第一章 苦い結晶
リクは路地裏の石畳に膝をつき、指先でそっと黒ずんだ結晶に触れた。それは「後悔」という言葉だった。指が触れた瞬間、舌の上にひどく苦い味が広がる。まるで焦げ付いた珈琲豆をそのまま噛み砕いたような、ざらついた苦味。その奥に、錆びた鉄のような血の味が微かに滲む。
この世界では、言葉が形を持つ。人々が発する想いは、物理的な結晶となって空中に生まれ、やがて重力に従って地上に降り積もる。街は言葉でできているのだ。「ありがとう」の言葉は、陽光を浴びて虹色に輝く宝石となり、「愛している」は、触れると温かい乳白色の光を放つ。
リクは、それらの結晶に宿る記憶と感情を「味」として感じることができた。祝福の言葉は蜂蜜のように甘く、怒りは舌を焼く唐辛子のように辛い。そして、今しがた触れたような後悔や悲しみは、耐え難いほどに苦く、塩辛い。
彼は立ち上がり、口の中に残る不快な味を唾と共に吐き出した。最近、彼の味覚は鈍くなっていた。かつて味わった、あまりにも強烈な記憶のせいで、繊細な風味を感じ取る舌が麻痺しかけているのだ。その記憶は、今も彼の内側で、決して消えることのない苦味の澱として沈殿していた。
空を見上げると、街の上空を流れる無数の言葉の結晶が、鈍色の空にきらめいている。人々は沈黙を重んじた。不用意な一言が、鋭利な凶器となって誰かを傷つけかねないからだ。世界は静寂に支配され、その静寂の下で、言葉にならなかった想いが澱のように溜まっていくのを、リクだけが「味」として知っていた。
第二章 沈黙の図書館
自らを苛む苦味から逃れるため、リクは一つの伝説に望みを託していた。「忘却の香炉」。特定の記憶の味を消し去ることができるという、古の道具。その手がかりを求め、彼は街で最も古く、最も静かな場所、<沈黙の図書館>の重い扉を押した。
中は、ひんやりとした古紙とインクの匂いに満ちていた。天井まで届く書架には本ではなく、様々な時代、様々な形の言葉の結晶が、ガラスケースの中に収められ、静かに眠っている。ここの結晶は、発せられた瞬間の感情をそのまま封じ込めているのだ。
「何かお探しですか」
澄んだ、ささやくような声だった。振り返ると、そこにエマと名乗る女性が立っていた。彼女はこの図書館の主だという。長く編んだ髪が、彼女の穏やかな動きに合わせて静かに揺れた。
リクは小声で「忘却の香炉を探しています」と告げた。彼の言葉は、淡い青色の小さな結晶となって二人の間に生まれ、すぐに床に落ちてカランと軽い音を立てた。
エマは驚いたように少し目を見開いたが、すぐに穏やかな微笑みを浮かべた。「香炉のことは、古い記録の中にしかありません。ですが…なぜそれを?」
「消したい味があるんです」リクは自分の舌を無意識に指でなぞった。「あまりにも、苦すぎる記憶の味が」
その言葉に、エマの表情がわずかに曇った。彼女は黙ってリクを導き、図書館のさらに奥深くへと歩き始めた。そこは、世界がまだこれほど沈黙していなかった時代の、力強い言葉の結晶が並ぶ場所だった。
第三章 基盤の揺らぎ
「この世界は、一つの巨大な言葉の結晶によって支えられています」と、エマは古い羊皮紙を広げながら説明した。「<基盤の言葉>。それは『存在』や『調和』といった、世界の根幹を成す概念そのものなのです」
リクがその言葉に耳を傾けていた、まさにその時だった。足元から、微かで、しかし確かな振動が伝わってきた。図書館のガラスケースがカタカタと微かに鳴り、天井から言葉の塵がぱらぱらと舞い落ちる。
「まただわ…」エマが不安げに呟く。「最近、こんな揺れが頻繁に起こるのです」
リクは外に目をやった。街に降り積もる「希望」の結晶が、以前よりも輝きを失っていることに気づく。試しに一つ拾い上げて舌に乗せてみると、かつて感じたはずの熟した果実のような甘みは薄れ、まるで水で薄められた砂糖水のような、空虚な味しかしなかった。世界を満たす言葉の風味が、全体的に劣化している。
「基盤が、傷ついているのかもしれません」エマの声は、憂いを帯びていた。
世界の土台が揺らぎ始めている。それは、世界の終わりを予感させる不吉な兆候だった。誰かが、何かが、この世界を成り立たせている根源を、静かに、しかし着実に破壊しようとしている。リクの舌が、まだ感じたことのない、巨大な「何か」の気配を捉え、ピリピリと痺れ始めた。
第四章 忘却の煙
幾日もの調査の末、エマは図書館の禁書庫の奥に隠された小部屋で、ついに「忘却の香炉」を見つけ出した。それは黒曜石を削り出して作られた、手のひらに乗るほどの小さな香炉で、長い年月のせいでひんやりと冷たかった。
リクは震える手でそれを受け取った。長年彼を苦しめてきた、あの記憶を消せる。家族を失った嵐の夜、「どうして」と叫んだ自分の声。その言葉は、絶望そのものを凝縮したような、あまりにも強烈な苦渋の味となって、彼の魂に焼き付いていた。
彼は香炉に、その記憶のかけらをそっと込めた。エマが、古代の樹脂に火を灯して香炉にくべる。やがて、白く、ほとんど無臭の煙がゆらりと立ち上った。
煙がリクの顔を撫でた瞬間、彼の内側で何かが断ち切れる感覚があった。舌の根にこびりついていた苦味が、すうっと潮が引くように消えていく。記憶は残っている。嵐の夜の光景も、家族の顔も覚えている。だが、そこに付随していたはずの、胸が張り裂けそうなほどの「感情」の味が、綺麗に抜け落ちていた。残ったのは、「喪失」という無機質な概念だけ。
味覚が、一時的にではあるが、鮮明さを取り戻した。安堵と同時に、心の中心にぽっかりと穴が空いたような、奇妙な空虚感が彼を襲った。彼は、苦痛と共に、自分の一部をも失ってしまったのだ。
第五章 沈黙の叫び
その時、異変が起きた。
忘却の香炉から立ち上った煙は、部屋を満たすと、まるで意思を持つかのように、図書館に保管されていた古代の言葉の結晶たちへと流れ着いた。すると、結晶たちが一斉に共鳴し、淡い光を放ち始めたのだ。
そして、リクの回復したばかりの味覚が、今まで経験したことのない、途方もなく巨大な「味」を捉えた。
それは誰か一人の記憶ではない。甘みも、苦味も、辛味も、塩味も、あらゆる感情の味が渾然一体となって押し寄せる、巨大な奔流。それは、この世界に生きる無数の人々が、沈黙の中で飲み込んできた、言葉にならなかった想いの集合体だった。抑圧された叫び、伝えられなかった愛、飲み込んだ涙――その全てが混ざり合った、複雑で、痛切で、しかしどこまでも純粋な「渇望」の味がした。
「これが…基盤を砕いているものの正体…?」
リクは愕然とした。犯人は、特定の誰かではなかった。言葉を物理的な結晶として固定化し、真の感情表現を奪われたこの世界そのものが、自らを解放するために生み出した「沈黙の叫び」だったのだ。忘却の香炉は、記憶の感情を「概念」に変える。そのプロセスが引き金となり、世界中に偏在していた言葉にならない感情の残滓を呼び覚まし、一つの巨大な意志として具現化させてしまったのだ。
それは破壊ではなかった。新しい世界を求める、世界の産声だった。
第六章 世界の風味
「止めなければ…」エマは恐怖に顔を青ざめさせたが、リクは静かに首を横に振った。
「違う。これは止めちゃいけないんだ」
彼の舌は、「沈黙の叫び」の味の奥にある核を捉えていた。それは、ただ繋がりたい、分かり合いたいという、根源的で切実な願いの味だった。言葉という不完全な器を捨ててでも、心と心を直接繋げたいという、魂の渇望だった。
リクは決意を固めた。彼は香炉を手に、エマと共に世界の中心、<基盤の言葉>が安置されている大聖堂へと向かった。世界の根幹を成す巨大な結晶は、すでに無数のヒビが入り、今にも砕け散りそうに明滅していた。
彼は、自分を苦しめてきた記憶を消すために香炉を使った。だが、今度は違う。彼は、世界を、そして自分自身を、本当の意味で救うために香炉を使う。
リクは目を閉じ、自身の記憶の中で最も大切で、最も甘美な記憶を呼び起こした。幼い頃、家族と共に笑い合った、陽だまりの中の昼食。母親が焼いたパンの甘い香り、父親の優しい眼差し、妹の屈託のない笑い声。その記憶は、彼の舌の上で、極上の蜜のようにとろける甘さを持っていた。
彼は、そのかけがえのない記憶を、そっと香炉にくべた。永遠にこの甘さを失う覚悟と共に。
「さようなら」
彼の唇から、か細い感謝の言葉が、小さな光の結晶となってこぼれ落ちた。
第七章 色彩の夜明け
リクの最も幸福な記憶の「感情」は、白い煙となって立ち上り、渦巻く「沈黙の叫び」へと優しく溶け込んでいった。すると、荒れ狂っていた感情の奔流は、彼の温かい記憶に触れて、その性質をゆっくりと変え始めた。破壊の衝動が、創造の輝きへと昇華していく。
ついに、<基盤の言葉>は、ガラス細工のように甲高い音を立てて砕け散った。
だが、世界は終わらなかった。
砕けた結晶の無数の欠片は、言葉としての意味を失い、純粋な感情の「色彩」そのものとなって、夜明け前の空から静かに降り注ぎ始めた。喜びは温かいオレンジ色の光の粒子となり、安らぎは穏やかな緑色の靄となって地面を流れ、愛は、触れると心臓が温かくなる柔らかなピンク色のオーラとなって人々を包んだ。
街の人々は、何が起きたのかわからず、呆然と空を見上げていた。だが、肌に触れる光、目に映る色彩から、隣人の感情が、言葉を介さずとも直接心に流れ込んでくるのを感じていた。涙を流す者、微笑み合う者、ただ静かに互いの存在を感じ合う者。言葉の呪縛から解き放たれた世界に、初めて真のコミュニケーションが生まれた瞬間だった。
リクは、大聖堂の床に静かに座り込んでいた。彼の舌はもう、何も感じなかった。大切な記憶を捧げた代償として、彼はその能力を完全に失ったのだ。しかし、彼は悲しくなかった。目を上げると、世界がこれまで見たこともないほど美しい感情の色彩で満ちているのが見えたからだ。味覚の代わりに、彼は心を「見る」力を手に入れたのだ。
隣に、エマがそっと座った。彼女の周りには、リクへの感謝と安堵を示す、優しい青緑色の光が揺らめいていた。二人は何も語らない。ただ、共に新しい世界の夜明けを見つめていた。言葉はもう、必要なかった。