時詠みの墨

時詠みの墨

0 4514 文字 読了目安: 約9分
文字サイズ:

第一章 墨痕の空白

江戸の空気を震わせる蝉の声が、喜多川墨舟(きたがわ ぼくしゅう)の仕事部屋の障子を透かして微かに聞こえてくる。部屋の中は、墨と古紙の匂いが静かに満ちていた。墨舟は、ただの浮世絵師ではない。彼の描く絵は、過ぎ去りし時を写し取る。人や物に宿る記憶の残滓を、彼は「時の色」として視ることができた。古い記憶は水で薄めた藍のように淡く、新しい記憶はまだ乾ききらぬ漆黒の鋭さを持つ。その色の濃淡を、特製の墨と筆で和紙の上に再現するのが彼の生業だった。

今日、彼の前に座るのは、日本橋の大店『越後屋』の主人、宗兵衛であった。皺の刻まれた顔には、拭い去れぬ深い悲しみが影を落としている。

「墨舟殿、噂はかねがね。どうか、亡き娘、お花の最後の日の足取りを描いてはくださらんか」

宗兵衛が震える手で差し出したのは、椿の彫刻が施された小振りな木櫛だった。三年前、十六歳のお花は忽然と姿を消した。神隠しだと噂され、宗兵衛はありとあらゆる手を尽くしたが、今日まで何の手がかりも掴めていない。

墨舟は無言で櫛を受け取った。指先に触れた瞬間、冷たい木肌の奥から、無数の「時の色」が奔流のように流れ込んでくる。娘が髪を梳く朝の光、友と笑い合う午後の陽だまり、そのすべてが淡い色彩の渦となって彼の網膜に焼き付いた。

「承知いたしました」

短く応じ、墨舟は硯に水を注ぎ、静かに墨を磨り始めた。彼の使う墨は、ただの松煙ではない。夜露に濡れた苔、百年の古木の煤、川底の砂鉄など、時の流れを吸い込んだとされる様々な物を混ぜ合わせた秘伝の調合だった。

心を研ぎ澄まし、筆を取る。墨舟の目に映るお花の最後の日の記憶は、鮮やかな濃藍色をしていた。彼はその色を和紙の上に再現していく。楽しげに小間物屋をのぞき込む姿、友と団子を分け合う笑顔、日本橋のたもとで誰かを待つかのように空を見上げる横顔。その一つ一つが、まるで今そこで起きているかのように生き生きと描かれていく。宗兵衛は固唾を飲んで、その奇跡のような筆さばきを見守っていた。

しかし、柳並木の続く神田川のほとり、小さな地蔵が佇む場所に差し掛かった時、墨舟の筆がぴたりと止まった。彼の目に映るはずの「時の色」が、その一点で忽然と消え失せていたのだ。そこにあるのは、完全な空白。まるで、物語の途中で頁がごっそりと破り取られたかのような、絶対的な無。

「……おかしい」

墨舟は眉をひそめた。彼の能力が及ばぬ場所など、これまで一度もなかった。そこだけが、時間の流れから切り取られたように、真っ白に抜け落ちている。それは、娘の足取りが途絶えたことを意味する以上に、墨舟にとって理解不能な異常事態だった。

「どうなされた、墨舟殿」

宗兵衛の不安げな声に、墨舟は我に返った。

「……いえ。少し、時が乱れております。この先を視るには、もう少し刻が必要かと」

彼はそう取り繕ったが、内心の動揺は隠せなかった。この空白は何だ? 娘に何が起きたのか? 墨舟の心に、これまで感じたことのない種類の、冷たい好奇心と不吉な予感が同時に芽生えていた。

第二章 残像を辿りて

空白の謎に取り憑かれた墨舟は、数日後、自らの足で神田川のほとりを訪れた。絵に描いたのと同じ場所に、苔むした小さな地蔵がひっそりと佇んでいる。夏の強い日差しが川面に反射し、目を細めた。彼は懐からお花の櫛を取り出し、再び意識を集中させる。しかし、結果は同じだった。地蔵の前で、娘の「時の色」はぷっつりと途切れ、その先はただの白が広がっている。

墨舟は、娘が最後に立ち寄ったとされる茶屋や小間物屋を巡り、聞き込みを始めた。だが、得られる証言はどれも似たり寄ったりだった。

「お花様かい。そりゃあ、明るくて優しいお嬢さんだったよ」

「誰かと揉めていたなんて話は、とんと聞きやせんねえ」

誰もが彼女の失踪を惜しみ、その人柄を褒め称えるばかり。怨恨や駆け落ちの線は薄いように思えた。だが、それならばなぜ、あの空白が存在するのか。まるで、お花という存在そのものが、あの場所で世界から消去されたかのようだ。

その夜、墨舟は仕事部屋で一人、描きかけの絵を前に腕を組んでいた。壁には、彼がこれまで描いてきた数々の「過去」が掛けられている。失われた家宝の在り処、無実を証明するためのアリバイ、愛する者の最期の言葉。彼は常に、依頼人のために過去を写し取る、ただの鏡であろうと努めてきた。感情を挟めば、時の流れが濁って見えるからだ。

だが、お花の事件は違った。あの空白は、彼の能力そのものへの挑戦であり、彼の確立した世界観を揺さぶる存在だった。

ふと、彼の脳裏に、自身の忌まわしい過去が蘇る。幼い頃、彼は目の前で妹を病で失った。高熱にうなされる妹の手を握りながら、彼には妹の命の色が、まるで蝋燭の火のように、刻一刻と淡く、薄くなっていくのが視えていた。何もできず、ただ消えゆく色を見つめることしかできなかった無力感。それ以来、彼は自分の能力を、変えることのできない過去をなぞるだけの、呪われた力だと考えるようになったのだ。

「なぜ、お前は消えたのだ、お花……」

呟きは、誰に届くでもなく部屋の闇に溶けた。彼は、この事件を単なる仕事として終わらせることができなくなっている自分に気づいていた。それは、失われた少女への同情か、あるいは過去の自分への贖罪か。答えは出ないまま、ただ時間だけが過ぎていった。

決意を固めた墨舟は、再び筆を取った。今度は、ただ視えたものを描くのではない。空白の向こう側を、こじ開けるようにして視るのだ。彼は己の精神のすべてを筆先に集め、和紙の上の空白へと突き立てた。それは、時の奔流に逆らって泳ぐような、危険な試みだった。全身の血が逆流し、意識が遠のく感覚。視界が白く点滅し、耳の奥で鋭い音が鳴り響く。それでも彼は、筆を離さなかった。

第三章 時渡りの娘

精神の深淵へと潜り、時の流れのさらに奥、その源流に触れようとした瞬間、墨舟の視界に信じがたい光景が広がった。

それは、過去の景色ではなかった。

見たこともない形の建物が林立し、鉄の箱が轟音を立てて道を走り、人々は奇妙な意匠の服を身に着けている。空には、鳥ではない鉄の塊が飛んでいた。そして、その雑踏の中に、お花がいた。

三年前と変わらぬ姿の彼女は、しかし、どこか大人びた表情で、空を見上げていた。その瞳には、悲しみではなく、強い決意と希望の光が宿っていた。

「……未来、だと?」

墨舟は喘いだ。意識が肉体へと引き戻され、彼は畳の上に倒れ込む。全身が冷たい汗で濡れていた。

お花は失踪したのではない。誘拐されたのでも、殺されたのでもない。彼女は、自らの意思で「未来」へと渡ったのだ。

あの空白は、過去と未来の断絶点。彼女がこの時代から旅立った痕跡だった。

なぜ、そんなことを。疑問が浮かんだ瞬間、墨舟の脳裏に、新たなビジョンが流れ込んできた。それは、お花が未来へ渡る直前の記憶。彼女は、当時江戸で流行り始めていた労咳(ろうがい)に侵されていた。日に日に弱っていく体。彼女は、自分の死期が近いことを悟っていた。そして同時に、彼女は知っていたのだ。この病が、数十年後には江戸中を覆い尽くし、多くの人々の命を奪うという未来を。

信じがたいことに、お花もまた、墨舟と似た力を持っていた。だが、彼女の能力は過去を視るのではなく、「未来を垣間見る」力だった。そして、彼女の一族に稀に伝わる秘術は、その未来へと「渡る」ことを可能にするものだった。

彼女は未来へ逃げたのではない。未来に、この不治の病の治療法を探しに行ったのだ。自分自身のため、そして、これから病に苦しむであろう多くの人々を救うために。十六歳の少女が、たった一人で背負うにはあまりにも過酷な使命だった。

墨舟は愕然とした。彼は自分の能力を、過去を覗き見るだけの呪われた力だと蔑んできた。しかし、お花は、未来を視る力を、絶望ではなく希望のために使った。過去に縛られる自分と、未来を切り開こうとした彼女。そのあまりの違いに、胸を強く突かれたような衝撃が走った。

これまで彼が描いてきた「過去」は、すべて確定した、変えようのない事実だった。だが、お花が向かった「未来」は、まだ描かれていない白紙の和紙そのものだ。そこには、無限の可能性がある。

彼の価値観が、音を立てて崩れ落ちていく。時の流れとは、ただ過去から現在へ流れる川ではない。未来という大海へ向かって、自らの意思で漕ぎ出すことのできる道でもあるのだ。

第四章 希望を描く筆

数日後、墨舟は再び越後屋を訪れた。彼の前には、憔悴しきった宗兵衛が座っている。真実をどう伝えるべきか、墨舟は道中ずっと考えていた。「お嬢様は未来へ旅立ちました」などと、誰が信じるだろう。狂人扱いされるのが関の山だ。

墨舟は、一枚の絵を宗兵衛の前にそっと置いた。

そこに描かれていたのは、異国の景色の中、見たこともない美しい花々に囲まれ、晴れやかな笑顔で空を見上げるお花の姿だった。それは、墨舟が垣間見た未来の光景と、彼自身の祈りを込めて描いた、想像の絵だった。

「……これは」

「お嬢様は、生きておられます」

墨舟は、宗兵衛の目をまっすぐに見つめて言った。

「遥か遠い異国で、新しい夢を見つけ、多くの人々を助けるための学問に励んでおられる。これは、拙僧が視た、お嬢様の『これからの姿』でございます。帰ってはこられませぬ。しかし、お嬢様はそこで、幸せに生きておられます」

それは、紛れもない嘘だった。だが、その嘘には、お花の覚悟という真実が込められていた。

宗兵衛は、絵の中の娘の顔を、皺だらけの指でそっと撫でた。その目から、大粒の涙がいくつもこぼれ落ち、絵の上に小さな染みを作った。

「そうか……。あの子は、幸せなのか……。それなら、いい。それなら、いいんだ……」

嗚咽を漏らしながら、宗兵衛は何度も頷いた。三年間、彼の心を縛り付けていた絶望の鎖が、音を立てて解けていくのが墨舟には分かった。

依頼を終えた墨舟は、夕暮れの江戸の町を歩いていた。彼の心は、奇妙なほど晴れやかだった。初めて、彼は人のために嘘をつき、未来を描いた。それは、過去をなぞるだけだった彼の筆が、初めて自らの意思で描いた「希望」の絵だった。

仕事部屋に戻った墨舟は、窓を開け放つ。夕風が、新しい墨の香りを運んできた。彼は白紙の和紙を広げ、静かに筆を構える。

もう、彼の目に映るのは、過ぎ去った過去の色だけではない。窓の外に咲く一輪の朝顔に、明日咲くであろう蕾の淡い光が、明後日には蔓を伸ばすであろう生命のきらめきが、幾重にも重なって見えていた。

時の流れは、呪いではない。それは、未来へと繋がる、無限の可能性を秘めた美しい色彩の帯なのだ。

墨舟は、静かに微笑んだ。そして、まだ誰も見たことのない、明日という日の景色を描くために、和紙の上へ、確かな一筆をそっと下ろした。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと3

TOPへ戻る