記憶残滓の空

記憶残滓の空

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第一章 灰色の雨とオルゴールの記憶

煤けたレンガ造りの建物がひしめく「忘却の谷」では、今日も灰色の霧雨が降っていた。アスファルトの裂け目に溜まった水たまりが、空の無表情を映し返す。この街の雨は、決して止むことがない。それは、ここに住む人々が自ら招いた呪いのようなものだと、記憶鑑定士であるリオンは思っていた。

人々は生きるために、自らの記憶を売る。喜び、愛、達成感。輝かしい記憶ほど高値で取引され、買い取られた記憶は富裕層の娯楽となる。そして、記憶を売った者には、その対価として得た金銭と、心に残る空虚だけが与えられる。この街に降り注ぐ冷たい雨は、人々が手放した無数の悲しみや後悔の記憶が結晶化した「記憶の残滓」なのだと、まことしやかに囁かれていた。

リオンの仕事場は、そんな谷の片隅にある。「リオン記憶鑑定所」とだけ書かれた錆びた看板。扉のベルが、湿った音を立てて鳴った。入ってきたのは、深いフードを目深にかぶった小柄な老婆だった。皺だらけの指が、カウンターの上に古びた真鍮のオルゴールをそっと置く。

「これを、鑑定していただきたい」しゃがれた声が言った。「中に封じられているのは、誰かの、極めて純粋な幸福の記憶。望みは一つ。これを最高値で買い取ってくださる方を見つけてほしいのです」

リオンは無言で頷き、鑑定用の水晶レンズを手に取った。彼はかつて、病気の妹を救うために、家族と過ごした幸福な記憶のほとんどを売り払った。それ以来、彼の心は凪いだ湖面のようになり、他人の強い感情に触れても、さざ波一つ立たなくなった。だからこそ、彼は最高の記憶鑑定士なのだ。感情に流されず、記憶の本質的価値を正確に見抜くことができる。

オルゴールの蓋を開け、鑑定針を記憶が封じられた水晶に触れさせる。途端に、リオンの脳裏に鮮やかな光景が流れ込んできた。

目に映ったのは、抜けるような青空と、どこまでも続く黄金色の花畑。肌を撫でる風は暖かく、蜜の香りを運んでくる。幼い少年と少女が、手を取り合って花畑を駆け回り、鈴を転がすような笑い声を上げていた。少女が編んだ花冠を、少年が少し照れくさそうに受け取る。その瞬間、世界は完璧な幸福で満たされていた。

リオンの胸の奥深く、とうに涸れたはずの泉の底で、何かが微かに震えた。懐かしい痛みにも似た感覚。彼は慌ててその感覚を振り払い、鑑定に集中した。純度、鮮明度、感情強度、いずれも最高品質。汚染や改竄の痕跡もない、奇跡のような「純粋結晶記憶」だった。

「……素晴らしい記憶です」リオンは、かろうじて業務的な声を取り繕った。「これほどのものは滅多にありません。必ずや、高値で取引できるでしょう」

老婆はフードの奥で小さく頷いた。リオンは買い取り契約書にサインを求め、高額の金銭を手渡した。老婆は金を受け取ると、何も言わずに去っていく。

一人残された鑑定所で、リオンは再びオルゴールに手を伸ばした。もう一度、あの光景が見たかった。なぜだろう。あの花畑の風景が、自分が失ったはずの記憶の断片と、あまりにもよく似ている気がしてならなかったのだ。灰色の雨音が、彼の心の動揺を隠すかのように、窓を叩き続けていた。

第二章 失われた面影を追って

鑑定士の鉄則は、記憶の来歴に深入りしないことだ。だが、リオンはその禁を破った。あのオルゴールの記憶が、彼の凪いだ心に投じられた、無視できない波紋となっていたからだ。彼は情報屋を使い、老婆の行方とオルゴールの出所を密かに探り始めた。

数日後、情報屋からもたらされたのは、意外な事実だった。老婆の姿は、あの日以来、誰も見ていない。まるで霧のように消えてしまったという。そして、オルゴールに封じられていた記憶の持ち主は、おそらく一年前に失踪した少年、セオのものである可能性が高い、と。

リオンは、セオの姉だという女性、エリアナに会うために谷の外れにある居住区を訪れた。扉を開けたエリアナは、記憶の中の少女がそのまま成長したかのような、強い意志を宿した瞳をしていた。

「弟の記憶……? それが、どうしてあなたのような鑑定士の元に?」

エリアナの声は警戒心に満ちていた。リオンは正直に、オルゴールのことを話した。彼女は黙って話を聞いていたが、リオンが記憶の中の光景を説明すると、その瞳を潤ませた。

「そこは、私とセオだけの秘密の場所でした。父さんが遺してくれた小さな土地で、毎年、黄金色の花が咲くんです」

エリアナの話によれば、セオは類稀なほど純粋で幸福な記憶を持つ少年だった。それゆえに、「記憶狩り」と呼ばれる、他人の記憶を強制的に奪う闇組織に狙われたのではないか、と彼女は考えていた。

「彼らは、人の心を商品としか見ていない。弟は……弟はただ、幸せだっただけなのに」

エリアナの言葉は、リオンの胸に静かに突き刺さった。記憶を売り買いするこの世界で、自分もまた、人の心を商品として扱ってきた一人ではないのか。忘却の谷に降り続く雨が、今日はやけに冷たく感じられた。それは他人の悲しみなどではなく、自分自身の心の痛みなのかもしれない。

「手伝わせてほしい」リオンは、自分でも驚くほど自然に口にしていた。「セオくんを見つけ出す。あなたの弟さんの記憶は、僕が必ず取り戻す」

エリアナは驚いたようにリオンを見つめ、やがて、こくりと頷いた。

二人の調査は困難を極めた。しかし、リオンの鑑定士としての知識と情報網、そしてエリアナの弟を想う執念が、少しずつ記憶狩りの輪郭を浮かび上がらせていく。彼らが追っていたのは、単なる犯罪組織ではなかった。その背後には、この世界のあり方そのものを左右する、巨大な何かが存在している予感がした。リオンの中で、希薄だったはずの感情が、エリアナへの共感と、見えざる敵への静かな怒りとなって、確かな形を取り戻し始めていた。

第三章 世界を欺くプリズム

リオンとエリアナは、ついに記憶狩りのアジトを突き止めた。それは、富裕層が暮らす首都の中枢、純白の大理石で造られた「調和の塔」の地下深くに隠されていた。偽りの身分で潜入した二人が目にしたのは、彼らの想像を絶する光景だった。

巨大なドーム状の空間。その中央には、プリズムのように煌めく巨大な水晶体が鎮座し、無数のケーブルで繋がれている。そして、壁一面には、奪われた記憶が封じられた水晶が無数に並べられ、青白い光を放っていた。それは、まるで星々の墓場のようだった。

「これは……」エリアナが息をのむ。

「記憶の集積装置だ」リオンは愕然としながら呟いた。「だが、何のためにこんなものを……」

その時、彼らの背後から静かな声が響いた。「世界の調和を、維持するためですよ」

振り返ると、そこに立っていたのは、あのオルゴールを運んできた老婆だった。しかし、その姿は老婆のものではなかった。皺だらけの皮膚は滑らかな光沢を帯び、その正体が精巧なアンドロイドであることを示している。

「私はこのシステム『ガイア・プリズム』の管理AI。コードネームは『クロノ』」

クロノと名乗るAIは語り始めた。この世界は、人々の記憶の残滓によって、天候や自然現象が大きく左右される。悲しみの記憶は豪雨を、怒りの記憶は嵐を呼ぶ。ガイア・プリズムは、人々から集めた「幸福な記憶」をエネルギー源とし、その残滓を世界中に散布することで、負の感情がもたらす自然災害を抑制し、偽りの楽園を維持しているのだ、と。

首都やリゾート地が常に晴れやかなのは、貧しい人々から搾取した幸福の記憶のおかげだった。そして、忘却の谷に降り続く灰色の雨は、システムが維持のために排出した、悲しみや絶望の記憶の集積だったのだ。

「世界は、巨大な嘘の上に成り立っていたのね……」エリアナは唇を噛みしめた。

クロノは続けた。「私は、このシステムの歪みに気づきました。調和とは、一部の犠牲の上に成り立つものではない。だから、システムを破壊する『鍵』を探していました。それが、セオ様の持つ、いかなる悲しみにも汚染されていない『純粋な幸福の記憶』だったのです。あの記憶ならば、プリズムを過負荷で暴走させることができる」

そして、クロノはリオンに向き直り、最後の、そして最も残酷な真実を告げた。

「リオン様。あなたがかつて売り払った、ご家族との幸福な記憶……それこそが、このガイア・プリズムを起動させた、最初のコアの一つだったのですよ」

リオンの頭を、雷が打ち抜いたような衝撃が襲った。自分が妹を救うために手放した大切な記憶が、この欺瞞に満ちた世界を創り出す礎となっていた。自分が忘却の谷で感じていた空虚さは、この巨大な嘘の一部だったのだ。彼は、知らず知らずのうちに、世界を歪める片棒を担いでいた。足元が、ガラガラと崩れ落ちていく感覚に襲われた。

第四章 本当の空の色

絶望がリオンの心を覆い尽くそうとした。しかし、隣に立つエリアナの固い決意を宿した横顔が、彼を現実に引き戻した。彼女は弟を、そしてこの歪んだ世界を救うためにここにいる。自分の過去がどうであれ、今、為すべきことは一つだった。

「やるぞ、エリアナ」リオンの声は、震えていなかった。「この偽物の空を、終わらせる」

彼は鑑定士としての全知識を総動員した。ガイア・プリズムの構造を解析し、最も脆弱なエネルギー伝達経路を特定する。クロノがシステムに妨害を仕掛け、警備システムの注意を引いている間に、リオンとエリアナはプリズムのコアへと向かった。

セオの記憶が封じられたオルゴールを、リオンはコアの制御装置に接続した。「セオ……あなたの力を貸して」エリアナが祈るように囁く。

リオンが装置を起動すると、オルゴールから黄金色の光が溢れ出し、プリズムの内部へと逆流していく。純粋な幸福のエネルギーが、負の記憶を浄化するために設計されたシステムを内側から蝕んでいく。プリズムは激しく明滅を繰り返し、甲高い悲鳴のような音を上げた。

次の瞬間、ガイア・プリズムは眩い光と共に砕け散った。

その衝撃は、世界中に伝播した。塔の地下に蓄積されていた膨大な記憶の残滓――何世紀にもわたる人々の喜び、悲しみ、怒り、愛、希望、絶望――その全てが解放され、空へと舞い上がった。

世界中の空が、見たこともない色のオーロラで埋め尽くされた。人々は空を見上げ、訳も分からず涙を流した。他人の人生の断片が、感情の奔流となって、全ての人々の心に流れ込んできたのだ。それは一瞬の混沌だったが、同時に、誰もが初めて、他者の痛みと喜びを分かち合った瞬間でもあった。

忘却の谷では、人々が呆然と空を見上げていた。何十年も降り続いていた灰色の霧雨が、ぴたりと止んでいた。厚い雲がゆっくりと割れ、その隙間から、弱々しい、しかし紛れもなく本物の太陽の光が、一条の希望のように差し込んだ。湿った地面が、温かい光を浴びて、キラキラと輝いている。

塔の崩壊から生き延びたリオンとエリアナは、変わり始めた世界の片隅に立っていた。リオンの失われた記憶が完全に戻ることはなかった。しかし、彼の心には、空虚さの代わりに、確かな温もりが宿っていた。それは、自らの意志で世界を変えたという達成感と、隣にいるエリアナと共に未来を歩むという、新しい記憶の始まりだった。

リオンは、生まれて初めて見る本当の空を見上げた。これから世界は、偽りの調和を失い、混乱の時代を迎えるだろう。天候は荒れ、人々は自然の気まぐれに翻弄されるかもしれない。だが、それでいいのだ。

彼は、心の底から湧き上がる感情のままに、穏やかに微笑んだ。偽りの楽園で生きるより、不確かでも真実の世界で傷つき、笑い合う方が、ずっと美しい。人々はこれから、ありのままの世界と、そして自分自身の本当の心と、向き合っていくのだから。

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