第一章 凍結された時間のかけら
凍てつくような夜だった。窓の外では、銀色の粉雪が音もなく舞い落ち、世界は厚い氷に閉ざされているかのようだった。しかし、リラの胸の内は、その景色よりもさらに冷たく、固く凍りついていた。八年前の、あの忌まわしい夜からずっとだ。彼女の指先は、手の中にある古びた木の箱を撫でる。手のひらに収まるほど小さなその箱は、リラが唯一残された、姉リアの形見だった。
リアは、リラがまだ幼い頃に、森の奥深くで起きた不可解な事故で命を落とした。事故の原因は不明で、残されたのは、血に染まったリアの首飾りと、永遠に解けない謎だけだった。リラは「時の織り手」の一族の末裔として、生まれつき時間の流れを操る微細な能力を持っていた。物をゆっくり動かすこと、一瞬だけ時間を止めること。しかし、過去を改変する行為は、一族の間に伝わる最も厳重な禁忌だった。「時の糸を乱せば、世界の織り目は崩壊する」。そう祖母は厳しく教え込んだ。
その夜、リラはいつものようにリアの箱を開け、彼女の面影を追っていた。指が箱の底に触れた時、かすかな引っかかりを感じる。小さな隠し蓋だ。蓋を開けると、そこには、血に濡れた首飾りとは別に、もう一つ小さなものが収められていた。それは、指の爪ほどの大きさの、透明な鉱石の破片だった。しかし、ただの鉱石ではない。その内部で、極小の光の粒が、早送りされた映像のように激しく明滅している。それは、時間の流れそのものが結晶化したかのような、異質な輝きを放っていた。
「時間のかけら……?」
リラは息を呑んだ。それは、途方もない魔力を持つとされる、伝説上の遺物。時の織り手ですら、その存在を疑う代物だった。それがなぜ、リアの箱の中に? リラがそのかけらに触れた瞬間、彼女の脳裏に、強烈なヴィジョンがフラッシュバックした。それは、リアが倒れる瞬間の、鮮明すぎる光景だった。森の奥、鋭い痛みに顔を歪めるリアの顔、そして、その背後にうごめく、黒く巨大な影。一瞬にして過ぎ去った光景だが、リラは確かに感じた。このかけらは、リアが死んだ「その瞬間の時間」を閉じ込めているのだと。
リラの胸に、熱い感情が込み上げてきた。それは、恐怖でもなく、悲しみでもない。灼けるような、抑えがたい希望だった。もし、このかけらがリアの死の瞬間を閉じ込めているのなら、彼女の持つ「時の織り手」の能力で、それを「縫い直す」ことはできないだろうか? 禁忌。その言葉が脳裏をよぎるが、リアを取り戻せるかもしれないという甘い誘惑は、あまりにも強烈だった。彼女は、震える指でかけらを握りしめた。冷たいはずの鉱石は、彼女の熱意に呼応するかのように、脈打つ温かさを放ち始めた。彼女は決意した。たとえ世界の織り目が崩壊しようとも、リアを救う。そのために、彼女は禁忌を犯す。
第二章 禁忌の糸、紡がれる運命
リラは、街外れの古い納屋を秘密の研究室としていた。陽光も届かない薄暗い空間に、彼女は禁忌の作業台を設けた。木製のテーブルには、古ぼけた天文図が広げられ、その中央で、あの「時間のかけら」が青白い光を放っている。周囲には、祖母から受け継いだ無数の時計部品、錆びた歯車、そして乾燥したハーブが散らばっていた。どれも、時の流れを「視る」ための道具だ。
「時の織り手」として、リラは微細な時の流れを肌で感じることができた。かけらに触れると、リアが死んだ瞬間の時空が、まるで薄い布のように目の前に広がるのを感じる。それはあまりに繊細で、少しでも力を入れれば、途端に破れてしまいそうだった。初めは、ただ時間を巻き戻そうとした。しかし、世界は頑としてそれを拒む。時間が逆流するたび、周囲の時計が狂い、リラの意識も過去と現在の間で激しく揺さぶられた。吐き気に襲われ、何度か気を失いかけた。
「これではだめだ。過去を『巻き戻す』のではなく、『縫い直す』……」
彼女は、ふと祖母の言葉を思い出した。祖母はかつて、古くなった服を繕うように、傷ついた「時の織り目」を修復する方法を語っていた。「織り目は、一本の糸を抜けば全体がほつれる。しかし、新しい糸で丁寧に補強すれば、以前よりも強くなることもある」。リラは、過去を完全に消し去るのではなく、リアが死に至った運命の糸に、新たな希望の糸を「縫い込む」ことを試みる決意をした。
数週間、あるいは数ヶ月が流れただろうか。昼夜を問わず、リラはかけらと向き合い続けた。彼女は、リアが倒れる直前の「森の道」の時間を特定し、その瞬間のリアの行動に、ほんの少しの変化を与えることに成功した。リアが石につまずいて転ぶところを、わずかに足元を滑らせるだけで済むように。その小さな「縫い目」を入れることで、リアはあの巨大な影に遭遇することなく、無事に家にたどり着いた。
眩しい光に包まれ、リラが意識を取り戻した時、彼女は自室のベッドにいた。窓の外からは、リアの明るい歌声が聞こえる。「リラ、朝ごはんよ! 今日も遅刻しちゃうわよ!」現実だ。リアは生きていた。リラは弾かれたようにベッドから飛び出し、階下へ駆け降りた。食卓には、リアが焼いたパンケーキが並び、香ばしい匂いが部屋を満たしている。リアは笑顔でリラを迎えた。「どうしたの? 顔色が悪いわよ」。
リラの胸は、温かい喜びに満たされた。姉が、目の前にいる。彼女の記憶の中では、リアはいつもそこにいたかのように自然だった。しかし、リラの心の奥底には、ごく微かな、違和感のようなものが残っていた。まるで、一度読んだ本をもう一度読み直した時のような、あるいは、夢の残滓のような感覚。それでも、この幸福を前に、そんな些細な感覚はすぐに意識の彼方へと追いやられた。彼女はリアの焼いたパンケーキを頬張り、世界は完璧になったと信じた。しかし、それは、物語の序章に過ぎなかった。
第三章 世界のひずみと未来の囁き
リアが生き返ってから数ヶ月。リラの生活は、以前にも増して幸福なものになった。毎朝リアの笑顔で目覚め、共に食卓を囲む。リアはいつも通り明るく、家族のムードメーカーだった。リラは「時の織り手」の能力を使うことをやめ、そのかけらはリアの箱の底にそっと戻されていた。あの違和感も、次第に薄れていった。
しかし、穏やかな日々の中、リラは奇妙な現象に気づき始める。街の歴史書に記載されているはずの、ある祝祭の記述が消えていたり、かつて存在したはずの古い時計台の場所が、今はただの広場になっていたりする。人々は、それが「昔からそうだった」と語り、誰もリラの違和感を共有してくれない。まるで、世界そのものが、リラの記憶に合わせるようにゆっくりと「再構築」されているかのようだった。
ある日、リラは森の奥深くで、あの事故現場だった場所を訪れた。そこには、以前はなかったはずの、奇妙な裂け目が存在していた。それは、空間が切り裂かれたかのような、ゆらめく黒い亀裂だった。近づくと、そこから、囁くような声が聞こえてくる。「……織り手よ……お前は、正しく時を紡いでいる……」
リラの心臓が跳ね上がった。「誰?」
裂け目の中で、光の粒が渦を巻き、やがて、人の形を成していく。それは、リラによく似た、しかし遙かに年老いた女性の姿だった。その女性の瞳は、リラと同じ色の、深い緑色をしていた。その手が、リラの方へとかすかに伸びる。
「……恐れるな……私は、お前だ……いや、お前の一部、お前の未来……」
幻影は、ゆっくりと語り始めた。「お前が縫い直したのは、お前自身の過去ではない。未来を、あるべき姿に導くための、壮大な織り直しなのだ」。
リラの脳裏に、かつてリアが死んだ瞬間に見た、あの黒い巨大な影がよみがえる。それは、ただの事故ではなかった。影は、未来の世界を滅ぼす「時の破壊者」であり、リアは、その破壊者を止めるための、唯一の鍵となる存在だった。
「お前がリアを救ったことで、未来の破壊者の覚醒は阻止された。しかし、それだけでは足りない。リアが、その真の力を目覚めさせなければ、未来は再び、破滅へと向かうだろう」。
リラは混乱した。リアが、破壊者を止める鍵? 真の力? 彼女はただ、姉を救いたかっただけだ。しかし、この幻影が語ることは、彼女の行いが、個人的な悲劇の解消に留まらない、より大きな意味を持っていたことを示唆していた。彼女が過去を縫い直すたび世界が変化していたのは、リアが未来で果たすべき役割のために、最適な「時の織り目」を再構築していたからなのだと。
「真の力は、リアの『命の輝き』、つまり『時の精髄』に宿る。それは、過去に遡って破壊者を封じるために不可欠なものだった。お前は、その精髄が失われるのを防いだのだ。だが、リアがその力を自覚し、使いこなさなければならない」。
幻影は、言葉を続ける。「この世界に生じたひずみは、お前が過去を何度も『縫い直した』結果ではない。それは、過去と未来が交錯する時に生じる、必然の兆候。お前は、未来の私の導きに従い、リアがその力を覚醒させるための『正しい織り目』を完成させなければならない」。
リラの頭の中は、衝撃と疑問で埋め尽くされた。自分が過去を改変していたと思っていた行為が、実は未来の自分、あるいは未来の誰かによって仕組まれた、壮大な計画の一部だったというのか? 彼女の価値観は、根底から揺らいだ。彼女が愛するリアの命は、未来のための道具だったというのか?
第四章 真実の織り機、最後の選択
幻影の言葉は、リラの心に深く、鋭く突き刺さった。彼女が必死に求めていた姉の命は、未来を守るための「鍵」であり、「時の精髄」を宿す特別な存在だったという。そして、彼女自身の「時の織り手」の能力も、未来の自分によって、この計画のために与えられたものだという。喜びと、同時に激しい怒りがこみ上げた。自分は、単なる操り人形だったのか?
リラは、再びリアの箱を開けた。「時間のかけら」は、以前よりも強く脈打ち、その光は、まるで彼女の心を見透かすかのように揺らめいていた。彼女はかけらを通して、リアの過去を、そして未来の可能性を「視る」ことができるようになっていた。
リアが死んだはずの森の事故。その時、リアは確かに「時の破壊者」の影に襲われていた。リラが過去を縫い直さなければ、リアは殺され、その体内に宿る「時の精髄」もまた、破壊者に吸収されていたことだろう。そうなれば、未来の世界は「時の破壊者」によって歪められ、やがて完全に消滅する。
幻影が示した未来のヴィジョンは、恐ろしいものだった。リアがいない未来では、破壊者が世界を蝕み、時間は混乱し、全てが混沌に飲み込まれていく。その絶望的な未来を回避するためには、リアが「時の精髄」を覚醒させ、破壊者を封じ込める必要がある。そのためには、リアはただ生きているだけでは足りない。特定の経験を積み、特定の知識を得て、その力を自覚し、使いこなす存在でなければならないのだ。
リラは震えた。彼女がリアを救うために「縫い直した」過去は、リアをただ生かしただけで、彼女が「時の精髄」を覚醒させるための最適な道筋とはなっていなかった。現在のリアは、普通の少女として、何の力も自覚することなく、平凡な日々を送っている。それは、リラが求めた「幸福な過去」の具現化ではあったが、未来を救うための「正しい織り目」ではなかった。
リラは究極の選択を迫られた。このままリアとの幸福な日々を続けるか。そうすれば、リラの個人的な悲しみは癒されるだろう。しかし、世界は未来で破滅する。あるいは、未来の幻影が示す道を選び、リアが「時の精髄」を覚醒させるための、より困難な過去を「縫い直す」か。それは、リラにとって、リアとの穏やかな日々を捨て、再びリアに危険な運命を強いることを意味した。
夜が明け、太陽が東の空を赤く染める頃、リラは決断を下した。彼女は再び、あの納屋の作業台に向かう。「時間のかけら」を中央に置き、無数の歯車や砂時計を周囲に配置する。彼女は、もはや個人的な幸福のためではなく、未来の、そして世界の存続のために、この禁忌を再び犯す。彼女の心は、悲しみと、しかし確かな使命感で満たされていた。過去への執着は消え失せ、未来への責任感が、彼女の全身を貫いていた。
第五章 時の縫い目、未来の影
リラは深く息を吸い込み、集中した。手にした「時間のかけら」が、彼女の意思に呼応して、眩い光を放つ。彼女の瞳は、目の前の空間に広がる無数の時の糸を捉えていた。リアの過去、彼女が経験すべき苦難、出会うべき人々、学ぶべき教訓。それらを一つずつ、まるで複雑な刺繍を施すかのように、繊細に、しかし確かな意図を持って「縫い直していく」。
今度の「縫い直し」は、以前とは全く異なるものだった。リアの命を守りながらも、彼女が「時の精髄」の力を自覚し、その能力を最大限に引き出すための道筋を、丁寧に織り込んでいく。森での事故は、リアを死なせることなく、彼女に深い傷と、そして、森の精霊との特別な繋がりをもたらすように変更した。それは、リアの精神を鍛え、彼女の内に眠る力を呼び覚ますための、必然の試練として。
何時間、いや何日が過ぎたのか。リラの意識は、時の流れと一体となり、彼女の肉体は疲弊しきっていた。しかし、彼女の精神は研ぎ澄まされ、もはや過去の悲しみに囚われることはなかった。彼女の指先から放たれる光の糸は、世界の「時の織り目」を、確実に、そして穏やかに修正していく。
そして、全てが終わった時、リラは意識を失った。
目覚めると、彼女は再び、自室のベッドにいた。窓の外からは、やはりリアの歌声が聞こえる。「リラ、朝ごはんよ! 今日も遅刻しちゃうわよ!」しかし、今度のリアの声は、以前よりも力強く、どこか神秘的な響きを帯びているように感じられた。
リラは階下へ降りた。食卓には、パンケーキが並んでいる。リアは笑顔でリラを迎えたが、その瞳の奥には、リラが知る「ただの姉」ではない、何か深い叡智が宿っているかのようだった。
「どうしたの? また変な夢でも見た?」リアは微笑んだ。
リラは、リアの顔をじっと見つめる。彼女の記憶の中のリアは、確かに今目の前にいる。しかし、その記憶の層の下には、以前の「縫い直し」で生きていたはずのリアの面影が、そして、もっと以前に失われたはずのリアの記憶が、複雑に絡み合っていた。だが、違和感はもうなかった。これは、ただの過去の改変ではない。これは、来るべき未来のための、最善の「織り目」なのだと、リラは確信した。
リラ自身もまた、大きく変化していた。彼女はもはや、過去に囚われた悲しい少女ではない。彼女は、世界の「時の織り目」を理解し、未来へと導く「運命の紡ぎ手」へと昇華していた。あの「時間のかけら」は、もはや彼女の手元にはなかった。それは、リアの体内に吸収され、彼女の「時の精髄」の一部となったのだと、リラは直感した。
世界は穏やかだった。しかし、リラは知っている。この世界には、まだ見えない「時の縫い目」がいくつも存在し、過去と未来が交錯する中で、新たなひずみが生まれる可能性もある。彼女は、その縫い目を守り、世界が正しい未来へと進むための、新たな役割を担うことを受け入れた。
彼女はリアに微笑みかけた。「ううん、大丈夫。ただ、素敵な未来が見えただけ」。
リアは、不思議そうな顔をして首を傾げたが、すぐに明るい笑顔に戻った。リラは、温かいパンケーキを頬張りながら、遠い空を見上げた。未来の影は、もはや彼女を縛るものではなく、彼女が進むべき道を照らす光となった。真の幸福とは、過去の改変によって得られる安息ではなく、未来への貢献によって紡がれる、限りない可能性の中にあるのだと、彼女は悟った。