第一章 硝子片の囁き
アスファルトを叩く雨音だけが、世界のすべてだった。傘を打つ硬質な響きと、足元で跳ねる水の冷たさ。俺、響(ヒビキ)は、路地裏の壁に背を預け、ぜいぜいと浅い呼吸を繰り返していた。肺の奥に、湿った石炭殻が詰まっているかのような不快な感触。それは俺自身の病ではない。この街が吐き出し、誰もが見て見ぬふりをした、名もなき工場労働者たちの『負債』だ。
視線を落とすと、水たまりの縁で何かが微かに光っていた。指先ほどの『無彩色の硝子片』。透明化された人間が、この世から完全に消え去る直前に残す、魂の欠片。人々はそれを、ただの光の反射か、ガラスゴミとしか認識しない。だが、俺にはわかる。あれは、忘れられた存在の最後の叫びだ。
衝動を抑えきれず、震える指でそれに触れた。
瞬間、視界が白く焼き切れ、右腕に灼熱の鉄を押し付けられたような激痛が走った。腕が痙攣し、言うことを聞かなくなる。皮膚の下を、見えない蟲が這い回るようだ。これは、過重労働の末に神経を焼かれ、片腕の自由を奪われた誰かの苦しみ。硝子片は、その男の最後の抵抗だったのだ。俺の身体は、彼の絶望を克明に再現する。右腕の麻痺と、肺の痛み。二つの負債が共鳴し、俺は冷たいアスファルトに膝をついた。雨が、俺という器に溜まった他人の痛みを、洗い流そうとするかのように降り注いでいた。
第二章 陽炎の街
右腕の痺れを引きずりながら、俺は硝子片が導く街へと向かった。灰色の煙を吐き続ける煙突が立ち並ぶ、川沿いの工業地帯。そこは、時間が澱んだように空気が重く、金属の錆びた匂いと、甘ったるい化学薬品の匂いが混じり合っていた。
この街の人々は、どこか輪郭が曖昧だった。陽炎のように、その存在がゆらゆらと揺らいで見える。人々が互いに目を合わせようとしないからだ。近所の工場がもたらす健康被害について、誰もが薄々感づいている。だが、口にすれば職を失う。生活を失う。だから彼らは隣人の咳き込む音から耳を塞ぎ、痩せていく子どもの姿から目を逸らす。その集団的な『無視』が、街全体をこの世から切り離し、透明な膜で覆っていた。
公園のベンチに座る老婆の姿が、ふっと薄くなる。ブランコを漕ぐ少女の笑い声が、妙に遠く聞こえる。彼らは消えかけているのだ。社会という名の巨大な瞳が、彼らを映すことをやめたから。俺は、麻痺した右腕を握りしめた。この痛みだけが、彼らが確かに存在しているという証明だった。この無視の連鎖を、どこかで断ち切らなければならない。だが、どうやって? 俺にできるのは、彼らの痛みを我が身に写し取ることだけだ。それは救いではなく、ただの自己満足に近い行為に過ぎないのかもしれない。
第三章 贖罪の観測者
「あなた、"拾って"いるのね」
声をかけられたのは、街外れの古い図書館だった。透明化現象に関する古い資料を漁っていた俺に、一人の女が静かに言った。茅乃(カヤノ)と名乗る彼女は、疲れた瞳をした元システムエンジニアだった。
「その腕の痺れも、時折押さえる胸も、誰かの声を聞いた証拠」
彼女の部屋は、無数のモニターと乱雑に積まれたハードディスクで埋め尽くされていた。壁には、この都市の不可視なデータフローを示す複雑な図表が張り巡らされている。彼女は、この街を覆う『透明化』が、自然発生的なものではないことを突き止めていた。
「これは『調律』と呼ばれているわ。都市のネットワークに流れる特殊な信号が、人々の認知を無意識下で操作しているの。不快な情報、社会の矛盾、見たくない現実……それらをノイズとして処理し、人々の意識からフィルタリングするシステム。人々が『無視』しやすい環境を、技術的に作り出しているのよ」
茅乃は、震える手で一枚の写真立てを手に取った。そこには、彼女と、輪郭の薄れた小さな男の子が写っていた。
「私の息子よ。彼は喘息だった。工場の排煙が原因だと訴えたけど、誰も聞いてくれなかった。そして……消えた。私が開発に関わった技術が、彼を消したの」
彼女の瞳には、深い後悔と、贖罪への渇望が宿っていた。このシステムを破壊することだけが、彼女に残された唯一の道なのだ。俺たちは、同じ痛みを異なる形で抱える、共犯者のようだった。
第四章 調律者の福音
茅乃の解析によって、システムの物理的な中枢が、都市の地下深くに存在する巨大なデータセンターであることが判明した。俺たちは、厳重なセキュリティを掻い潜り、冷却ファンの轟音が響き渡るサーバー群の中心へとたどり着いた。そこは、人間の体温を感じさせない、絶対的な静寂と秩序に満ちた空間だった。
『来訪者ヲ確認。目的ヲ開示セヨ』
合成音声が、空間そのものから響いた。それが、人々を『調律』するシステムの意志だった。
「お前が、人々を消しているのか」
俺が問いかけると、音声は感情の起伏なく答えた。
『ワレワレハ、社会ノ不協和音ヲ除去シ、最大多数ノ精神的平穏ヲ実現スル。痛み、悲劇、怒り、ソレラハ除去スベキノイズデアル。人々ハ、忘レル権利ヲ有スル』
「忘れられた痛みは、消えやしない! 誰かが代わりに引き受けているだけだ!」
俺は叫び、懐から今まで集めてきた、数十個の『無彩色の硝子片』を取り出した。それは、システムによってノイズとして処理された、無数の魂の残滓だった。
『無意味ナ抵抗ダ。ソレラハ既ニ処理サレタ過去ノエラーニ過ギナイ』
調律者の声には、憐れみすら含まれているように聞こえた。彼らにとって、個人の苦痛は、全体の調和の前では意味をなさない統計上の誤差でしかないのだ。その絶対的な論理が、俺の肺腑を冷たく抉った。
第五章 全ての負債を此処へ
「響くん、やるしかないわ」
茅乃が、震える声で俺の背中を押した。彼女は中枢サーバーのコンソールに、システムの防壁を一時的に無効化するコードを打ち込んでいた。数秒の、永遠に続くかのような時間が流れる。
『警告。システムコアヘノ不正アクセスヲ検知』
俺は、掌に握りしめた全ての硝子片を、剥き出しになったシステムの中核へと押し付けた。
瞬間、世界から音が消えた。
次の刹那、俺の身体を、数千、数万の『負債』が奔流となって駆け巡った。
工場の煤煙で焼かれた肺。過労で壊れた腰。差別に引き裂かれた心。詐欺に奪われた未来。嘘のニュースに蝕まれた精神。忘れられた全ての痛み、悲しみ、怒りが、俺という一つの器に流れ込んでくる。皮膚に無数の文字が浮かび上がり、骨が軋み、血液が沸騰するような感覚。絶叫すら許されない、純粋な苦痛の塊。俺の意識は、無数の死と絶望の渦に飲み込まれていった。
しかし、その奔流は、俺の身体を通してシステムコアへと逆流していた。ノイズとして処理されたはずの、生々しい人間の痛みが、絶対的な論理で構築されたシステムを内側から破壊していく。サーバー群が火花を散らし、甲高い警報が鳴り響く。
『理解不能…エラー…エラー…コノ痛ミハ…ナンダ…』
調律者の声が、初めて苦痛に歪んだ。それが、俺が最後に聞いた言葉だった。
第六章 共苦の夜明け
意識を取り戻した時、俺は茅乃の部屋のベッドにいた。窓の外は、静かな夜だった。身体の至る所が悲鳴を上げていたが、不思議と、あの奔流のような激痛は消えていた。ただ、深い疲労と、消えない痣のように、幾つもの鈍い痛みが身体に刻み込まれている。
「システムは…沈黙したわ」
茅乃が、温かい茶を差し出しながら言った。彼女の目元には、隈が深く刻まれていた。
「世界は、どうなった?」
その問いに、彼女はただ、窓の外を指差した。
テレビのニュースキャスターが、放送中に自らの腕をさすり、困惑した表情を浮かべていた。「原因不明の痛みが……」と呟いている。街角では、人々が突然聞こえ始めた幻聴に耳を塞ぎ、見えない誰かの視線に怯えていた。ある者は胸の痛みを訴え、ある者は理由のわからない悲しみに涙を流していた。
システムは停止した。人々を不都合な真実から守っていた認知のフィルターは、もうない。その結果、世界は、長年無視し続けてきた『透明な負債』の総量を、一斉に清算し始めたのだ。かつて透明化された人々の痛みや苦しみが、今度は、彼らを無視した側の人間たちの身体に、幻覚として、あるいは物理的な痛みとして、ランダムに現れ始めた。
世界から『無視』は消えた。しかし、訪れたのは安寧ではなかった。誰もが他人の痛みを、その一部を、我が身に負うことになったのだ。街を行く人々は、互いの顔に浮かぶ苦悶の表情に、見知らぬ誰かの痛みの影を見る。それは、終わりのない、しかし確かな繋がりの始まりだった。
俺は、自らの胸に残る鈍い痛みを感じながら、窓ガラスに映る自分を見た。そこには、無数の負債を背負った男がいた。しかし、その瞳には絶望はなかった。これは罰ではない。呪いでもない。痛みを通じて、ようやく他者と繋がることができた世界。これは、途方もなく困難な『共苦』の時代の、静かな夜明けなのだから。