夢の残響、輪郭のない君
第一章 触れられない景色
僕、カイの存在は、まるで薄い水彩画のようだった。人の肩をすり抜け、差し伸べられた手に触れることもできず、その指先は空気を掻くだけ。世界との間には、決して越えられない透明な壁が存在した。僕の輪郭は、この世界に対してあまりにも曖昧すぎたのだ。
街は『夢蝕(ゆめむしばみ)』に侵されていた。建物の縁は滲み、アスファルトの色は日に日に褪せていく。人々が見る夢の力が弱まり、世界という巨大な夢そのものが、覚醒の縁で崩れ始めているのだという。僕のこの身体も、その兆候の一つなのだろう。
そんな崩れかけた街の片隅、忘れられた図書館で彼女、リナに出会った。彼女は、今にも崩れ落ちそうな書架の間を、確かな足取りで歩いていた。その存在感の強さは、色褪せた世界の中で唯一、鮮やかな原色を保っているかのようだった。
「探しているものがあるの」
彼女は埃を被った本の山を指差しながら言った。その声には、諦観に満ちたこの世界には不釣り合いなほどの芯があった。
「『星霜のオルゴール』。世界を救う鍵だって、父が」
言葉の途中で、彼女の瞳が揺らぐ。家族の記憶すら、夢蝕は容赦なく蝕んでいく。その危うさが、僕の胸を締め付けた。守りたい。そう思った瞬間、僕は無意識に彼女の腕に手を伸ばしていた。
しかし、その手はやはり、陽炎のように彼女の身体を通り抜ける。
「あ……」
リナの驚いたような、それでいて少し寂しそうな声。触れられない。まただ。その絶望が、僕の内側で激しい渦を巻いた。その時だった。僕たちのすぐ横にあった巨大な書架が、ガタン、と大きく揺れたのだ。何冊もの本が床に落ち、乾いた音を立てる。
リナが目を見開く。僕も、自分の指先を見つめた。何も触れていないはずなのに。僕の中から溢れた感情の奔流が、初めてこの世界の物質に、確かな痕跡を残したのだ。
第二章 星霜のメロディ
僕たちは協力して、図書館の最も深い場所でそれを見つけ出した。煤けた木箱に収められた『星霜のオルゴール』は、想像よりもずっと小さく、静かな存在だった。リナが震える指で蓋を開けると、軋むような音と共に、不協和音が流れ出す。それはメロディというより、崩壊した街の風の音、誰かのすすり泣き、遠いサイレンのような、未来の残骸を繋ぎ合わせた音の断片だった。
「これが……」
リナの声が失望に沈む。だが、その時、強い『夢蝕』の波が街を襲った。窓の外の景色がぐにゃりと歪み、図書館の床が、リナの足元から透けていくのが見えた。
「リナ!」
彼女の存在が、僕の前から消えてしまう。その恐怖が、僕の心の奥底で爆発した。失いたくない。ただその一心で、僕はオルゴールに手を伸ばした。触れられないはずのそれに、僕の指が確かに触れる。
刹那、オルゴールから溢れ出したのは、先ほどの不協和音ではない。澄み渡るような、それでいてどこか懐かしい、星の光を編み上げたような旋律だった。そのメロディが響き渡ると、リナの足元の床は確かな質感を取り戻し、窓の外の歪みも、まるで嘘のように収まっていった。
「カイ……君が」
リナは僕の手とオルゴールを交互に見て、息を呑んだ。僕の強い感情が、このオルゴールに眠る真の力を呼び覚ましたのだ。そして、そのメロディこそが、世界の希薄化を押し留める唯一の手段であることを、僕たちは確信した。
第三章 夢の源流へ
オルゴールの旋律は、微かに、しかし確かに一つの方向を指し示していた。世界の夢の源、『根源の夢』。そこへ行けば、すべてがわかるはずだ。僕たちは、崩れゆく世界を旅する、小さな巡礼者となった。
道中、僕たちは世界の成り立ちの断片を見た。誰かが見た幸せな誕生日パーティの残骸が、甘いケーキの匂いだけを残して漂っている。巨大な怪物が暴れ回る悪夢が、焼け焦げた大地の傷となって刻まれている。この世界は、無数の夢が織りなす、儚くも美しいタペストリーなのだ。
旅の途中、幾度も『夢蝕』が僕たちを襲った。そのたびに、僕はリナを守りたい一心でオルゴールに触れた。最初は絶望や恐怖といった負の感情でしか干渉できなかったが、次第に、「彼女の笑顔が見たい」という温かい想いでも、メロディを奏でられるようになっていった。
だが、力を使うたびに、僕自身の輪郭はさらに曖昧になっていく。光に翳せば、向こう側が透けて見えるほどに。
「無理しないで」
リナが心配そうに僕を見る。その瞳に映る僕は、ひどく頼りない存在だった。それでも、彼女が僕の名前を呼んでくれる限り、僕はまだこの世界に繋ぎ止められていた。
第四章 最後の望み
幾多の夢の残骸を越え、僕たちはついに『根源の夢』の聖域にたどり着いた。そこは、上下左右の感覚すら失われる、無限の光と静寂に満ちた空間だった。時間の流れすら、ここでは意味をなさない。
空間の中心に、巨大な水晶の塊のようなものが静かに浮かんでいた。消え入りそうな光を放ちながら、オルゴールと同じ、あの澄んだメロディを微かに奏でている。あれが『根源の夢』の核。
僕が核に一歩近づくと、手にしたオルゴールが激しく共鳴し、光を放った。そして、僕の脳裏に、直接流れ込んでくるビジョン。それは、信じがたい光景だった。
――何もない。音も、色も、温度もない完全な虚無。その中で、ただ一つの意識だけが漂っている。それは、完全に希薄化し、肉体を失い、この世界から消え去った、未来の僕自身の姿だった。
彼は、気の遠くなるような孤独の果てに、たった一つだけ願いを抱いた。
『もう一度、誰かに触れたい』
『温もりを、感じたい』
そのたった一つの、しかし宇宙を創造するほどの強烈な願いこそが、この世界の始まり――『根源の夢』の正体だったのだ。そして今、世界の崩壊が始まっているのは、長すぎる孤独に耐えかねた未来の僕の心が、ついに折れ、その最後の望みを諦めかけているからだった。僕の存在が曖昧なのも、僕が世界の始まりそのものと、同じ性質を持っていたからなのだ。
第五章 環状世界の創造主
未来の僕の絶望が、津波のように現在の僕に流れ込んでくる。孤独、諦め、虚無。その感情に呑み込まれ、僕の身体は足元から光の粒子となって霧散し始めた。
「カイ!」
リナの悲痛な叫びが聞こえる。そうだ。今の僕には、彼女がいる。未来の僕が失ってしまった、温かい繋がりが。
『誰かに触れたい』
その願いは、僕の願いそのものだ。リナに触れたい。彼女を守りたい。未来の僕が抱いた絶望よりも、今の僕が抱く希望の方が、ずっと強く、温かい。
ならば。
未来の僕の望みを、僕が叶えよう。
僕は最後の力を振り絞り、リナの姿を心に強く刻みつける。そして、光となって消えゆく手で、星霜のオルゴールを優しく撫でた。僕の願いのすべてを、その旋律に乗せて。
「ありがとう、リナ。君がいたから、僕は独りじゃなかった」
僕の身体は完全に砕け散り、眩い光となって『根源の夢』の核へと吸い込まれていった。過去と未来の僕が、その場所で一つになる。絶望は希望に塗り替えられ、新たな創世のメロディが、世界に響き渡った。
気がつくと、リナは元の図書館に立っていた。崩れかけていた書架は元通りになり、窓から差し込む陽光は、確かな温もりを持っている。頬を、春の風のような優しい空気が撫でていった。その感触に、リナははっきりとカイの温もりを感じ、涙を一筋こぼした。
カイはもう、個としての輪郭を持たない。彼は世界そのものになったのだ。彼が抱いた「触れ合うことの温かさ」という願いが、この世界の新たな物理法則となり、人々を、万物を繋ぎ止めている。
リナは、手元に残されたオルゴールの蓋をそっと開いた。そこから流れるのは、かつてカイが奏でた、星の光を編み上げたような旋律。そのメロディは、新しく始まった世界への祝福のように、どこまでも優しく響き渡っていく。
孤独だった少年は、今や世界そのものをその腕に抱きしめ、永遠に、その温もりを見守り続ける。