善意の鎖

善意の鎖

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第一章 罪のレシピと忘れられた音

深夜三時。桐山翔太の部屋は、ディスプレイの青白い光と、コンビニ弁当の容器から漂う微かな油の匂いに満たされていた。フリーランスのジャーナリストである彼の世界は、常に締め切りとカフェイン、そして暴くべき社会の欺瞞で構築されている。ここ数ヶ月、彼が執念を燃やしているのは、巨大食品メーカー「アトラスフーズ」が販売する加工食品シリーズ「イージーテイスト」に隠された闇だった。安価で、手軽で、誰もが一度は口にしたことのあるその味の裏側で、誰かが静かに犠牲になっている。確信にも似た予感があった。

その夜、長期間にわたる接触の末、ついに内部告発者から匿名のメールが届いた。添付されていたのは、一つの暗号化されたファイル。ファイル名は『CRIME_RECIPE.zip』。罪のレシピ。心臓が早鐘を打つのを感じながらファイルを開こうとすると、パスワードの入力を求めるダイアログボックスが立ち上がった。メールの本文には、短くこう記されているだけだった。

『パスワードのヒント:君が忘れた最初の音』

「最初の音…?」

桐山は眉をひそめた。意味が分からない。音楽のことか? それとも、何かの隠語か? 彼は考えうる限りの単語を打ち込んでみた。自分の誕生日、初めて取材した事件名、母の旧姓。だが、無機質なエラーメッセージが返ってくるだけだった。

アトラスフーズの不正は、桐山にとって単なるスクープ以上の意味を持っていた。それは、力なき者を食い物にする巨大資本という、彼が憎んでやまない社会の構造そのものだった。彼の正義感は、硬質で、一点の曇りもない。だからこそ、このパスワードという壁に苛立ちが募った。「俺が忘れるはずがない」。彼は自分に言い聞かせるように呟き、ディスプレイを睨みつけた。その青い光の中に、まだ見ぬ真実の輪郭と、自分自身のぼんやりとした顔が映り込んでいた。彼は気づいていなかった。その謎の言葉が、彼の信じる正義そのものを、根底から揺るがすための鍵であることに。

第二章 セライアの土と懐かしい痛み

パスワードの解読は行き詰まった。桐山は調査の矛先を外部へと転じた。「イージーテイスト」シリーズに使われている主要原料の一つ、安価な加工穀物「ニルパ」。その原産地が、東南アジアの小国、セライア共和国であることを突き止めた。公表されている資料では、アトラスフーズは現地の組合から公正な価格で買い付けていることになっている。だが、桐山はその偽善的な文言を信じなかった。

重いカメラバッグを肩に、桐山はセライアの地に降り立った。むわりと肌に纏わりつく湿気と、嗅いだことのないスパイスや土埃の匂いが彼を迎えた。首都から数時間、悪路を乗り継いで辿り着いたニルパのプランテーション地帯は、彼の想像を絶する場所だった。広大な畑には、痩せた子供たちが機械のように働いている。彼らの指は土で汚れ、その瞳からは年齢にそぐわない光が消え失せていた。

桐山は通訳を介して、労働者たちに話を聞いた。彼らの口から語られるのは、低賃金、長時間労働、そして原因不明の皮膚疾患や呼吸器系の病。アトラスフーズの工場で使われるようになった新しい加工用の薬品が原因ではないかと、人々は囁き合っていた。桐山のペンは、彼らの悲痛な証言を記録し、カメラは虚ろな瞳を切り取っていく。彼の内側で、正義の炎がますます激しく燃え上がった。これだ。これが、自分が暴くべき悪の正体だ。

しかし、取材を続ける中で、桐山は奇妙な感覚に襲われていた。乾いた土の匂い。遠くで聞こえる子供たちの笑い声。村の広場に立つ、大きなマンゴーの木。その全てが、初めて見るはずなのに、なぜか酷く懐かしい。まるで、失われた記憶の断片に触れるような、甘く切ない痛みが胸をかすめる。彼はその感覚を、長旅の疲れだろうと無理に打ち消し、再び取材に没頭した。この村の悲劇を世界に伝えることこそが、自分の使命なのだと信じて。

第三章 善意という名の原罪

取材の最終日、桐山は村の長老である老婆の家に招かれた。皺の刻まれた優しい顔をした彼女は、桐山の取材に最も協力的だった一人だ。彼女は、古びた木箱から一枚の色褪せた写真を取り出し、桐山に差し出した。

「あんたみたいな人が、昔にもこの村に来たことがあるんだよ。日本の若い学生さんだった」

写真には、日焼けした数人の若者たちが、村人たちと肩を組んで笑っていた。その中心で、満面の笑みを浮かべている一人の青年。その顔を見た瞬間、桐山の呼吸が止まった。全身の血が逆流するような衝撃。それは、紛れもなく二十歳そこそこの、大学時代の自分自身だった。

記憶のダムが決壊した。洪水のように、忘れ去っていた光景が脳裏に蘇る。国際協力サークルに所属していた大学時代、彼はこの村にボランティアとして滞在していたのだ。貧困から抜け出せない村を救いたい。その一心で、彼は日本の大学で学んだ知識を活かし、この村の特産物であるニルパを長期保存し、効率的に加工する方法を考案した。収穫期にしか現金収入のなかった村人たちが、一年中ニルパを加工・販売できるように。それは、純粋な善意から生まれた、彼の「最初の」大きな行動だった。

「あの若い人は、私たちに『魔法のレシピ』を教えてくれた。おかげで暮らしは少し楽になった。でも、それから大きな会社がやってきて、そのレシピを元に大きな工場を建てて…村はすっかり変わってしまった」

桐山は全身から力が抜けていくのを感じた。アトラスフーズ。彼らは、桐山が善意で生み出した加工法に目をつけたのだ。安価な労働力と組み合わせれば、莫大な利益を生む金の卵だと。そして、コストを極限まで下げるために、桐山が想定すらしなかった有害な添加物を加え、労働者を搾取するシステムを構築した。

『CRIME_RECIPE.zip』。罪のレシピ。

『パスワードのヒント:君が忘れた最初の音』

最初の音。それは、彼がこの村で発した最初の善意の声。彼の行動そのものだった。震える指で、彼はノートパソコンを開いた。パスワード入力画面に、当時のサークルでのニックネームと、村で最初に覚えた現地の言葉を打ち込む。

『SHO_MANIS』

翔太の「SHO」。そして、彼がレシピを教えた時に村人が「甘い未来が来る」と喜んでくれた、現地の言葉で「甘い」を意味する「MANIS」。

エンターキーを押すと、ファイルは呆気なく解凍された。画面に表示されたのは、桐山が考案したオリジナルのレシピと、それをアトラスフーズがいかに改悪し、コスト計算と人体への影響を意図的に無視してきたかを示す、おびただしい数のデータだった。

自分が裁こうとしていた巨悪。その全ての始まりは、自分自身の過去の、未熟で純粋な善意だった。桐山は愕然とした。正義の鉄槌を振り下ろそうとしていた相手は、鏡に映った自分自身の姿だったのだ。彼の信じてきた正義が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていった。

第四章 土に還る言葉

日本に戻った桐山は、数日間、部屋に閉じこもった。手元には、アトラスフーズを社会的に抹殺できるほどの強力な証拠がある。しかし、ペンを持つことができなかった。この記事を公表すれば、アトラスフーズの罪は暴かれるだろう。だが同時に、その根源に自分の善意があったという事実も白日の下に晒される。ジャーナリストとしての自分も、一人の人間としての自分も、終わってしまうかもしれない。恐怖と自己嫌悪が、鉛のように彼の身体をベッドに縫い付けていた。

目を閉じると、セライアの村人たちの顔が浮かんだ。土に汚れた子供たちの手。助けを求めるように自分を見つめていた母親の瞳。彼らが求めているのは、過去の犯人を吊し上げることだろうか。違う。彼らが望んでいるのは、ただ、人間らしいまっとうな明日だ。

その瞬間、桐山の中で何かが変わった。これまで彼を突き動かしてきたのは、悪を断罪する硬直した正義感だった。だが今は、自分が引き起こしてしまったことへの、当事者としての責任と、未来への贖罪の念が芽生えていた。独善的な正義から、痛みを伴う連帯へ。彼の内面が、静かに、しかし決定的に変容したのだ。

桐山はパソコンに向かった。彼は、単なる告発記事を書くのをやめた。代わりに、大学時代の自分の写真から始まる、魂の告白ともいえる記事を書き始めた。純粋な善意が、グローバル資本主義の論理の中でいかに歪められ、搾取の道具へと変貌していったか。そして、その始まりに自分自身がいたという事実。彼は何も隠さなかった。それは、アトラスフーズという一つの企業だけでなく、善意という名の下に無自覚な加害者になりうる、私たち自身の危うさを問うものでもあった。

記事は、発表と同時に社会に巨大な衝撃を与えた。アトラスフーズは激しい非難の的となり、不買運動と株価の暴落に見舞われた。同時に、桐山自身にも「偽善者」「全ての元凶」という批判が浴びせられた。彼はその全てを、甘んじて受け入れた。

半年後。桐山は再びセライアの地にいた。ジャーナリストの肩書を捨てた彼は、NPOのスタッフとして、村人たちと共に新しい畑を耕していた。ニルパではない、この土地本来の作物を育てるための土壌改善プロジェクトだ。汗を流し、土に触れる。それは、贖罪かもしれない。あるいは、ただの自己満足かもしれない。答えはまだ、見つからない。

乾いた風が頬を撫でる。桐山は鍬を置き、空を見上げた。かつて彼の瞳に宿っていた、真実を暴こうとする鋭い光はもうない。そこには、セライアのどこまでも広がる空のように、深く、静かで、そして途方もない哀しみと、それでも失われることのない小さな希望を湛えた光が宿っていた。言葉はいつか風化する。だが、この土に還る労働だけが、確かな未来に繋がっている。桐山はそう、信じようとしていた。

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