第一章 腐臭の依頼
橘右京(たちばな うきょう)の世界は、香りで満ちていた。いや、正確には匂いで満ちていた。江戸の片隅で香師として生きる彼の鼻は、常人には捉えられぬほど鋭敏で、人の感情や意図さえも、微かな匂いの粒子として感じ取ることができた。歓喜は咲き誇る白檀(びゃくだん)、悲哀は雨に濡れた土、そして嘘は――腐りかけた梔子のような、甘くむせ返る悪臭として右京の鼻腔を刺すのだった。
かつて、彼はその能力を買われ、幕府の目付として権力者の不正を暴いていた。しかし、人の心の闇から立ち上る嘘の腐臭を嗅ぎ続ける日々に魂をすり減らし、三年前、官職を辞した。今は、ただ静かに香木と向き合う日々を望んでいた。
その静寂を破るように、店の引き戸が軋んだ音を立てた。入ってきたのは、かつての同僚であった現役の目付、佐伯忠明(さえき ただあき)だった。精悍な顔つきに、隙のない着こなし。だが、その全身からは、右京が最も嫌う腐った梔子の匂いが、ほのかに立ち上っていた。
「右京殿、ご無沙汰しております。お元気そうで何より」
佐伯は慇懃に頭を下げた。その言葉の端々から、嘘の匂いが霧のように立ち込める。右京は眉ひとつ動かさず、香木を削る手を止めない。
「何の用だ、佐伯殿。拙者はもう、公儀の人間ではない」
「承知しております。ですが、貴殿のその『鼻』でなければ、成し得ぬ儀がありまして」
佐伯が語り始めたのは、勘定奉行・柳沢兼光(やなぎさわ かねみつ)の不正蓄財の噂だった。大奥への付け届け、御用商人との癒着。証拠は何一つないが、黒い噂は絶えないという。
「柳沢の化けの皮を剥いでいただきたい。これは、将軍家のため、ひいては天下万民のため」
大義名分を並べ立てる佐伯の口から吐き出される言葉は、どれもこれも腐臭をまとっていた。右京は心中で舌打ちをする。こいつもまた、己の出世のために他人を利用しようという腹なのだ。
「断る。人の嘘の匂いを嗅ぐのは、もううんざりだ」
右京が冷たく突き放すと、佐伯は一瞬顔を曇らせたが、すぐに懐から一枚の絵姿を取り出した。
「ならば、この者のために、お力添え願えまいか」
そこに描かれていたのは、儚げな美しさを持つ一人の娘だった。柳沢の一人娘、小夜(さよ)だという。
「小夜様は、生まれつき声を出すことができぬのです。もし柳沢家がお取り潰しにでもなれば、この方の行く末は……」
その瞬間、右京はふと顔を上げた。不思議なことに、佐伯が小夜を案じる言葉を口にした時だけ、あの腐った梔子の匂いがすっと消え失せたのだ。まるで、濁流の中に一滴だけ落ちた清水のように。その部分だけが、真実の香りを放っていた。
佐伯は、右京の心に小さな楔が打ち込まれたのを見て取ったのか、絵姿を畳の上にそっと置くと、静かに頭を下げて店を去っていった。
残された右京は、墨の匂いが香る絵姿をじっと見つめていた。声を発せぬ娘。その存在が、嘘の匂いに満ちた依頼の中で、奇妙な純粋さをもって右京の心を揺さぶっていた。彼はまだ知らなかった。この小さな真実の香りが、やがて彼の世界そのものを根底から覆すことになるということを。
第二章 沈黙の真実
結局、右京は佐伯の依頼を引き受けた。表向きは、柳沢邸で焚くための特別な香を調合する香師として、屋敷への出入りを許された。柳沢兼光と対面した時、右京は吐き気をこらえるのに必死だった。勘定奉行の身体からは、まるで腐敗した死体から立ち上るかのように、強烈な嘘の匂いが発せられていた。不正は、紛れもない事実だった。
右京は、屋敷の構造と人の動きを探りながら、夜ごと焚く香の調整を続けた。そんなある日、庭の見える縁側で、絵姿の娘、小夜と出会った。
陽光を浴びてたたずむ彼女は、絵姿よりもなお儚く、透き通るような静謐さをまとっていた。右京の姿に気づくと、彼女は驚いたように肩を震わせ、深々と頭を下げた。その所作の一つ一つから、嘘の匂いは一切しなかった。
彼女は硯と筆を取り出し、さらさらと紙に文字を綴る。
『父がお世話になっております。橘様のお作りになるお香は、心が安らぎます』
その墨痕鮮やかな文字は、彼女の心の清らかさをそのまま映したかのようだった。右京は、彼女と筆談を交わすうちに、いつしか自らが纏う警戒心を解いていた。
小夜と過ごす時間は、右京にとって救いだった。屋敷に渦巻く嘘と欺瞞の腐臭の中で、彼女の周りだけが、まるで聖域のように清浄な空気に満ちていた。彼女の書く言葉、花を生ける指先、庭を眺める静かな眼差し。そのすべてが、一点の曇りもない真実の香りを放っていた。人の嘘を嗅ぎ分けるという呪われた能力を持つ右京にとって、それは初めて味わう魂の安らぎだった。
調査は着実に進み、右京は柳沢が不正の証拠である裏帳簿を、自らの寝所の床下に隠していることを突き止めた。あとは、それを盗み出すだけだ。だが、彼の心は重く沈んでいた。小夜の、あの曇りのない瞳を思い出すたびに、彼女の父を断罪することへの強い躊躇いが生まれる。彼女から、あの安らぎの香りを奪ってしまって良いのだろうか。
人の嘘を暴くことは、正義のはずだった。だが、その正義は、時に何の罪もない者を深く傷つける。右京は、目付だった頃に失ったはずの葛藤に、再び苛まれていた。
第三章 梔子の在り処
満月が雲に隠れた夜、右京は決行した。手練れの忍び働きは、目付時代に嫌というほど叩き込まれている。柳沢の寝所へ、音もなく忍び込む。目指すは床下の隠し戸棚だ。
だが、部屋の奥、月明かりが差し込む障子の前に、白い人影が座しているのを見て、右京は息を呑んだ。小夜だった。彼女は驚くでもなく、静かに右京を見つめていた。その手には、すでに筆と紙が用意されている。まるで、右京が来ることを知っていたかのように。
彼女は、震える手で筆を走らせ、それを右京へと差し出した。
『お待ちしておりました、橘様』
右京の全身を、緊張が貫く。罠か。しかし、彼女からは嘘の匂いがしない。ただ、ひたすらに張り詰めた、悲壮なまでの真実の香りが漂ってくるだけだ。
『父は、操られているのです』
続く言葉に、右京は目を見開いた。小夜は、次々と紙を言葉で埋めていく。父の不正は事実だが、それは家族の命を盾に脅され、やむなく行ったこと。そして、その脅迫の主こそが、依頼人である目付・佐伯忠明であること。佐伯は柳沢を失脚させ、自らが勘定奉行の座に就くために、この全てを画策したのだと。
雷に打たれたような衝撃だった。佐伯が訪ねてきたあの日、彼から感じた「ほんのりとした嘘の匂い」の正体を、右京は今、理解した。佐伯は「柳沢が不正を働いている」という大きな真実を語ることで、その裏にある「自らが黒幕である」という、おぞましい嘘を巧妙に隠していたのだ。右京の能力は、その策略にまんまと利用された。
だが、衝撃はそれだけでは終わらなかった。小夜は、涙をこらえながら、最後の真実を綴った。
『わたくしが声を失ったのは、生まれつきではございません。幼き日、佐伯の悪事を見てしまったがために、口封じの薬を盛られたのです』
右京は絶句した。目の前の儚げな少女が、どれほどの闇をその小さな身体に抱えて生きてきたのか。
彼女は、ずっと父を救う機会を窺っていた。そして、特異な能力を持つ右京の噂を聞きつけ、彼が佐伯に利用されることを予測し、逆にこの状況を利用して佐伯の罪を暴こうとしていたのだ。
右京は混乱した。では、彼女が自分に見せたあの純粋さは、安らぎを与えてくれたあの清らかな香りは、全てが計画のための「演技」だったというのか?
だが、やはり彼女からは嘘の匂いがしない。なぜだ。彼女の行動は、明らかに右京を欺き、誘導しようとするものだったはずだ。
彼の葛藤を見透かしたかのように、小夜は最後の紙を差し出した。
『わたくしは、嘘をついておりません。父を救いたい。佐伯を裁きたい。そして、あなた様のお力を借りたい。この想いだけは、何一つ偽りのない、わたくしの真実です』
その言葉を読んだ瞬間、右京は悟った。
自らの能力の限界を。この鼻は、言葉や表情の裏にある欺瞞は嗅ぎ分けられる。だが、ある目的のために自分自身さえも欺くほどの、強く、純粋な願い。その根底にある「真実」の香りの前では、表面的な行動の嘘など、かき消されてしまうのだ。絶対だと信じていた己の感覚が、初めて根底から揺らいだ。腐った梔子の悪臭だけが嘘の全てではない。嘘の奥底には、時に悲痛なまでの真実が隠されている。
右京は、目の前の少女に向き直った。彼女は、か細い身体で、巨大な悪意とたった一人で戦ってきたのだ。もはや、依頼のためでも、公儀のためでもない。右京は、一人の人間として、この沈黙の中に咲く、気高い真実の香りを守りたいと、強く思った。
第四章 雨上がりの香り
右京と小夜の、静かな反撃が始まった。彼はもはや佐伯の駒ではなかった。自らの意志で、真実を暴くために動いた。小夜が密かに書き留めていた佐伯の脅迫の記録と、右京が新たに掴んだ証拠を合わせ、全ての準備を整えた。
最後の一手として、右京は佐伯に「柳沢の裏帳簿を手に入れた」と虚偽の報告をした。佐伯の屋敷に充満したのは、右京がこれまで嗅いだ中でも最も強烈で、醜悪な腐った梔子の匂いだった。勝利を確信した人間の、隠すことさえしない欲望と欺瞞の悪臭。右京は、その匂いを静かに胸に刻み込んだ。
数日後、老中たちの居並ぶ席で、全ての証拠が白日の下に晒された。佐伯の罪状、そして柳沢が脅迫されていた事実。追い詰められた佐伯は、最後のあがきとばかりに刀を抜き、その場にいた小夜を人質に取ろうとした。だが、その動きを読んでいた右京が、鞘のままの刀で佐伯の腕を打ち据え、暴挙を阻止した。
事件は幕を閉じた。佐伯は捕縛され、厳罰に処された。柳沢は、脅迫されていた事情が考慮され、お家取り潰しは免れたものの、全ての官職を辞し、隠居の身となった。江戸の町は、何事もなかったかのように、また新たな一日を迎えていた。
右京は、香師としての静かな生活に戻った。しかし、彼の内面は、以前とはまるで違っていた。かつては、人の世に満ちる嘘の腐臭をただ忌み嫌い、心を閉ざしていた。だが今は、その悪臭の奥に、小夜のような悲痛な真実が隠されているかもしれないと、思うようになっていた。世界は、善と悪、真実と嘘とで、単純に二分できるものではない。その複雑さも、苦しさも、全て引き受けて生きていかねばならないのだと、彼は悟っていた。
季節が巡り、初夏になったある日の午後。右京の店の引き戸が、静かに開いた。そこに立っていたのは、晴れやかな表情をした小夜だった。彼女はまだ声を取り戻せずにいたが、その瞳には、以前の儚げな光とは違う、凛とした強さが宿っていた。
彼女は、小さな香袋をそっと右京の前に差し出した。
『橘様に。わたくしが、調合いたしました』
筆談でそう伝え、彼女は微笑んだ。
右京が香袋を手に取り、ゆっくりと鼻に近づける。
ふわりと広がったのは、腐った梔子の匂いではなかった。それは、激しい夕立が過ぎ去った後、月光に照らされた庭で咲く梔子のような、清らかで、瑞々しく、そして、ほんのりと甘い香りだった。
そこには、嘘も、欺瞞も、計算もなかった。ただ、純粋で、温かい感謝の想いだけが、香りの粒子となって右京の心を優しく満たしていく。
彼は、自らの鼻が、不快な嘘の匂いだけでなく、こんなにも美しく、尊い真実の香りをも感じ取れるのだということを、その時、初めて知った。
言葉はなかった。ただ、二人の間を、雨上がりの梔子の香りが、静かに流れていく。窓の外では、茜色の夕暮れが、江戸の町並みを穏やかに染めていた。この鼻がもたらす苦悩と共に生きていこう、と右京は思った。なぜなら、その苦悩の果てに、時として、言葉を超えた真実の香りが待っていることを、彼は知ってしまったのだから。