第一章 墨染めの契約
江戸の片隅、俗世の喧騒から切り離されたかのような一角に、浮世絵師・如月(きさらぎ)の工房はあった。彼の描く絵は、まるで命を宿しているかのように生々しいと評判だったが、その評判には奇妙な噂がつきまとっていた。如月は、決して生きている人間を描かない、と。
秋も深まり、冷たい雨が工房の屋根を叩く日のこと。一人の男が、豪奢な羽織を雨に濡らしながら如月の戸口に立った。江戸一番の呉服問屋と名高い和泉屋の主人であった。
「如月先生にお願いがあって参りました」
主人の声は、切羽詰まっていた。用件は、一人娘の小夜(さよ)を描いてほしいというもの。小夜は不治の病に冒され、余命いくばくもないという。
「娘が、せめて美しい姿のまま、絵の中にだけでも生き続けてほしいと…そう願っておりますのです」
如月は、墨をする手を止めずに冷たく言い放った。
「お断りだ。俺は生者を描かん」
それが彼の掟であり、彼自身を守るための呪いであった。彼の筆には、常人には理解できぬ力が宿っていた。描いた対象の「影」を、墨と共に絵の中に封じ込めてしまうのだ。影とは、単なる光の欠落ではない。そのものの存在感、生気、運命そのものの一部だった。これまで静物や風景ばかりを描いてきたのは、その恐ろしい力を御するためであった。
しかし、和泉屋は諦めなかった。彼は床に手をつき、声を震わせた。
「先生が望むだけの礼はいたします。黄金でも、蔵でも。どうか、あの子の最後の願いを…」
その必死の形相の奥に、如月はただの親心ではない、何か別の昏い光を見た気がした。そして何より、彼の芸術家としての魂が囁いたのだ。「余命わずかな娘の、消えゆく生命の輝き。それを写し取ることこそ、お前の筆の真髄ではないか」と。
禁忌を破る悦びと、未知への恐怖。その二律背反に心を揺さぶられ、如月は長い沈黙の末、ついに頷いてしまった。
「…一度だけだ。その代わり、俺の仕事に一切の口出しは無用」
数日後、如月は和泉屋の屋敷を訪れた。通された奥座敷は、薬草の匂いが満ちていた。そこに、小夜はいた。薄い布団の上に横たわる体は驚くほど細く、血の気の失せた白い肌は陶器のようだった。だが、彼女の瞳には、病の影を押し返すような、澄んだ光が宿っていた。
「あなたが、如月さまですね」
鈴を転がすような、か細くも凛とした声だった。
「父が、ご無理を申しました。でも、嬉しいのです。私のことを、あなたの絵の中に残してくださるなんて」
小夜は、死の恐怖よりも、忘れ去られることを恐れているようだった。その健気さに、如月の心の氷が、ほんの少しだけ音を立ててひび割れた。
彼は画材を広げると、白絹の画布を立てた。そして、硯に水を注ぎ、静かに墨をすり始めた。工房に満ちるいつもの墨の香りが、この薬草の匂いに満ちた部屋では、どこか不吉な響きを帯びているように感じられた。
第二章 生き写しの画布
制作は、屋敷の一室を借りて行われた。如月は、日に一度、小夜の部屋を訪れては、その姿を網膜に焼き付け、工房に戻って筆を執った。彼は小夜と、ほとんど言葉を交わさなかった。ただ、じっと見つめるだけだ。彼女の指先の震え、呼吸の浅さ、時折見せる寂しげな微笑み。そのすべてを、魂に刻み込むように。
筆が絹の上を滑る。如月が特殊な製法で自ら作る墨は、闇よりも深く、夜よりも静かだった。彼が小夜の輪郭を描き始めると、不思議なことが起こった。絵の中の小夜が、まるで呼吸を始めたかのように、微かな生命感を帯び始めたのだ。
着物の柔らかな質感、陽光を受けて透ける黒髪の一本一本。描けば描くほど、画布の上の小夜は、本物以上に「生きている」ように見えた。如月の筆は、もはや彼の腕ではなく、それ自体の意思で動いているかのようだった。彼は忘我の境地で、ひたすらに描き続けた。これほどの傑作は、後にも先にも生まれまい。芸術家としての歓喜が、彼の全身を駆け巡った。
しかし、画布の中の小夜が生命力を増すのと反比例するように、現実の小夜は急速に衰えていった。
初めは、屋敷の者たちの些細な囁きだった。
「お嬢様の影が、この頃薄くなっているような…」
「気のせいだろう。日に日に痩せておられるのだから」
だが、それは気のせいではなかった。日盛りの縁側でさえ、小夜の足元には頼りなげな影しか落ちなくなった。彼女の存在そのものが、この世から希薄になっていくようだった。以前は澄んでいた瞳の光も、今はどこか虚ろに見える。
如月は、その変化に気づいていた。いや、彼こそが、その元凶だった。彼の一筆一筆が、小夜の「影」を、つまりは彼女の生命そのものを削り取り、画布へと移しているのだ。
ある日、小夜の顔に最後の色を入れるため、彼女の部屋を訪れた時のこと。小夜は弱々しく微笑み、こう言った。
「不思議ですね。体は、どんどん動かなくなっていくのに…心は、とても穏やかなのです。まるで、重い荷物を、誰かが代わりに背負ってくれているみたい…」
その言葉は、如月の胸を鋭い刃のように抉った。彼は傑作を生み出すために、一人の少女の命を喰らっている。その紛れもない事実に、彼は吐き気を覚えた。かつて感じた芸術的な高揚は、どす黒い罪悪感に塗りつぶされていた。彼はもはや絵師ではない。魂を盗む、ただの化け物だ。
「もう、やめよう」
そう決意した時、背後から和泉屋が声をかけた。その顔は、娘の衰弱を嘆く父親のものではなく、ある種の狂信的な期待に満ちていた。
第三章 空蝉の願い
「先生、素晴らしい。実に素晴らしい出来栄えです」
和泉屋は、完成間近の絵を見つめ、恍惚とした表情で言った。画布の中の小夜は、健康だった頃の輝きを取り戻し、今にも微笑みかけてきそうだった。
「…お嬢さんは、もう長くない」
如月は、筆を置いて絞り出すように言った。「この絵が、彼女の命を吸っている」
罪の告白だった。どんな罵声を浴びせられても、覚悟はできていた。しかし、和泉屋の反応は、如月の予想を根底から覆すものだった。
「ええ、存じております。それこそが、私の願いなのですから」
和泉屋は静かに語り始めた。彼が如月の噂を聞きつけたのは、数ヶ月前のこと。初めはただの絵師の戯言だと思っていた。だが、彼の絵が持つ異様なまでの生命感を見るうちに、ある考えに取り憑かれたのだという。
「先生の力は、影を奪う力などではない。…私は、そうは思いませんでした」
彼の目が、異様な光を放つ。
「先生の筆は、描いたものから不要なものを『写し取る』力。そうでしょう? 私は、小夜から病と、死の運命という名の『影』を、この絵に封じ込めていただきたかったのです」
如月は絶句した。自分が呪いと恐れていた力が、この男にとっては救済の奇跡だったというのか。
「娘を救うためなら、私は悪鬼にもなります。先生、あなたはそのための、私の筆なのだ。さあ、仕上げを。あの子の苦しみ、あの子の死、その全ての影を、この絵の中に完全に封じ込めてくだされ!」
価値観が崩落する音がした。自分は、命を奪う罪人だと思っていた。だが、和泉屋の目には、娘を救う救世主と映っていた。どちらが正しい? 自分の力の本質は、一体何なのだ?
彼は、ただ完璧な美を求めて筆を執った。その結果、少女の命を蝕んだ。だが、その行為が、皮肉にも父親の歪んだ愛と救済の願いに合致してしまった。
如月は、完成間近の絵と、隣室でか細い息をする小夜の気配との間で、身動きが取れなくなった。彼がこれから下す一筆は、単に絵を完成させる一筆ではない。それは、一人の少女の運命を、そして彼自身の魂のあり方を決定づける、最後の一筆だった。
第四章 影を還すとき
工房に戻った如月は、画布の前に座り込んだまま、夜を明かした。絵の中の小夜は、完璧な美しさで彼を見つめ返してくる。それは、彼の才能の結晶であり、同時に彼の罪の証だった。
和泉屋の言葉が頭をよぎる。「死の運命という名の『影』を封じ込める」。もし、それが真実なら? この絵を完成させれば、小夜は奇跡的に回復するのかもしれない。彼は救世主となり、莫大な富と名声を得るだろう。
だが、本当にそうだろうか。彼の心に残るのは、小夜の「重い荷物を背負ってもらっているみたい」という言葉だった。彼女は、自分の命が絵に吸い取られていることを、本能で感じ取っていたのではないか。そして、それを静かに受け入れていたのではないか。
影を失った人間は、どうなるのだろう。たとえ病が消えたとしても、それは本当に「生きている」と言えるのだろうか。存在の重みを失った空っぽの器として、この世に留まるだけではないのか。
夜明けの光が、障子を通して工房に差し込んできた。その時、如月の心は決まった。
彼は、墨の入った硯を脇にどけた。代わりに、清水で満たした水差しを手に取る。そして、新しい、まだ一度も墨を含んだことのない真っ白な筆を選んだ。
彼は画布の前に静かに座すと、その清浄な筆を水に浸し、絵の中の小夜の頬に、そっと触れた。
水を含んだ筆が触れた瞬間、完璧だった色彩が、じわりと滲み始めた。一度、また一度と、如月は丹念に、祈るように筆を動かしていく。それは描く行為の、完全な反転だった。命を吹き込むのではなく、吹き込んでしまった命を、元の持ち主へ還すための儀式。
艶やかだった黒髪の色が薄れ、生命感に満ちていた瞳の光が和らぎ、血の通っていたかのような肌が、ただの絵の具の色に戻っていく。画布の上で、美しい小夜がゆっくりと「死んで」いく。それは、如月が自らの最高傑作を、自らの手で破壊していく行為だった。一点、一画に込めた魂を、自ら引き剥がす、身を切るような痛み。涙が、彼の頬を伝った。
どれほどの時間が経っただろうか。画布の上には、もはや輪郭も曖昧な、色の染みが残るだけとなっていた。彼の最高傑作は、この世から消え去った。
如月は、和泉屋から受け取った莫大な手付金に手をつけぬまま、夜の闇に紛れて江戸を去った。
数年後、ある宿場町で、一人の絵師が子供たちに似顔絵を描いてやっていた。その筆遣いは、かつての神がかり的な鋭さこそないものの、描かれた子供たちの顔は、誰もが実に楽しそうで、生き生きとしていた。
絵師は、かつて如月と名乗った男だった。
彼はもはや、影を喰らう筆は振るわない。代わりに、彼は人々の何気ない日常の、ささやかな光と影を描き留めることに喜びを見出していた。
時折、彼は遠い江戸の空を思い、一人の少女のことを考える。彼女が、残された日々を、自らの「影」と共に、穏やかに生きたことを、彼はただ静かに祈るのだった。
完璧な芸術よりも、不完全な命の温かさ。彼がその答えを見つけるまでに支払った代償は、あまりにも大きかったが、彼の描く絵には、以前にはなかった確かな優しさが宿っていた。