サイレント・スコア

サイレント・スコア

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第一章 完璧な調和、あるいは不協和音の始まり

柏木湊(かしわぎ みなと)の一日は、完璧なシンフォニーのように始まる。午前六時、体内チップが最適な覚醒を促し、部屋の照明が夜明けの光を模倣して緩やかに照度を上げていく。空気清浄機が吐き出すのは、かすかに白樺の香りがする清浄な空気。彼のソーシャル・クレジット「ユニティ・スコア」は9.8。市民ランクAAA(トリプルエー)の彼にとって、世界は摩擦ひとつない滑らかな面として存在していた。

通勤用の自動運転ポッドは、予約時間の寸分違わずエントランスに到着する。交通システムは全市民のスコアと行動パターンを予測して最適化されており、渋滞などという前時代的な概念は、歴史の教科書の中にしか存在しない。中央情報管理局のオフィスに着くと、生体認証ゲートが彼の虹彩とスコアを瞬時に読み取り、柔らかな合成音声が「おはようございます、柏木主任。本日も社会への貢献を期待しています」と告げる。これが彼の日常。論理的で、効率的で、一点の曇りもない、美しい世界。

彼は、このユニティ・システムの維持管理を担うエリートエンジニアだった。市民のあらゆる行動――購買履歴、SNSでの発言、ボランティア活動、公共料金の支払い――をポイント化し、社会貢献度を可視化するこの偉大なシステムは、犯罪率を劇的に低下させ、経済を安定させ、人々を「正しい幸福」へと導いていた。少なくとも、柏木はそう信じて疑わなかった。

その日、不協和音は、静寂を切り裂くガラスのひび割れのように、彼の世界に現れた。システム全域を監視するメインコンソールに、見たことのないアラートが点滅したのだ。エラーコードではない。マルウェアでもない。それは、認識不能なプロトコルで送信され続ける、微弱だが断続的なデータパケットだった。まるで深海魚の微かな発光のように、広大なデータの海の中で、それはひっそりと明滅していた。

発信源をトレースすると、柏木の眉がわずかに寄せられた。第七行政区画の外れ、公式マップでは「再開発準備区域」として灰色に塗りつぶされたエリア。インフラは全て遮断され、人の立ち入りは固く禁じられているはずの場所だった。

「ゴーストデータか……」

同僚はそう言って肩をすくめたが、柏木の中の完璧主義がそれを許さなかった。彼の管理する完璧なシステムに、意味不明なデータが存在すること自体が許しがたい瑕疵だった。それは、完璧な譜面に書かれた、意図不明の休符。彼はその休符の意味を確かめずにはいられなかった。

数日後、柏木は非番を利用し、管理局の機材を私的に持ち出して、発信源の物理的な特定を試みた。灰色の壁に囲まれた区域の境界線に立った時、管理された都市の白樺の香りとは全く違う、湿った土と、埃と、何かが腐敗したような微かな匂いが鼻をついた。それは彼の内なる調和を乱す、不快な匂いだった。壁の切れ目、監視ドローンの死角になっている場所から、彼は足を踏み入れた。システムの加護も、スコアの権威も通用しない、未知の領域へ。彼の完璧なシンフォニーが、ここから変奏を始めることになるとは、まだ知る由もなかった。

第二章 スコアレスの街

壁の向こう側は、柏木が知る世界のネガフィルムだった。整然とした都市計画とは無縁の、バラックのような建物が寄り集まり、迷路のような路地を形成している。舗装されていない道には水たまりができ、空き缶や正体不明のガラクタが転がっていた。しかし、そこに満ちていたのは、退廃だけではなかった。子供たちの甲高い笑い声。野菜を炒める香ばしい匂い。老人のしわがれた歌声。彼のいた世界から消え去って久しい、生々しい生活のノイズが溢れていた。

人々は、彼が着ているクリーンな素材のジャケットを奇妙なものを見る目で眺めたが、敵意は感じられなかった。彼らは、柏木の世界では誰もが手首に装着しているスコア表示用のウェアラブルデバイスを身に着けていなかった。彼らこそ、都市伝説のように語られていた存在――「スコアレス」。システムから弾き出され、存在しないことになっている人々だった。

柏木はデータの発信源である粗末な小屋にたどり着いた。中では、一人の若い女性が、古びたタブレットに向かっていた。彼女が、エナと名乗った。肩まで伸びた黒髪を無造作に束ね、その瞳は警戒心と好奇心をない交ぜにした色をしていた。

「あんた、壁の向こうの人間だろ。何の用?」

彼女が使っていたのは、旧世代の通信機器を改造した、手作りの発信機だった。送信されていたのは、暗号化された画像データ。彼女が描いた絵だった。

「これは……」

柏木は画面に表示された絵を見て、息をのんだ。そこには、彼が見たこともないはずの風景が描かれていた。高架線を走る、今では使われていない旧式の電車。人々でごった返す、雑多な商店街。夕焼けに染まる、古びた灯台のある港。それらは、非効率の極みとして過去の遺物となったはずの風景だったが、不思議な懐かしさが胸に込み上げた。

エナは、柏木が管理局の人間だと知ると、一層強く彼を警戒した。しかし、彼女の描く絵に強く惹かれた柏木は、数日にわたってこのスコアレスの街に通い詰めた。彼は、このコミュニティが、システムの恩恵を受けられない代わりに、物々交換や助け合いで成り立っていることを知った。そこにはスコアによる序列も、効率化による無機質さもなかった。人々は不便な生活の中で、笑い、怒り、そして泣いた。その感情の豊かさは、スコアという絶対的な指標のもとで感情さえも平準化された柏木の世界とは対極にあった。

「どうして、君たちはスコアを持たないんだ?」

ある日、柏木はエナに尋ねた。

「持つとか持たないとか、そういうんじゃないよ」エナは、新しいキャンバスに木炭でスケッチをしながら答えた。「あたしたちは、ただ『忘れなかった』だけ」

「忘れない?」

「うん。忘れることを、拒んだんだ」

その言葉の意味を、柏木はまだ理解できなかった。だが、彼の内側で、信じていた世界の輪郭が、少しずつ、しかし確実に溶け始めているのを感じていた。エナの描く絵は、まるで失われた記憶の欠片のように、彼の心の奥底に静かに積もっていった。

第三章 忘却のクレジット

柏木の混乱は、コミュニティの長老であるハクという老人と話したことで、決定的な崩壊を迎えた。ハクは、濁った、しかし全てを見透かすような目で柏木を見つめ、静かに語り始めた。

「あんたが信じているユニティ・スコア。あれが社会貢献度を測るものだと、本気で思っているのかね」

その問いは、柏木の足元を揺るがした。彼は反論しようとしたが、言葉が出てこない。

「若いの。あのスコアはな、貢献度の指標じゃない。あれは『忘却度』の指標だよ」

「……忘却度?」

「そうだ」ハクは、深く刻まれた皺をさらに深くして頷いた。「この国が、今のような『完璧な調和』を手に入れる前、何があったか知っているか? 深刻な経済格差、激しい政治的対立、大規模な抗議デモ……社会は分裂し、憎しみで満ちていた。人々は互いを信じられず、未来に絶望していた」

老人の語る歴史は、柏木が学んだものとは全く異なっていた。彼が知る歴史では、ユニティ・システムの導入によって、社会は平和的に移行したとされていた。

「政府は、究極の解決策に手を出した。国民の記憶を操作することだ。大気中に散布されたナノマシンが、人間の脳に働きかけ、社会不安の原因となる特定の記憶――政府の失策、大規模な事故、不平等な社会構造、そういった『不都合な真実』に関する記憶を、徐々に曖昧にし、最終的には消去する。ユニティ・スコアとは、そのナノマシンへの適応度、つまり、どれだけ効率よく、そして深く、過去を忘れられるかを示す数値に他ならんのだ」

衝撃が、雷のように柏木の全身を貫いた。血の気が引き、耳鳴りがする。

「スコアが高い人間ほど、システムにとって都合のいい、従順な市民だということさ。過去の痛みを忘れ、与えられた平穏を疑いもせず受け入れる。逆に、我々スコアレスは、その忘却に抵抗した者、あるいはナノマシンがうまく作用しなかった者たちの末裔だ。我々は、システムが消し去ろうとした記憶を、不完全ながらも保持している。だから、社会から『存在しない者』として切り捨てられた」

エナの描く絵は、彼女やコミュニティの老人たちが断片的に受け継いできた、失われた過去の風景だったのだ。そして、柏木自身の9.8という高いスコア。それは、彼が社会のエリートであることの証ではなく、最も多くのことを忘れさせられた、空っぽな人間であることの烙印だった。

「君の両親も……」ハクは言いにくそうに続けた。「確か、反体制運動の主導的なメンバーだったと聞いている。だからこそ、君は『特別管理対象』として、誰よりも深く記憶を消され、システムの忠実な僕として育てられたのかもしれん」

柏木の世界は、音を立てて崩れ落ちた。彼の信じていた正義、効率、そして幸福は、全てが巨大な嘘の上に築かれた砂上の楼閣だった。彼は、自分の足で立っていると思っていた場所が、実は底なしの沼だったことに、今、気づいたのだ。

第四章 記憶の運び屋

中央情報管理局に戻った柏木は、もはや以前の彼ではなかった。彼の目に映る整然としたオフィスは、静かで美しい墓場のように見えた。同僚たちの穏やかな笑顔は、何も知らないまま幸福を享受する、空虚な仮面のようだった。彼は、この優しい嘘で塗り固められた世界に、激しい吐き気と、そして深い哀しみを覚えた。

彼は決意した。この巨大なシステムを破壊することは、今の自分には不可能だろう。だが、何もしないままではいられない。彼は、失われた記憶を取り戻すための、ささやかな抵抗を始めることにした。

柏木は、自身の持つ最高の権限を使い、管理局の最も深い階層にある「凍結アーカイブ」にアクセスした。そこには、ユニティ・システムが人々から消し去った、膨大な量の情報――ニュース映像、公文書、個人の日記――が、厳重なプロテクトのもとで眠っていた。彼は、それらのデータを少しずつ、細心の注意を払いながらコピーし、スコアレスの街にいるエナたちに送り始めた。彼らの古い発信機だけが受信できる、独自の暗号化通信を使って。

それは、彼のスコアと生命を危険に晒す行為だった。システムは、彼の行動に気づき始めていた。彼のユニティ・スコアは、9.8から9.7へ、そして9.6へと、確実に下がり始めていた。スコアの低下は、彼の生活からささやかな利便性を奪っていった。自動運転ポッドの配車が遅れ、スマートホームの応答が鈍くなった。同僚たちの視線に、かすかな侮蔑の色が混じり始める。だが、柏木の心は、かつてないほど満たされていた。

ある夜、エナから一枚の画像データが届いた。それは、彼女が新しく描いた絵だった。

夕暮れの海辺で、幼い少年が、若い夫婦に手を引かれている。その背景には、エナの絵に何度も登場した、あの古びた灯台が描かれていた。

その絵を見た瞬間、柏木の脳裏に、忘却の深い霧の向こうから、一つの光景が閃光のように蘇った。潮の香り。肌を撫でる温かい風。自分を「湊」と呼ぶ、優しい声。それは、彼が完全に忘れ去っていたはずの、両親との思い出だった。

柏木の目から、熱いものが静かに流れ落ちた。それは、スコアが9.8あった頃には、決して流すことのなかった涙だった。

絵のデータには、短いメッセージが添えられていた。

「思い出してくれて、ありがとう」

彼のユニティ・スコアは、今や8.5まで落ち込んでいた。もはやエリートではない。しかし、彼の表情は、完璧な調和の中にいた頃よりも、ずっと人間的で、穏やかだった。彼は、数値化された偽りの幸福ではなく、痛みや哀しみを含んだ不完全な記憶と共に生きていくことを選んだのだ。失われたものを取り戻すための彼の孤独な戦いは、まだ始まったばかりだった。

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