第一章 空っぽの幸福
桐島蒼(きりしま あおい)の指先が、空中で滑らかに円を描く。目の前のホログラム・インターフェースに、クライアントの脳内情報が青白い光の粒子となって流れ込んでくる。彼の職業は「記憶清掃士(メモリー・クリーナー)」。精神的負荷となるトラウマや不快な記憶を、対象者の脳から安全に抽出し、デジタルデータとして消去する。この街では、精神の衛生を保つための最も崇高な仕事の一つとされていた。
「準備はよろしいですか、サイトウ様」
蒼は、リクライニングチェアに深く身を沈めた老人、サイトウに静かに問いかけた。部屋は清潔で無機質だ。窓の外には、寸分の狂いもなく設計された未来都市のネオンが、絶え間なく明滅している。
「ああ、頼む」サイトウは弱々しく頷いた。皺の刻まれた顔は、諦念と、どこか期待のようなものが混じり合った複雑な色を浮かべていた。
今回の依頼は、蒼のキャリアの中でも異質だった。通常、依頼されるのは事故の記憶、失恋の苦しみ、事業の失敗といった、いわゆる「負の記憶」だ。しかし、サイトウが消去を望んだのは、たった一つの記憶。『亡き妻と過ごした、結婚三十周年の記念日』。蒼が事前に閲覧したデータによれば、それは紛れもなく、彼の人生で最も輝かしい一日だったはずだ。満開の桜並木の下で微笑む妻、手作りの不格好なケーキ、照れくさそうに交わした感謝の言葉。幸福の色彩に満ちた、完璧な記憶。
「本当に、よろしいのですか? この記憶は、あなたの人生の…宝物のように見受けられますが」
職業倫理に反すると知りつつも、蒼は尋ねずにはいられなかった。人々の心の澱を取り除き、前向きな社会を構築する。それが自分の使命だと信じてきた。しかし、幸福の記憶を自ら捨てようとする人間を、彼は理解できなかった。
「宝物だからこそ、手放すのだよ」サイトウは虚空を見つめて呟いた。「重すぎる宝は、時に枷になる。残りの人生を、私は…空っぽのまま、静かに歩きたいのだ」
その瞳の奥に宿る深い翳りに、蒼はそれ以上の追及を諦めた。彼はプロだ。クライアントの意思を尊重し、完璧に業務を遂行する。
蒼はインターフェースを操作し、記憶の核(コア)を特定した。桜の花びらが舞う映像、妻の笑い声の音響データ、ケーキの甘い匂いの嗅覚情報。それらが美しい光の束となって抽出され、蒼の手元にあるポータブル・バンクに吸い込まれていく。サイトウの眉間が、わずかに痙攣した。
作業が完了すると、部屋の空気が少しだけ軽くなった気がした。サイトウの顔からは、あの深い翳りが消え、ただ穏やかで、しかし驚くほど無表情なものに変わっていた。
「ありがとうございました、桐島さん」老人は、まるで初めて会う人間に話しかけるような、どこか他人行儀な口調で言った。「これで、楽になりました」
蒼は無言で一礼し、彼の部屋を後にした。抽出された「幸福の記憶」が収められたバンクは、ずしりと重かった。その重さは物理的なものではなく、蒼の心に直接のしかかってくる、理解不能な喪失感の重みだった。なぜ、人は自ら光を消すことを選ぶのか。その問いが、彼の完璧に整理されていたはずの世界に、小さな亀裂を入れた。
第二章 不協和音のフラッシュバック
サイトウの依頼から数週間が過ぎた。蒼は日常業務に戻ったが、あの日の違和感は心の底に微かな染みのように残り続けていた。彼は、システムによって完全に管理されたこの社会を信じていた。感情の過剰な波は非効率を生み、社会の安定を損なう。不要な記憶を消去することは、個人の幸福と社会全体の利益に繋がるのだと。
しかし、その信念は静かに揺らぎ始めていた。きっかけは、彼の業務用デバイスに頻発するようになった、原因不明のバグだった。
ある日の午後、蒼がストーカー被害に悩む若い女性の記憶を処理している最中のことだった。恐怖に歪む彼女の顔のデータが流れ込んでくる瞬間、蒼の視界に、全く無関係なイメージが閃光のように割り込んできた。――満開の桜並木。風に舞うピンク色の花びら。
「っ…!」
それは紛れもなく、サイトウから抽出した記憶の断片だった。消去され、「中央データバンク」に送られ、適切に分解処理されたはずのデータ。それがなぜ、自分のデバイスに?
最初は単なるシステムの残滓(ラグ)かと思った。しかし、現象は一度では終わらなかった。ある時は、赤ん坊の甲高い泣き声がヘッドセットから突然響き、またある時は、知らないはずの古い歌のメロディが頭の中でリフレインした。それらは全て、彼が過去にクライアントから抽出した記憶の一部だった。まるで、消されたはずの記憶たちが、行き場を失って彼の周りを彷徨っているかのようだった。
同僚に相談しても、「疲れているだけだ」「気にしすぎだ」と一笑に付されるだけ。この都市のシステムは完璧だ。エラーなど起こるはずがない。誰もがそう信じ切っていた。
蒼は孤独感を深めながら、サイトウについて独自に調査を始めた。公的な記録を辿ると、彼がかつてこの都市の基幹システム、特にエネルギー供給部門の設計に携わった優秀な技術者だったことが判明した。その経歴と、今回の奇妙な依頼、そしてシステムの不具合。点と点が、まだ意味をなさないまま蒼の頭の中で散らばっていた。
眠れない夜、蒼は自室の窓から都市の夜景を見下ろした。無数のビルから放たれる光は、まるで生命体のように脈動し、夜空を金色に染め上げている。この圧倒的な繁栄を支えているものは何なのだろう。クリーンで無限のエネルギー源だと、誰もが教えられてきた。しかし、蒼は今、その輝きの奥に、何か巨大な欺瞞が隠されているような、底知れぬ不安を感じていた。
あの桜吹雪のイメージが、再び脳裏をよぎる。それは美しく、そしてひどく悲しい光景だった。失われたはずの誰かの幸福が、警告のように蒼の心で明滅していた。
第三章 ネオンを灯す涙
疑念は、一度根を張ると、猛烈な勢いで蒼の心を侵食していった。彼はついに、記憶清掃士としての職権を濫用し、都市システムの最深部、「中央データバンク」へのアクセスを試みるという、最大の禁忌を犯す決意をした。もし見つかれば、キャリアどころか、市民権すら剥奪されかねない危険な賭けだった。
深夜、自室の端末に向かい、蒼は持てる技術の全てを注ぎ込んだ。幾重にも張り巡らされたセキュリティの壁を、冷や汗をかきながら一つ、また一つと突破していく。彼の指が求めるのは真実。サイトウが手放した幸福の行方と、彷徨う記憶たちの正体だ。
そして、ついに彼はデータバンクの核心部に辿り着いた。そこに表示された情報を見て、蒼は息を呑んだ。全身の血が凍りつくような感覚に襲われた。
そこは、記憶の墓場ではなかった。
抽出された記憶データは、分解処理などされていなかった。それらは、「感情スペクトル変換システム」と呼ばれる巨大なプラントに送られ、エネルギーへと変換されていたのだ。悲しみ、苦しみ、後悔、喜び、愛情…人間のあらゆる感情の起伏が、高効率のエネルギー源として利用されていた。この都市のきらびやかなネオンも、静寂を保つ交通システムも、快適な空調も、全ては人々が捨てた記憶を燃料にして動いていたのだ。
画面に表示されたエネルギー変換効率のリストを見て、蒼は愕然とした。最も高い数値を示していたのは、「絶望」や「苦痛」といった負の記憶だった。そして、それに匹敵するほどの高効率エネルギーを生み出すのが、サイトウが手放したような「強烈で純粋な幸福」の記憶だった。感情の振れ幅が大きければ大きいほど、それは上質な燃料となる。
蒼は、サイトウの言葉の意味を、今、全身を貫く痛みと共に理解した。「重すぎる宝は、時に枷になる」。あれは嘘だ。サイトウは元技術者として、このシステムの真実に気づいていたのだ。彼が最も幸せな記憶を手放したのは、それが最高値で「売れる」からだった。残されるであろう家族のために、自らの最も大切な思い出を、都市のエネルギーとして差し出したのだ。それは、あまりにも痛ましい、究極の自己犠牲だった。
自分は何をしてきたのだ? 人々を苦しみから救っていると信じてきた。しかし、実際は、彼らの魂の最も深い部分を切り取り、この巨大な都市を動かすための歯車として供給していたに過ぎない。自分は救済者ではなく、魂の搾取者だった。
蒼は端末の前で崩れ落ちた。デバイスから時折フラッシュバックしていた記憶の断片は、処理システムから漏れ出した、犠牲者たちの声なき叫びだったのだ。窓の外で輝く都市の夜景が、今は無数の人々の涙と苦悶で灯された、巨大な祭壇のように見えた。彼の信じてきた世界は、その根底から、音を立てて崩れ去っていった。
第四章 記憶語り部の灯火
蒼は、翌日、記憶清掃士の職を辞した。上司は理由を問いただしたが、彼は何も答えなかった。真実を告発することも考えた。しかし、このシステムの恩恵に浴している市民たちが、その事実を受け入れるだろうか。混乱と反発を招くだけで、何も変わらないかもしれない。何より、エネルギー源を失った都市がどうなるか、想像もつかなかった。
数日後、蒼はサイトウの元を再び訪れた。記憶を失った老人は、窓辺の椅子に座り、ただぼんやりと外を眺めていた。その顔は穏やかだったが、まるで人形のように空虚に見えた。蒼が誰であるかも、もちろん覚えていない。
「サイトウさん…あなたの奥様は、桜が好きだったそうですね」
蒼が静かに語りかけると、老人の瞳が、ほんの僅かに揺れた気がした。しかし、それだけだった。失われた記憶は、もう二度と戻らない。蒼は、取り返しのつかないことをしたのだという罪悪感に、胸が張り裂けそうになった。
彼にできることは何か。奪った記憶を取り戻すことはできない。システムを破壊することもできない。絶望の中で、蒼は一つの答えを見出した。
それから数週間後、都市の片隅にある小さな公園に、一人の男が立つようになった。桐島蒼だった。彼は、豪華なスーツを脱ぎ捨て、簡素な衣服を身につけていた。彼の前には、小さな木箱が置かれているだけだ。
日が暮れ始め、仕事帰りの人々が公園を通り過ぎる頃、蒼は静かに語り始める。
「あるところに、桜をこよなく愛する妻を持つ、一人の男がいました…」
それは、サイトウから奪った物語。そして、ストーカーに怯えた女性が失った恐怖の記憶。事業に失敗し、全てを投げ出した男の絶望の記憶。蒼は、自分が消してきた無数の記憶たちを、まるで自分の体験のように、丁寧に、感情を込めて語り始めた。
最初は誰も足を止めなかった。しかし、彼の切実な声と、物語に込められた生々しい感情は、次第に人々の心を引き寄せ始めた。なぜなら、それらは誰もが心のどこかに持っている、あるいは失ってしまった感情のかけらだったからだ。痛み、喜び、悲しみ、愛おしさ。効率化の名の下に、忘れ去られようとしていた人間性の根源。
蒼は「記憶語り部」になった。システムを告発するのではなく、物語の力で、人々に問いかけることを選んだのだ。記憶を、感情を、安易に手放してはいけない。痛みも苦しみも、全て抱えて生きていくことこそが、人間であることの証なのだと。
彼の周りには、少しずつ人だかりができるようになった。人々は、都市のネオンが作り出す偽りの明るさからしばし目をそらし、彼の語る物語の、小さくも温かい灯火に耳を傾ける。
都市のシステムは、今も人々の記憶を燃料に輝き続けている。蒼のささやかな抵抗が、この巨大な欺瞞に満ちた世界を変えられるのかは、誰にも分からない。しかし、彼の物語を聞いた人々の心には、確かに何かが芽生え始めていた。それは、失われた感情の残滓であり、人間性を取り戻すための、ささやかな希望の種だった。蒼は、今日もまた、誰かの失われた記憶を、静かに語り続ける。