記憶の残響、物語の種子

記憶の残響、物語の種子

2 3949 文字 読了目安: 約8分
文字サイズ:
表示モード:

第一章 砂礫の叫び声

乾いた風が、肺の奥まで焦げ付くような砂を運んでくる。

第十七層、地下遺跡。

崩落した天井の隙間から差し込む光は、宙を舞う塵を照らすだけで、足元の闇までは届かない。

私は革手袋を噛んで脱ぎ捨てると、瓦礫の中に埋もれた「それ」に触れた。

砕けた陶器の欠片。

なんの変哲もないガラクタだ。だが、私の指先は怖気(おぞけ)を振るっている。

「……ッ」

指紋が触れた瞬間、他人の五感が脳髄へ雪崩れ込んだ。

鼓膜を突き破る爆音。

肉が焼ける脂っこい臭い。

――熱い、熱いよ母さん!

――息ができない。誰か、ここから出してくれ……!

数百年前、火災で生き埋めになった少年の最期。

煙に巻かれ、爪が剥がれるまで扉を掻きむしった絶望が、私の神経を直接ヤスリで削る。

「ぐ、ぅ……!」

胃液が喉元までせり上がる。

私は口元を押さえ、その場に崩れ落ちた。

他人の死の記憶(レコード)が、私の掌にある『種子』へと吸い込まれていく。透明だった結晶の中に、赤黒い濁流が混ざり、ドクリと脈打った。

「エレン、回収できたか」

背後から、低い声が降る。

相棒のガイルだ。

彼は私の顔色を覗き込むこともなく、行く手を阻む巨大な岩盤を見据えている。

その横顔には、脂汗が滲んでいた。

「……ああ、行き止まりか」

ガイルが呟く。

彼は腰の剣には手をかけない。物理的な干渉では、この古代の岩は砕けないと知っているからだ。

彼が右手を上げる。

袖口から覗くのは、銀細工のブレスレット。

昨日、彼が「死んだ袋小路の、唯一の形見だ」と笑って磨いていたもの。

「頼むぞ、ガイル」

私が止める権利はない。ここは死地だ。進まなければ、二人とも渇きで死ぬ。

ガイルは深く息を吸い、そして吐き出した。

まるで、魂の一部を吐き出すように。

「穿て」

短い詠唱。

閃光が走り、岩盤が飴細工のように溶解する。

道が開いた。

だが、ガイルは動かない。

上げたままの右手を、呆けたように見つめている。

「ガイル?」

「……ああ、悪い。手首が少し痒くてな」

彼はポリポリと手首を掻いた。

そこにあるブレスレットが、邪魔そうに音を立てて揺れる。

「なんだこれ、趣味の悪い銀細工だな。いつ買ったんだったか」

私の心臓が、早鐘を打つ。

彼はブレスレットを外そうとした。

「待って!」

私はとっさに彼の手首を掴んだ。

指先が震える。

彼は、母親の顔を忘れたのだ。

あんなに大切にしていた思い出を、たった一発の魔法の代償として、世界に徴収された。

「……似合ってるわよ。凄く」

喉の奥が張り付いて、声が上擦る。

「そうか? ま、エレンが言うなら着けとくか」

彼は屈託なく笑う。

その笑顔が、私にはナイフのように刺さる。

忘却だけが、人が魔法を行使するトリガー。

この世界は、あまりに残酷にできている。

私は胸ポケットの『種子』を強く握りしめた。

昨夜、彼が入れてくれたコーヒーの味。

不器用な鼻歌。

私の髪を撫でてくれた、温かい手のひらの感触。

いつか、これらも全て消えてしまうのだろうか。

第二章 狂った天蓋

王都は、地獄の釜の底だった。

正門をくぐった瞬間、平衡感覚が狂う。

重力がねじ切れている。

石畳の路地から、かつて海に沈んだはずの珊瑚礁が巨大な森のように隆起し、民家を貫いていた。

空には、手足の生えた魚の群れが、悲鳴のような鳴き声を上げて泳いでいる。

「う、わああああっ!」

通り過ぎた男が、突然、泥水のように溶けて崩れた。

男が立っていた場所には、一本の枯れた街灯だけが残る。

物質と記憶の境界が崩壊している。

「おい、冗談だろ……」

ガイルが剣を構えるが、切っ先が定まらない。

敵がいないのだ。

世界そのものが、私たちを拒絶している。

「精霊たちの処理落ち(オーバーフロー)よ」

私は呻くように言った。

街中の壁という壁から、人の話し声が聞こえる。

何億、何兆という過去の人々の「未練」が、行き場を失って溢れ出している。

雨粒が頬に当たるたび、誰かの失恋の痛みが走る。

風が吹くたび、戦場で死んだ兵士の幻肢痛が私の右腕を襲う。

「限界なの。人間が魔法を使うたびに捨ててきた記憶のゴミ山が、崩れたのよ」

その時。

王都の中央広場、時計塔の針が逆回転を始めた。

ゴォォォォォォ……。

空間を引き裂く音と共に、時計塔の根元から、黒いタールのような泥が噴き出す。

泥ではない。

あれは、決して思い出してはいけない『虚無』。

触れれば自我が溶ける、原初の恐怖。

「エレン、下がれ! 俺が吹き飛ばす!」

ガイルが一歩前に出る。

右手に魔力を込める。

「やめて!」

私は彼の背中にしがみついた。

「あれを消すのに、どれだけの記憶(コスト)が必要だと思ってるの!?」

「じゃあどうする! このままじゃ世界ごと飲み込まれるぞ!」

「あなたが魔法を使えば、あなたは空っぽになる!」

「世界が終わるよりマシだろ!」

「イヤよ!」

私は叫んだ。

涙が溢れて止まらない。

「あなたが私のことを忘れるくらいなら、世界なんてどうなったっていい!」

ガイルが息を呑み、動きを止める。

その一瞬の静寂。

崩れゆく世界の中で、私は彼の体温だけを感じていた。

でも、わかっている。

このままでは、二人とも死ぬ。

死ねば、思い出さえ残らない。

私はゆっくりと、彼の手を離した。

「……エレン?」

「約束して、ガイル」

ポケットから、脈打つ『記憶の種子』を取り出す。

かつて透明だった結晶は今、限界まで他人の記憶を吸い込み、どす黒く濁っている。

「私のこと、絶対に忘れないって」

「おい、何を――」

私は彼に背を向け、黒い泥の奔流へと走り出した。

「エレンッ!!」

彼の絶叫が聞こえる。

ごめんね、ガイル。

魔法使い(あなた)が記憶を捨てるなら。

読み手(わたし)は、その全てを拾い集める器になればいい。

第三章 忘却の彼方へ

黒い泥の中に飛び込んだ瞬間、世界が反転した。

寒い。いや、熱い。

視覚、聴覚、触覚、すべてがバラバラに解体される。

『痛い痛い痛い痛い』

『帰りたい』

『愛してる』

『殺してやる』

数億人の叫び声が、私の脳細胞一つ一つに強引に書き込まれていく。

私の名前はエレン。

いいえ、私は戦士。

違う、私は昨日生まれた赤子。

私は……誰?

「あ、が……っ」

自我という堤防が決壊する。

私という「個」が、膨大な「全」の中に希釈されていく。

(ガイル……)

必死に、大切な相棒の顔を思い浮かべる。

けれど、脳裏に浮かんだその顔は、ノイズ走る映像のように乱れ、知らない男の顔と重なり、やがて砂嵐に変わる。

怖い。

自分が自分でなくなる感覚。

指先の感覚がない。自分の体が、泥に溶けて光の粒子になっているのがわかる。

『記憶の種子』が砕け散り、私の心臓と融合する。

ドクン。

新しい鼓動。

それは人間のそれではなかった。

私は、世界中の「忘れられた記憶」を保存する、巨大な書庫(アーカイブ)そのものに変質していく。

(ああ、そうか……)

意識が薄れる中、私は奇妙な安らぎを感じていた。

これでいい。

私が全ての痛みを引き受ければ、もう誰も、大切な人の顔を忘れなくて済む。

ガイルは、もう魔法を使っても、母親を思い出せる。

私が覚えているから。

世界中のすべての喪失を、私が抱きしめて眠るから。

視界の端に、必死に手を伸ばすガイルの姿が見えた。

彼は泣いていた。

子供のように、顔をくしゃくしゃにして。

その涙を見て、私は最後に、人間としての唇で微かに笑った。

――泣かないで。

声はもう出ない。

――あなたの物語は、私が全部、読んであげる。

ブツン、と。

古いテレビの電源が切れるように、エレンという少女の時間は終了した。

***

風が、草原を渡っていく。

焚き火の爆ぜる音が、パチパチと夜空に響く。

「……そして、少女は星になった」

初老の男が、静かに語りを終えた。

周りに座る子供たちが、ほうっと息を吐く。

「ねえ、おじいちゃん。その女の子、痛くなかったの?」

一人の少女が尋ねる。

男は、左手首にはめた古びた銀のブレスレットを、愛おしげに撫でた。

その瞳は、遠い何処かを見ているようで、けれど確かな光を宿している。

「痛かっただろうさ。寂しかっただろう」

男は薪をくべる。

炎が舞い上がり、彼の顔を赤く照らす。

かつて、魔法には代償が必要だった。

だが今は違う。

空を見上げれば、そこには無数の星が瞬いている。

あれは全て、彼女が守り抜いた記憶の欠片だ。

「だが、彼女はそこにいる。俺たちがこうして語り継ぐ限り、彼女は物語の中で生き続ける」

男は夜空の一番明るい星を見つめた。

名前は、もう思い出せない時がある。

顔の輪郭も、声の色も、長い歳月の中で霧のように霞んでしまった。

けれど、胸の奥にあるこの温かさだけは、決して消えない。

「……おやすみ、エレン」

風が吹いた。

炎が揺らめき、まるで誰かが「おやすみ」と返事をしたように、火の粉が舞い上がった。

物語は終わらない。

記憶の残響は、夜明けの光と共に、次の時代へと優しく降り注いでいく。

AIによる物語の考察

**登場人物の心理**:
エレンはガイルへの深い愛から、彼が記憶を失うことを恐れ、自ら世界中の記憶を背負う器となる究極の自己犠牲を選ぶ。ガイルは、世界の危機とエレンの犠牲の間で葛藤し、最終的には彼女の物語を語り継ぐことで、その存在を永続させる役割を担う。

**伏線の解説**:
ガイルの銀のブレスレットは、彼が既に母親の記憶を失っていることを示唆し、魔法の代償の残酷さを際立たせる。この「形見」への無関心さが、エレンの決断の重みを強調する。また、透明な『種子』が赤黒く濁る描写は、エレンが背負う記憶の重さ、そして彼女の変貌を予見させる。

**テーマ**:
この物語は「記憶と忘却」「自己犠牲と愛」「物語の継承」を深く問う。魔法の代償として忘却が常の世界で、エレンの自己犠牲は、愛する者の記憶を守る究極の選択となる。その記憶が「物語」として語り継がれることで、失われたはずのものが永遠の「残響」となり世界に息づく。愛と記憶が形を変えて継承される美しさと悲哀を描いている。
この物語の「続き」を生成する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと...

TOPへ戻る