第一章 灰色の街と極彩色の嘘
指先から、粘り気のある「赤」を絞り出す。
ズキン、と側頭部が脈打った。視界が明滅する。記憶を絵の具に変える痛みは、何度繰り返しても慣れることがない。
「ライラ、もっと濃く! 結界が破られるぞ!」
長老の叫び声が、風鳴りに混じって聞こえた。
私は奥歯を噛み締め、絵筆を虚空に走らせる。
空中に描いた赤い線は、炎となって燃え上がり、街を包囲しようとしていた「灰色の霧」を一時的に押し返した。
「……もう、無理」
膝から崩れ落ちる。
私の名前はライラ。記憶を色に変えて世界を維持する「彩画師(カラーリスト)」だ。
この世界は死にかけている。
すべてを喰らい尽くす「灰色の霧」によって、色彩も、音も、温度さえも奪われた。
私たちに残された対抗手段は、過去の記憶を魔力——すなわち「色」に変えて、世界を塗り直すことだけ。
「今日の赤は、何の記憶だ?」
長老が私の肩を揺さぶる。
「……七歳の時、転んで膝を擦りむいた痛みです」
「弱い! そんな浅い記憶では、霧は止められん。もっと強い感情を……『喜び』や『愛』を使えと言っているだろう!」
私は顔を背けた。
嫌だ。絶対に嫌だ。
痛みや、悲しみや、悔しさ。
そんな「濁った色」ならいくらでも使う。けれど、幸せな記憶だけは渡せない。
それを使ってしまえば、私は私でなくなってしまう。
「ケチな小娘め。その才能が泣いているぞ」
長老は舌打ちをして去っていった。
私は冷たい石畳の上で、自分の胸を抱きしめる。
私の心の中には、誰にも見せていない宝石箱がある。
そこには、世界で一番美しい「金色(ゴールド)」が眠っている。
それを絵の具にしてしまえば、きっとこの街を永遠に守れるほどの結界が張れるだろう。
でも、それはできない。
その「金色」が誰の記憶なのか。
今の私には、もうそれさえも思い出せなかったからだ。
ただ、とても大切で、温かいものだったという感触だけが残っている。
「……大切に抱え込んで、そのまま霧に飲まれて死ぬつもり?」
不意に、軽薄な声が降ってきた。
顔を上げる。
灰色の空を背景に、高い塀の上に座っている青年がいた。
ボロボロの灰色のマント。目元を覆う包帯。
けれど、その口元だけが、不敵な笑みの形に歪んでいる。
「誰?」
「フェン。ただの通りすがりさ」
彼は音もなく地面に降り立つと、私の目の前で指を鳴らした。
パチン。
その瞬間、彼の指先から小さな「青い蝶」が舞い上がった。
「綺麗な色だろう? これは俺が初めて海を見た時の記憶だ」
「な……」
私は絶句した。
記憶を具現化できるのは、選ばれた彩画師だけのはず。
「あんた、なんで『金色』を使わない? 懐で腐りかけてるぜ」
「あなたには関係ない!」
私は立ち上がり、彼を睨みつけた。
フェンは包帯の下で見えないはずの目を、私の胸元に向けたまま言った。
「俺が連れて行ってやるよ。その金色の正体がわかる場所へ」
「は?」
「『プリズムの頂』。そこに行けば、使ってしまった記憶を取り戻せるらしい」
心臓が、早鐘を打った。
使った記憶が、戻る?
そんな御伽噺、信じられるわけがない。
「嘘よ」
「嘘かどうか、確かめる前に霧に食われるか? 街の結界、もう三日も持たないぜ」
図星だった。
私が濁った色ばかり使っているせいで、結界は限界に近い。
フェンは右手を差し出した。
その手は、驚くほど透き通るような白さだった。
「行こうぜ、臆病な彩画師様。世界を救うより、自分を救う旅にさ」
その手を取ったのが、運命の始まりだった。
第二章 記憶を燃やす旅路
街を出ると、世界は本当に「灰色」だった。
地面も空も、枯れ木も、すべてが鉛筆のデッサンのように色を失っている。
足音さえも、霧に吸われて響かない。
「ほら、右から来るぞ」
フェンの警告と同時に、霧が獣の形を成して襲いかかってきた。
影のような狼の群れ。
「くっ……!」
私は筆を抜く。
引き出す記憶は——『一年前、夕飯のスープを焦がした失敗』。
「灰色(グレー)の盾!」
どろりとした灰色の壁が出現し、狼の牙を受け止める。
だが、脆い。
壁に亀裂が走る。
「相変わらず、湿気た色だなあ」
フェンが私の前に躍り出た。
彼は何も持っていない。
ただ、その右腕を横薙ぎに振るった。
「『ハニー・イエロー』!」
鮮烈な黄色の斬撃がほとばしる。
狼たちは一瞬で蒸発し、周囲の景色に微かな色彩が戻った。
「すごい……今の、何の記憶?」
「ガキの頃、盗み食いした蜂蜜の味」
彼は悪びれもせず言う。
「あんた、記憶を『消費財』だと思ってるだろ」
「違うの? 使えば消えてしまう……」
「違うね。記憶は『燃料』だ。燃やして、その熱で前に進むんだよ。燃えカスを大事に抱えてても、凍え死ぬだけだ」
フェンの言葉はいちいち癇に障る。
でも、彼の魔法は圧倒的に強くて、温かかった。
旅は続いた。
私たちは、野宿をしながら「プリズムの頂」を目指した。
夜、焚き火の代わりに、フェンがつまらない記憶(靴紐が解けた、とか)を燃やして暖を取る。
「ねえ、フェン。あなたのその『目』、どうしたの?」
ふと、気になっていたことを尋ねた。
包帯で覆われたその目を、彼は一度も見せていない。
「……対価さ」
「対価?」
「彩画師になりたての頃、どうしても守りたいものがあってね。でかい魔法を使うために、視力を丸ごと『色』に変えた」
息を呑む。
視覚を、記憶ではなく機能そのものを絵の具にしたというのか。
「後悔してないの?」
「してないさ。おかげで、世界は光で満ちてる」
彼は空を見上げた。
灰色の雲が垂れ込めているだけの空を。
「俺には見えるんだ。あんたの中にある『金色』が。それはきっと、太陽よりも眩しい」
「……私には、それが何なのか分からないの。ただ、失くしたくない」
「忘れているのに、失くしたくない、か」
フェンは静かに笑った。
その横顔が、なぜかひどく懐かしくて、胸が締め付けられた。
私はポケットの中の日記帳を握りしめる。
ここには、私が使って消えてしまった記憶の「あらすじ」だけが書いてある。
『母の笑顔(オレンジ色) → 使用済み』
『初めての恋(ピンク色) → 使用済み』
文字で読んでも、感情は蘇らない。
ただの情報だ。
私が私であるための証拠が、どんどん削り取られていく恐怖。
「ライラ。いつかあんたがその金色を使う時、世界はきっと変わる」
「使わないわよ。絶対」
私は意固地になって背を向けた。
フェンの優しさが、私の決意を揺るがせるのが怖かった。
第三章 プリズムの頂
旅の果て。
私たちはついに「プリズムの頂」に到達した。
そこは、世界で一番高い山。
しかし、頂上にあったのは、美しい神殿でも、記憶を取り戻す泉でもなかった。
ただの、断崖絶壁。
そして、眼下に広がるのは、見渡す限りの「無」だった。
「……嘘」
私は呆然と立ち尽くす。
ここには何もない。
「ようこそ、世界の終着点へ」
フェンが、淡々と言った。
「フェン、どういうこと? 記憶が戻るんじゃ……」
「戻らないよ。消えた記憶は二度と戻らない。それが摂理だ」
騙された。
怒りが湧き上がるよりも先に、絶望が私を包み込んだ。
その時、ゴゴゴ……と地響きが鳴った。
足元から、桁違いの濃度の霧が噴き出してくる。
今まで見たこともない、巨大な人型の霧。
世界の終わりを告げる「虚無の巨人」だ。
「きゃああっ!」
衝撃波で吹き飛ばされる。
私は崖の縁に追い詰められた。
「ライラ、描け!」
フェンが叫ぶ。
「無理よ! もう弾切れなの! 悲しい記憶も、痛い記憶も、全部使い果たした!」
旅の途中で、私はほとんどの記憶を絵の具にしてしまった。
今、私の中にあるのは、正体不明の「金色」だけ。
「それを使え! 今ここで!」
「嫌っ! これだけは……これだけは、私が私であるための最後の……!」
巨人の腕が振り下ろされる。
私は目を瞑った。
——ドォォォォン!!
衝撃が来ない。
恐る恐る目を開けると、そこには、背中があった。
ボロボロのマントが、黄金の光を纏ってはためいている。
「フェ……ン?」
フェンが、巨人の拳を片手で受け止めていた。
いや、受け止めているのではない。
彼自身の体が、光の粒子となって崩れ始めている。
「……やれやれ。結局、こうなるのか」
彼は振り返った。
包帯が風にさらわれて、解けていく。
露わになったその顔を見て、私の時間は停止した。
目は閉じていない。
けれど、その瞳には色がなかった。
ガラス玉のような、透明な瞳。
そして、その顔は。
「嘘……嘘よ……」
脳裏に、鍵のかかった扉が激しくノックされる。
——『ライラ、泣くなよ』
——『お兄ちゃんが、守ってやるから』
激痛と共に、記憶が奔流となって溢れ出した。
フェン。
彼は、私の兄。
十年前、私を庇って霧に飲まれ、死んだはずの兄。
「思い出したか?」
フェンの体が、足元から透けていく。
「どうして……死んだはずじゃ……」
「俺は、あんたの記憶だ、ライラ」
彼は優しく微笑んだ。
「あんたがあまりにも深く、強く俺のことを思い続けてくれたから。俺という『記憶』は実体を持って、あんたの隣を歩くことができた」
私が抱えていた「金色」の正体。
それは、亡き兄との、幸せだった日々のすべて。
そして、私の目の前にいるフェン自身。
「待って……じゃあ、その金色を使うってことは……」
「ああ。俺を消費するってことだ」
彼は私の手を取り、筆を握らせた。
「俺を使えば、この巨人を消せる。世界に色を取り戻せる。……その代わり、あんたは俺のことを完全に忘れる」
「嫌っ!!」
私は筆を放り投げようとした。
「忘れるなんて嫌! お兄ちゃんを二度も殺すなんてできない!」
「殺すんじゃない。託すんだ」
フェンは、私の頬に手を添えた。
その手は温かい。記憶なのに、こんなにも温かい。
「ライラ。俺はね、あんたの中でずっと窮屈だったんだ。思い出として閉じ込められるより、あんたの未来を守る力になりたかった」
「やだ……やだぁ……」
「笑え、ライラ。最高傑作を描くんだろ?」
巨人が、再び腕を振り上げる。
もう時間がない。
私は泣きじゃくりながら、筆を握り直した。
フェンが、私の背中を抱きしめる。
「愛してるよ、ライラ」
その言葉が、トリガーだった。
私の中の「金色」が炸裂する。
「——『最愛(ゴールド)』!!」
私は叫び、筆を振るった。
最終章 名前のない涙
世界は、光に満ちていた。
目を開けると、そこは花畑だった。
今まで灰色だった荒野に、色とりどりの花が咲き乱れている。
空は抜けるような青。
雲は白く、太陽が眩しい。
霧は消えていた。
世界は救われたのだ。
「あ……」
私は筆を握ったまま、立ち尽くしていた。
風が頬を撫でる。
甘い花の香り。
すべてが完璧な、ハッピーエンド。
なのに。
「う、うぅ……」
涙が止まらない。
ボロボロと、大粒の涙が地面に落ちて、小さな花を濡らす。
胸に、風穴が開いたみたいだ。
とても大切な、何か凄まじく温かいものを、私は持っていた気がする。
懐を探る。
日記帳が出てきた。
最後のページを開く。
そこには、私の文字でこう書かれていた。
『 (金色) → 使用済み』
空欄。
名前がない。
何を代償にしたのか、何も書かれていない。
「私……何で泣いてるんだろう」
涙を拭っても、拭っても、溢れてくる。
悲しいわけじゃない。
ただ、愛おしい。
世界中のすべての色が、誰かの優しさで出来ているような気がして。
ふと、風に乗って、青い蝶がひらりと舞った。
蝶は私の鼻先に止まり、そして空高くへ飛んでいく。
私はその光景が、理由もなく懐かしくて、空に向かって手を伸ばした。
「……ありがとう」
誰に言ったのかも分からぬまま、私は光の中で微笑んだ。
その金色は、私の記憶からは消えてしまったけれど。
この世界そのものに溶けて、今も私を抱きしめている。
それだけは、確かな真実だった。