忘却の糸を紡ぐ者

忘却の糸を紡ぐ者

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第一章 灰色の序曲

リラの世界から、色が消え始めたのは、秋霖が降り続くある朝のことだった。

窓の外に広がる街並みは、まるで古い写真のように、くすんだモノクロームに沈んでいた。昨日まで燃えるような赤色を誇っていた中庭の楓が、今はただ濃淡の異なる灰色に見える。空は鉛色に塗りつぶされ、人々のまとう衣服も、市場に並ぶ果物も、その鮮やかな色彩を奪われていた。

異変は、人々の記憶にも及んでいた。誰も「青」という言葉の意味を思い出せない。「赤」という概念を理解できない。世界から色が失われたこと自体に、誰も気づいていないのだ。まるで、初めから世界は無彩色だったかのように、人々は灰色の日常を淡々と生きていた。

ただ一人、リラを除いては。

彼女の瞳には、まだ世界の残像が映っていた。楓の葉の、血のような赤。空の、吸い込まれるような青。それらは霧の中の幻のように、輪郭がぼやけ、不確かではあったが、確かにそこに「在った」はずの色だった。

リラは「記憶を紡ぐ者(メモリア・テキスター)」と呼ばれる一族の末裔だ。彼らは、人々が忘れた記憶を収集し、それを糧として魔法を紡ぐ。忘れられた恋の詩は癒しの光となり、忘れられた英雄の武勲は守りの盾となる。魔法の強さは、集めた記憶の深さと広さに比例する。

しかし、リラはその一族の中で「落ちこぼれ」だった。彼女は、忘れられた記憶の断片を「視る」ことはできても、それを魔法という形に「紡ぐ」力が極端に弱かった。一族の誰もが操る初歩的な灯火の魔法すら、彼女の手の中では蝋燭の炎ほどにしか揺らめかない。

「リラ」

背後からかけられた厳かな声に、リラはびくりと肩を震わせた。一族の長老である祖母が、杖を手に立っていた。祖母の深い皺に刻まれた瞳だけが、この色を失った世界で唯一、確かな光を宿しているように見えた。

「この現象、お前には何が見える?」

「……色が、あったはずの場所が見えます。でも、霧がかかったように不鮮明で……」

「『大忘却』だ」祖母は静かに告げた。「何者かが、意図的に、そして大規模に『色』に関する記憶を世界から収奪している。これほどの規模の記憶収集は、一個人の魔法使いにできることではない。何か、途方もない目的があるはずだ」

祖母の視線が、リラを射抜く。「お前だけが、失われた色の残滓を視ることができる。それは、お前の力が弱いからではない。お前の魂が、他の誰よりも『記憶そのもの』に近いからだ。行け、リラ。忘却の源流を突き止めるのだ。これは、お前にしかできぬ使命だ」

落ちこぼれの自分に、世界の命運を左右するような使命。その重圧に、リラは息が詰まりそうだった。しかし、彼女の脳裏には、昨日まで見ていた鮮やかな夕焼けの記憶が焼き付いている。あの燃えるような橙と紫のグラデーションを、このまま永遠に失ってしまっていいはずがない。

リラは、小さな鞄に数日分の食料と古びた地図を詰め、灰色の世界へと一歩を踏み出した。それは、自身の無力さと向き合う、色なき旅の始まりだった。

第二章 色なき旅路

色が失われた世界は、静かに活力を失っていた。

灰色のリンゴは歯触りこそ同じだが、蜜の甘さを感じにくかった。モノクロームの川の流れは、命の躍動ではなく、ただ無機質な時間が過ぎていく様を映しているだけだった。人々の笑顔からさえ、どこか感情の起伏が抜け落ち、顔に描かれた線のように見えた。色は、単なる視覚情報ではなかった。それは感情を彩り、味を深め、世界に意味を与える、魂の栄養だったのだ。

リラは、失われた色の痕跡を求めて旅を続けた。彼女の瞳だけが捉える、ぼんやりとした色彩の残滓を頼りに、世界の境界にそびえるという「忘却の図書館」を目指していた。そこは、世界中から集められた忘れられた記憶が、書物の形で眠る場所だという。今回の『大忘却』の犯人も、そこにいる可能性が高い。

旅の途中、彼女は風変わりな男と出会った。名をエルドという、盲目の吟遊詩人だった。彼は生まれつき光を知らなかったが、その代わりに世界を「音」で感じ取っていた。

「お嬢さんの足音には、迷いの響きがあるな」

焚き火を囲んだ夜、エルドはそう言って古びたリュートを爪弾いた。「世界が静かになった、と感じる。人々の声から、笑い声から、色彩が消えたようだ。あんたは、その理由を知っているのかい?」

リラは驚いて顔を上げた。目が見えないはずの彼が、なぜ。

「俺には色が見えない。だが、分かるんだ。人々が『夕焼けが美しい』と語るときの声の高揚を。恋人が『君の瞳は空の色だ』と囁くときの吐息の熱を。そういう音たちが、この世界から消えちまった。まるで、世界が一番大事な歌を忘れてしまったみたいに」

エルドの言葉は、リラの胸の奥深くに突き刺さった。彼女は自分の使命と、一族の秘密を打ち明けた。魔法が忘れられた記憶から生まれること。そして、何者かが「色」の記憶を根こそぎ奪い去っていることを。

エルドは静かに聞いていたが、やがてぽつりと言った。

「記憶を力に変える、か。面白いな。だが、忘れられた記憶というのは、本当にただの燃料なのかい? 忘れられたからといって、無価値になるわけじゃない。誰かが覚えていなくても、起きたことは起きたことだ。それは世界の歴史の一部だろうに」

その言葉は、リラにとって目から鱗が落ちるような衝撃だった。彼女の一族は、常に忘れられた記憶を「資源」として扱ってきた。より強く、より古い記憶を集めることが美徳とされた。しかし、その記憶がもともと誰のもので、どんな意味を持っていたのかを深く考えることはなかった。

「私は……自分の力が弱いことばかりを気にしていました」リラは震える声で言った。「強い魔法が使えない自分は、落ちこぼれだと。でも、失われた色を見て、人々を見て、初めて気づきました。記憶は、力なんかじゃなくて……もっと、温かくて、大切な、誰かの宝物だったんですね」

灰色の涙が、彼女の頬を伝った。エルドは何も言わず、ただ優しい音色のリュートを奏でた。その音は、まるで失われた色を慰めるように、静かな夜の闇に溶けていった。この旅で、リラは少しずつ変わり始めていた。彼女はもはや、ただの落ちこぼれの魔法使いではなかった。失われた記憶の痛みが分かる、一人の人間として、忘却の源流へと向かっていた。

第三章 忘却の図書館で待つ者

幾多の困難を乗り越え、リラはついに世界の境界、「忘却の図書館」へと辿り着いた。そこは、天に届くほどの巨大な螺旋状の塔で、壁面はすべて、タイトルを持たない無数の古書で埋め尽くされていた。空気は古紙の匂いと、微かな魔力の匂いで満ちている。

図書館の中心、最も多くの記憶が集まる最上階へ向かうと、そこには一人の女性が背を向けて立っていた。彼女の周囲には、赤、青、黄、緑……無数の色の光球が渦巻き、その魔力の奔流はリラの肌をピリピリと刺した。あれが、世界中から収奪された「色の記憶」だ。

「あなたが……こんなことをしたのですか」

リラが声を振り絞ると、女性はゆっくりと振り返った。

その顔を見た瞬間、リラは息を呑んだ。そこにいたのは、見知らぬ誰かではなかった。歳を重ね、目元には深い憂いをたたえているが、その顔立ちは鏡で見る自分自身と寸分違わなかった。

「……待っていたわ、過去の私」

未来のリラは、静かに、そして悲しげに微笑んだ。

混乱するリラに、未来の彼女は語り始めた。それは、絶望に満ちた未来の物語だった。

「私たちの未来で、世界は滅びるの」未来のリラの声は、ひび割れたガラスのようにか細かった。「原因は、一つの巨大すぎる記憶。『大いなる悲しみ』と呼ばれる厄災の記憶よ。それはあまりに鮮烈で、あまりに痛ましく、誰も忘れることができなかった。その悲しみに心を蝕まれた人々は生きる希望を失い、世界は緩やかに死へと向かっていった」

未来のリラは、その未来を変えるために、時を超えて過去へ来たのだという。

「私は、ありとあらゆる方法を試した。でも、『大いなる悲しみ』の記憶は、どんな強力な魔法でも消し去ることはできなかった。だから……私は、別の方法を選んだのよ」

彼女は、渦巻く色の光球に手を伸ばした。

「悲しみが心を砕くのは、人々が喜びを知っているから。美しいものを美しいと感じる心があるから。だから私は、世界の感受性の根源である『色』の記憶を奪うことにした。色がなければ、鮮やかな喜びは生まれない。けれど同時に、心を焼き尽くすほどの深い悲しみも感じなくなる。人々は感情の乏しい、穏やかな停滞の中で、少なくとも滅びを回避できる。これは……救済なのよ」

リラの足元が、ぐらりと揺れた。正しいと信じていたものが、音を立てて崩れていく。記憶を守ること。それが一族の、そして自分の使命だと思っていた。だが、目の前にいる自分自身は、世界を救うために、最も美しい記憶を世界から消し去ろうとしている。

落ちこぼれだと思っていた自分が、未来では世界そのものを書き換えようとするほどの、強大な魔法使いになっている。その事実に、喜びよりも先に恐怖がこみ上げた。悲しみから人々を守るために、喜びを奪う。そんな歪んだ救済が、本当に正しいことなのだろうか。

「さあ、理解できたでしょう?」未来のリラが、手を差し伸べる。「あなたも私。ならば分かるはず。これが、唯一残された道だということが」

彼女の瞳に宿る深い絶望と、それでも世界を愛するがゆえの苦渋の決断。リラは、反論の言葉を見つけられずに立ち尽くすしかなかった。

第四章 世界が色を取り戻す時

リラは、目の前の「自分」を見つめた。その瞳の奥には、リラには想像もつかないほどの年月と、絶望が横たわっている。彼女の言う通りかもしれない。悲しみで滅びる未来よりは、感情のない停滞の方が、まだましなのかもしれない。

だが、リラの脳裏に浮かんだのは、エルドの言葉だった。「世界が一番大事な歌を忘れてしまったみたいだ」。そして、灰色の世界で見た、虚ろな瞳の人々の顔。彼らは生きてはいたが、本当に「生きて」いただろうか。

「違う」リラは、か細く、しかしはっきりと呟いた。「それは、救済じゃない。ただの諦めよ」

「何ですって?」未来のリラの眉が、わずかに動いた。

「悲しみを知らない喜びなんて、きっと本物じゃない。痛みを失った優しさが、空虚なものなのと同じように。あなたは未来の人々から、悲しみだけじゃなく、それを乗り越えて本当の喜びを見つける可能性まで奪おうとしている」

リラは一歩、前に踏み出した。もう彼女の声に、迷いの響きはなかった。

「私の力は弱い。あなたのように、世界を書き換えるほどの魔法は使えない。でも、私には、あなたにはもう見えなくなってしまったものが見える。色がなくても、人々は笑おうとしていた。灰色の花に水をやり、味気ないリンゴを分かち合っていた。希望を完全に奪う権利なんて、誰にもない!」

その瞬間、リラは自分の力の本当の意味を悟った。

「記憶を紡ぐ者」の力は、忘れられた記憶を魔法として消費するためだけのものではなかった。忘れられた喜びも、悲しみも、過ちも、その全てを魂に刻み込み、未来へ「物語」として伝えるための力なのだ。忘却に抗い、世界の魂を記録し続ける、語り部としての力。

「私は、あなたを止めない。あなたを消し去ることもしない」リラは静かに言った。「あなたの悲しみも、絶望も……私が受け継ぐ。それも、世界が辿るかもしれない、一つの大切な物語だから」

リラは両手を広げ、目を閉じた。彼女が集中したのは、未来の自分が集めた「色の記憶」ではなかった。彼女自身の魂の奥底、旅の中で出会った風景、人々の声、エルドのリュートの音色、そして目の前にいる未来の自分の深い悲しみ。その全てを、一本の糸として紡ぎ始めた。

それは攻撃魔法ではない。破壊の力でもない。

リラが紡いだのは、一つの巨大な「物語」の魔法だった。

《世界がかつてどれほど美しく、色鮮やかだったか。人々がどれほど笑い、泣き、愛し合ったか。そして、その先に待つかもしれない悲しみを乗り越えた先に、どんな希望が待っているか》

その物語は光となり、忘却の図書館から溢れ出した。それは世界中に降り注ぎ、人々の心に直接響き渡った。人々は、頭の片隅に追いやられていた「青」を、「赤」を思い出す。それは単なる色の復活ではなかった。夕焼けを見て胸が熱くなる感覚、愛しい人の頬の赤みに心ときめく感情、澄んだ空の青さに希望を見出す心。色と共に、失われた感情の機微が、鮮やかに蘇ったのだ。

未来のリラは、その光景を呆然と見つめていた。やがて、彼女の頬を涙が伝った。それは、絶望の涙ではなかった。

「そうか……私は、忘れることばかり考えていた。でも、あなたは……すべてを覚えて、進もうとするのね」

彼女は穏やかに微笑むと、その姿が光の粒子となって、ゆっくりと掻き消えていった。「ありがとう、過去の私。君ならきっと、私とは違う未来を紡げる……」

世界に、色は戻った。しかし、それは以前と同じ世界ではなかった。人々は一度失ったことで、色彩の価値、そして記憶の尊さを、骨身に染みて理解していた。

リラは、故郷には戻らなかった。彼女は「世界の記憶を紡ぐ物語作家」として、旅を続けることを選んだ。悲しみの記憶も、喜びの記憶も、どちらも消し去ることなく、ありのままを物語として紡いでいく。それが、未来の自分が託した、新しい未来への道標だと信じて。

ふと空を見上げると、そこには目が覚めるような青空が広がっていた。それは、失う痛みを知ったからこそ感じられる、どこまでも切なく、そして限りなく美しい青だった。

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