で泣き崩れていた。彼女が丹精込めて育てていた、空色のアネモネが、まるで燃え尽きた炭のように、白黒の抜け殻と化していたのだ。
「どうして……こんなことに……」
イリアの震える声が、リヒトの胸を鋭く抉った。彼女の瞳が、初めて恐怖の色を浮かべてリヒトを捉えた。その視線に、リヒトの世界は完全に音を立てて崩れ落ちた。俺のせいだ。俺がいるから、この村は、イリアの大切なものまで色を失っていく。
その夜、リヒトは最低限の荷物をまとめ、誰にも告げずにニジノモリを後にした。夜霧に紛れ、まるで世界から消え去るように。自分の呪いを解く方法か、あるいは、この世界から自分の存在を消し去る方法を探すために。それが、彼が愛する村と、愛する少女にできる唯一の償いだと信じて。
第二章 彩りの旅路と賢者の言葉
故郷を捨てたリヒトの旅は、孤独と自己嫌悪に満ちていた。彼は自分の体に触れるものすべてから色を奪ってしまうため、野宿をすれば周囲の草花は枯れ、川の水を飲めば水面の輝きが失われた。彼はまるで歩く災厄だった。その罪悪感から、彼は日に日に口数を減らし、その存在自体が希薄になっていくようだった。
数ヶ月が過ぎ、彼は「彩虹の谷」と呼ばれる場所に辿り着いた。そこは、世界中の色が集まると言われる場所で、谷底には七色の川が流れ、崖には宝石のような鉱石が陽光を浴びて煌めいていた。あまりの色彩の洪水に、リヒトは目が眩むほどだった。ここにいれば、自分の体質が何か分かるかもしれない。わずかな希望を胸に、彼は谷の奥深くへと足を踏み入れた。
谷の最奥には、一人の老人が住んでいた。彼は「色守の賢者」と呼ばれる人物で、その身には、まるで年輪のように様々な色が複雑に混じり合った衣を纏っていた。賢者は、近づいてきたリヒトを見ても驚くことなく、静かな声で言った。
「おぉ、来たか。虚ろな器を持つ者よ」
リヒトは息を呑んだ。賢者は彼の素性を一目で見抜いたのだ。彼は震える声で、自分の呪われた体質のこと、故郷を蝕む褪色病のことを語った。そして、どうすればこの呪いを解けるのかと尋ねた。
賢者は、静かに首を横に振った。「それは呪いではない。お主の役目じゃ」
「役目……? 人々から色を奪い、世界を灰色に変えるのが、僕の役目だと言うのですか」
「物事には常に二つの側面がある。光があれば影が、音があれば沈黙があるようにな。お主の力は『奪う』だけではない。そうでなければ、このわしがお主の前に姿を現したりはせん」
賢者はリヒトを洞窟の中へと招き入れた。そこには、一つの小さな祭壇があり、その上には完全に色を失い、石のように白くなった一輪の花が置かれていた。
「これは『原初花』。かつてこの世界に色をもたらした神々の欠片と言われておる。今はもう、その力は尽きてしもうたがな」
賢者はリヒトに、その花に触れるよう促した。リヒトは恐怖で体がすくんだ。これ以上、美しいものを壊したくなかった。しかし、賢者の穏やかで力強い瞳に促され、おそるおそる指先を白化した花弁に触れさせた。
その瞬間、何も起こらなかった。リヒトの体は、すでに色のないものから、何も吸い上げることはできなかったのだ。安堵と、わずかな失望がリヒトの胸をよぎった。
「そうか、やはり空っぽか」賢者は呟くと、おもむろに自らの腕をナイフで浅く切りつけた。すると、傷口から鮮血のような、しかし液体ではない、燃えるような「赤」の光が溢れ出した。それは賢者の生命力そのものだった。賢者はその赤い光を、白い花へと注ぎ込んだ。
花は、その赤を吸収すると、かすかに震え始めた。しかし、それだけだった。花弁に色が戻ることはない。
「見たか。わしのような彩術師が生命の色を与えても、一度失われた色を蘇らせることはできん。消費され、消えゆくのみじゃ。世界中で起きている褪色病も、それと同じこと。世界の『色』が、限界を迎えつつあるのじゃ」
賢者は、リヒトの手を取り、その手を花に再び触れさせた。
「今度はお主の番じゃ。何も考えず、ただ、この花を『満たしたい』とだけ願え」
リヒトは戸惑いながらも、賢者の言葉に従った。目を閉じ、かつてイリアが育てていた空色のアネモネを思い浮かべた。あの美しい色を、もう一度見たい。ただ、それだけを願った。
すると、信じられないことが起きた。リヒトの指先から、淡い、しかし確かな光が放たれ始めたのだ。それは特定の色を持たない、純粋な光の奔流だった。その光が花に注がれると、花弁の縁から、まるで夜明けの空のように、淡い青色が滲み出し始めた。ゆっくりと、しかし着実に、石のようだった花は、生命の輝きと瑞々しい空色を取り戻していったのだ。
「……これは……?」
リヒトは自分の手を見つめた。何も奪っていない。むしろ、与えている。賢者は、深く頷いた。
「お主の力は、色を奪うのではない。色を『浄化』し、その根源である『無色』へと還す力。そして、その無色のキャンバスに、新たな色を『創造』する力じゃ。お主は色の終着点であり、始発点でもある。虚ろな器ではない。全ての色を生み出すための、無限のパレットなのじゃ」
賢者の言葉は、リヒトの世界を根底から覆した。呪いだと思っていた力は、祝福だった。彼は、色の泥棒ではなく、色を与える者だったのだ。
第三章 原色の神話と無色の真実
賢者から告げられた真実は、リヒトの心に大きな光と、同時に重い影を落とした。自分の力が世界を救う可能性があると知った喜びと、そのために自分が何をすべきなのかという途方もない責任感が、彼の内で渦巻いていた。
賢者は、古代の神話を語り聞かせた。かつてこの世界は、ただの灰色の岩塊だった。そこに、「原色の三神」と呼ばれる赤、青、黄の神々が舞い降りた。神々は自らの体を砕き、その色彩を世界に分け与えた。大地は緑に、海は青に、太陽は黄金に輝き、生命が生まれた。しかし、それは有限の贈り物だった。人々が生き、彩術師が魔法を使うたびに、世界の色彩の総量は少しずつ消費され、薄まっていく運命にあったのだ。
「褪色病とは、病ではない。世界の寿命そのものじゃ。神々の贈り物が、尽きようとしておるのじゃ」
そして、神話には続きがあった。神々は、世界の色が尽きる時、一人の「無色の器」が現れると予言していた。その者は、消費され、くすんでしまった全ての色をその身に集め、浄化し、新たな原色として世界に還す。それは、世界を再生するための、最後の希望なのだと。
「リヒトよ。お主がその『無色の器』じゃ。お主が故郷の村で見てきた褪色は、お主のせいではない。お主という特異な存在の近くで、世界の色彩の消耗がより顕著に現れたに過ぎん」
リヒトは、ようやく全てを理解した。彼が触れた花が色褪せたのは、彼が色を奪ったからではない。彼の『無色』の性質が、その花の生命力、つまり色の消耗を極端に早めてしまったのだ。彼は泥棒ではなかった。ただ、世界の真理を誰よりも早く体現してしまう存在だったに過ぎない。
「僕が……僕が、何をすればいいんですか?」
「世界中を旅し、失われゆく色をお主の身に集めるのじゃ。そして、世界の中心である『創生の祭壇』で、その全てを解放する。それは、お主自身の存在を、世界の色彩そのものに昇華させる儀式。お主は人としての形を失い、世界の彩りとなって、永遠にこの世界を守護することになる」
それは、紛れもない自己犠牲の要求だった。人としての生を終え、概念そのものになる。もう二度と、イリアに会うことも、人々と笑い合うこともできなくなる。
リヒトは迷った。ようやく手にした自分の存在意義が、自らの消滅と引き換えだという現実はあまりにも過酷だった。しかし、彼の脳裏に浮かんだのは、色を失い、活気をなくしていく故郷の姿であり、大切な花を失って泣いていたイリアの顔だった。
彼らを、世界を、救えるのは自分しかいない。
「やります」リヒトは、決然と顔を上げた。その黒曜石のような瞳には、もう迷いの色はなかった。「それが僕の役目なら」
その日から、リヒトの旅は目的を変えた。彼はもはや逃亡者ではなかった。彼は世界の救済者として、各地を巡った。彼は色褪せた大地に立ち、その足元からくすんだ色を吸い上げた。彼の体が色を吸収するたびに、大地には新たな生命の息吹が宿り、若草が芽吹いた。彼は濁った川に手を浸し、澱んだ色を浄化した。すると、川は再び清流を取り戻し、魚たちが元気に泳ぎ始めた。
彼は、人々から色を奪うのではなく、世界そのものから、その疲れ果てた色を預かっているのだと理解した。旅を続けるうちに、リヒトの体には変化が現れた。彼のモノクロームだった体に、吸収した無数の色が混じり合い、まるでオーロラのような淡い光が常に揺らめくようになった。彼はもはや「虚ろな者」ではなく、内側に宇宙を宿した存在へと変貌しつつあった。
第四章 世界に捧ぐ虹
数年の歳月が流れた。リヒトは世界の果てにあるという「創生の祭壇」に辿り着いていた。その間、世界から褪色はほとんど見られなくなり、人々は一時的な安寧を取り戻していた。しかし、それはリヒトが世界の悲鳴を一身に引き受けていたからに他ならず、彼の内なるパレットは、もはや飽和寸前だった。
祭壇は、巨大な水晶の柱が天を突くように林立する、神聖な場所だった。リヒトが中心に立つと、彼の体に宿る無数の色が共鳴し、水晶の柱に反射して、空間全体を幻想的な光で満たした。
彼は目を閉じ、故郷ニジノモリを思った。今頃、村は昔のような鮮やかな色を取り戻しているだろうか。イリアは、元気でいるだろうか。彼女の茜色の髪は、今も太陽の下で輝いているだろうか。
会いたい。もう一度だけでいいから、会いたい。
その強い願いが、奇跡を呼んだのかもしれない。祭壇の入り口に、一つの人影が現れた。息を切らし、長い旅の疲れを滲ませながらも、真っ直ぐな瞳でリヒトを見つめている。
「リヒト……!」
それは、成長したイリアだった。賢者からリヒトの運命を聞き、彼を追いかけてきたのだ。彼女の茜色の髪は、リヒトの記憶の中よりもさらに美しく輝いていた。
「どうしてここに……」
「あなただけに、全部背負わせるなんてできない!」イリアは涙を浮かべながら叫んだ。「村は……村は、あなたのおかげで色を取り戻したわ。みんな、あなたに感謝してる。あなたを呪ったことを、後悔してる。だから……帰ってきて!」
リヒトの心が、激しく揺さぶられた。帰りたい。彼女の隣で、人として生きたい。しかし、彼がここで儀式をやめれば、世界は遠からず本当の終焉、「大褪色」を迎えるだろう。
リヒトは、静かに微笑んだ。その顔は、もはやかつての陰鬱な少年のものではなかった。内側から発する柔らかな光が、彼の表情を神々しく照らしていた。
「イリア、ありがとう。君に会えて、本当に嬉しい。でも、僕は行かなくちゃいけない」
彼はイリアに背を向け、祭壇の中央へと歩を進めた。
「僕は、色の泥棒なんかじゃなかった。君や、村のみんなが教えてくれたんだ。色がいかに美しく、温かいものなのかを。だから、僕はそれを守りたい。この美しい世界を、未来に繋げたいんだ」
リヒトが両腕を広げると、彼の体から、蓄えられた全ての色が解放された。赤、青、黄、緑、紫、橙……純粋な光の奔流となった色彩が、天を衝く濁流となって空へと昇っていく。それは、世界が初めて生まれた時のような、荘厳な光景だった。
イリアは、ただ涙を流しながらそれを見つめることしかできなかった。光の奔流の中心で、リヒトの体は徐々に輪郭を失い、透明になっていく。最後に、彼はイリアの方を振り返り、声にならない唇の動きで、こう言った。
『ありがとう』
次の瞬間、彼の体は完全に光の中に溶け、巨大な色彩の柱は天高く昇りつめると、空いっぱいに弾けた。そして、世界を覆うほどの巨大な、七色の虹となった。
虹の光が地上に降り注ぐと、世界はかつてないほどの鮮やかな色彩に満たされた。花はより鮮やかに咲き誇り、空はどこまでも青く澄み渡り、人々の瞳には生命の輝きが満ち溢れた。世界は、再生されたのだ。
それ以来、世界から色が失われることはなくなった。人々は、雨上がりに空にかかる虹を見るたびに、自らを犠牲にして世界を救った「彩なき神」の物語を語り継いだ。
イリアはニジノモリに帰り、パン屋を継いだ。彼女は時折、空を見上げる。そこには、決まって美しい虹がかかっている。それはまるで、リヒトが優しい眼差しで、彼女と、この美しい世界を見守っているかのようだった。彼女は、その虹に向かってそっと微笑みかける。彼の存在は消えはしない。彼は風の色に、木々の緑に、そして彼女の心の中に、永遠に生き続けているのだから。