彩りの監獄

彩りの監獄

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第一章 無色の依頼人

私の職業は「共感カウンセラー」。ありふれた肩書きに聞こえるかもしれないが、その実態は少し特殊だ。私、響野環(きょうのたまき)には、他人の感情がオーラのような色彩として見える。怒りは燃えるような緋色、喜びは弾けるレモンイエロー、悲しみは静かに沈むインディゴ。この街は、人々の感情が織りなす無数のスペクトルで、常に騒がしく明滅している。

この能力は、かつて私をひどく苦しめた。幼い頃は、言葉と色が食い違う大人たちの間で混乱し、他人の感情の奔流にのまれては、一人で疲弊していた。だが三十を過ぎた今、私はそれを完全に制御し、武器に変えていた。都心の一等地に構えたカウンセリングルーム「スペクトル」は、口コミだけで予約が絶えない。クライアントのまとう色を見れば、彼らが隠している本心も、無自覚のストレスも、手に取るようにわかるのだ。私はただ、その色を言語化し、解決の糸口を示すだけでいい。

その日、私のオフィスに現れた男は、私の世界を一瞬にしてモノクロームに変えた。

名を、伊織圭介(いおりけいすけ)という。予約リストにあったその名前から、私は高名なIT企業の若きCEOを思い浮かべていた。実際に現れた彼は、寸分の隙もなく仕立てられたスーツに身を包み、知性と冷徹さが同居する顔立ちをしていた。だが、私が息を呑んだのは彼の容姿ではない。彼が、何の色もまとっていなかったからだ。

無色。透明ですらない、完全な虚無。まるでそこに、感情というものが存在しないかのように。これまで何千という人間を見てきたが、こんなことは初めてだった。喜びも、不安も、緊張すらも、ない。私の能力が、初めて壁に突き当たった瞬間だった。

「響野先生ですね。お噂はかねがね」

平坦な声が、静かなオフィスに響く。私は動揺を押し殺し、平静を装って彼に向き合った。

「伊織さん。ようこそ。…それで、ご相談というのは?」

私の問いに、彼は無色のまま、テーブルに一枚の写真を置いた。息をのむほど美しい女性だった。幸せそうに微笑む彼女の周囲には、写真越しにでもわかるほど、鮮やかな幸福のピンク色が滲んでいる。

「妻の、美咲です」と伊織は言った。「一週間前から、彼女は理由もなく、深い『絶望』の藍色に沈んでしまいました。食事もとらず、ただ部屋の隅で膝を抱えている。何を聞いても、答えはない。医者は鬱だと診断しましたが、処方された薬も効果がない。あなたなら、彼女の『色』から、本当の原因を突き止められるのではないかと思いまして」

私は写真と、彼の無色の貌を交互に見た。妻の深刻な状態を語りながら、彼の内面には一片の動揺も、心配の色さえ浮かんでいない。この男は、一体何者なのだ? 好奇心と、プロとしての自負が、私の内側でせめぎ合った。私の能力が通用しない、初めての相手。そして、その妻を蝕むという、深淵のような藍色。

「…わかりました。お引き受けします」

私は、底知れない謎が潜む、色のない深淵へと足を踏み入れることを決めた。それが、私の信じてきた世界のすべてを覆すことになるなど、知る由もなかった。

第二章 藍色の肖像

伊織が所有するタワーマンションの最上階は、まるで天空の城だった。床から天井まで続くガラス窓の向こうには、ミニチュアのような都市が広がり、人々の感情の光点が、銀河のように瞬いている。だが、この広大で無機質な空間は、一つの色に支配されていた。

藍色。それも、光の一切を吸い込むような、澱んだ藍だ。

リビングのソファに、伊織の妻・美咲は人形のように座っていた。写真で見た生命力あふれる笑顔は跡形もなく、その美しい顔は能面のように無表情だった。そして彼女の全身から、重く、冷たい藍色のオーラが、濃い霧のように立ち上っていた。それは単なる悲しみではない。希望の一切を諦観した果てにある、静かな絶望の色だった。

「美咲、響野先生だ。君の話を聞いてくださる」

伊織が無色の声で語りかけるが、美咲は虚ろな瞳を窓の外に向けたまま、何の反応も示さない。私は彼女の隣に座る許可を得て、ゆっくりと話しかけた。

「美咲さん、こんにちは。環です。少し、お話ししませんか」

返事はない。ただ、彼女の周りの藍色が、私が近づいたことでわずかに揺らめき、拒絶するように濃度を増した。まるで、触れることすら許さないとでも言うように。

調査は難航を極めた。私は美咲の友人たちにも会ったが、誰もが口を揃えて「信じられない」と言った。彼女たちの記憶の中の美咲は、常に明るく、誰からも愛され、夫の成功を支える完璧な妻だった。彼女たちの語る美咲像には、決まって「幸福」の黄色や「満足」のオレンジ色が伴っていた。誰もが、彼女が発していた「色」だけを信じて疑わなかった。

私は再び伊織邸を訪れ、美咲の部屋を調べる許可をもらった。白で統一された、モデルルームのように生活感のない部屋。その一角に、イーゼルが立てかけられていた。そこに置かれたキャンバスを見て、私は思わず後ずさった。

描かれていたのは、一枚の「絵」と呼べるものですらなかった。赤、青、黄、緑…あらゆる色が暴力的に塗りたくられ、混ざり合い、おぞましいほどの黒い混沌と化していた。色彩の悲鳴。感情の爆発。その黒い塊の中心だけが、ナイフで削り取られたように、キャンバスの白い地肌を覗かせている。その絵からだけは、藍色ではない、形容しがたいほどの苦痛と怒りの圧力が、奔流となって私に襲いかかってきた。

これは、なんだ? あの静かな藍色とは、あまりにもかけ離れた激情。この絵こそが、彼女の本当の叫びなのではないか?

私は、美咲のまとう藍色が、あまりに均一で、あまりに「完璧な絶望」の形をしていることに、初めて違和感を覚えた。人間の感情は、もっと揺らぎ、混じり合うものだ。こんなに純粋な絶望など、ありえるのだろうか。

私の信じてきた「色の真実」に、微かな亀裂が入るのを感じていた。

第三章 偽りのスペクトル

行き詰まった私は、原点に戻ることにした。謎の鍵は、伊織圭介その人にある。なぜ、彼は「無色」なのか。感情がないサイコパスなのか。それとも、何かを隠しているのか。

私はカウンセラーの職権を使い、秘密裏に伊織の会社――エウダイモニア社について調べ始めた。表向きは、人々の生活を豊かにするAI開発企業。しかし、その水面下で進められている極秘プロジェクトの噂に、私は辿り着いた。

「プロジェクト・カレイドスコープ」。その概要を目にした時、全身の血が凍るような感覚に襲われた。それは、人間の感情を外部から「補正」するウェアラブルデバイスの開発計画だった。ナノマシンを体内に注入し、脳の感情野に直接作用する。装着者は、自らの感情の発露――つまり、オーラの「色」を、意のままにコントロールできるというのだ。謳い文句は、「社会的な調和のための感情的エチケット」。悲しみを隠したい時は「平静」の白に。自信がない時は「自信」の金色に。

心臓が警鐘のように鳴り響く。まさか。

私はハッキングまがいの手段で、さらに深層のデータにアクセスした。そして、一枚の設計図を見つけ出した。それは、伊織が常に手首にはめている、ミニマルなデザインの腕時計によく似ていた。製品名は「エモーション・アジャスター」。そして、その最初の被験者リストの筆頭に、彼の名前があった。

伊織圭介は、感情がないのではなかった。彼はこのデバイスを使い、自らの感情を常に「無色(ニュートラル)」に補正し続けていたのだ。部下を叱責する時も、巨額の契約を結ぶ時も、彼は完璧に制御された「冷静」を演じることができた。それが、彼の成功の秘密だった。

では、美咲の藍色は?

パズルの最後のピースが、恐ろしい形ではまっていく。伊織は、心を病んでしまった妻を、世間の目から隠したかったのではない。彼は、妻の苦悩さえも、自らの望む「物語」に仕立て上げたのだ。

私は震える手で、美咲の医療記録を検索した。伊織の指示で、主治医が彼女に投与していたのは、抗うつ剤ではなかった。それは、エモーション・アジャスターのプロトタイプを、強制的に機能させるためのナノマシンだった。美咲は、「絶望」しているのではなかった。「絶望させられていた」のだ。夫によって。「悲劇のヒロイン」という、美しくも残酷な役割を、その身に纏わされていた。彼女自身の本当の感情は、あの黒く塗りつぶされたキャンバスのように、デバイスの下で混沌と渦巻き、出口を失っていたのだ。

私が今まで見てきた世界が、足元から崩れ落ちていく。私が信じ、寄りかかってきた「見える感情」は、テクノロジーによっていくらでも捏造できる、薄っぺらなまやかしに過ぎなかった。社会は、偽りの色彩で満たされていた。私は、その嘘に加担し続けてきたのだ。

第四章 沈黙の告発

エウダイモニア社の最上階、CEOオフィス。ガラス張りの部屋で、伊織は静かに私を待っていた。彼の周りには、相変わらず色がなかった。だが今の私には、その虚無が、何重にも塗り固められた嘘の壁に見えた。

「全て、ご存知でしたね」私が切り出すと、伊織は薄く笑った。

「君が優秀で助かったよ。説明の手間が省ける」

その傲慢さに、私の内側で緋色の怒りが燃え上がった。

「なぜ! なぜあんなことを! 美咲さんは、あなたの妻でしょう!」

「妻だからだよ」伊織の声は、氷のように冷たかった。「彼女は心を病んだ。それは事実だ。だが、世間が見たいのは、理解できない狂気ではない。美しく、哀れで、共感を誘う『物語』だ。私は彼女に、最も美しい悲劇の色を与えた。人々は彼女に同情し、私を献身的な夫だと評価する。社会とは、そういうものだ。見えるものが全てなら、見せたいものを見せればいい。それが、この世界の新しいルールだよ」

彼の周囲に、デバイスが作り出す完璧な「冷静」の薄氷色が漂っている。だがその奥に、歪んだ支配欲と、見透かされることへの微かな「恐怖」の揺らめきを、私は確かに感じた。もはや、色ではない。彼の瞳の奥にある、生身の人間の気配だった。

私は選択を迫られていた。この恐ろしい真実を告発すれば、社会はパニックに陥るだろう。感情の色を信じて生きてきた人々は、何を信じればいいのか分からなくなる。私のキャリアも、全て失う。だが、沈黙すれば、第二、第三の美咲が生まれるだろう。彩りの監獄は、世界を覆い尽くすに違いない。

数日後、私はカウンセラーの職を辞した。そして、美咲が入院している無菌室のような病室を訪れた。もう、私には彼女の藍色は見えない。いや、見ようとしなかった。私はただ、ベッドのそばに椅子を引き寄せ、何も言わずに、彼女の冷たい手を握った。

色ではない、確かな温もりを求めて。

その時だった。虚ろだった彼女の瞳から、一筋の涙が静かにこぼれ落ちた。そして、ほんの一瞬。ほんの瞬きほどの時間。彼女の指先から、デバイスの補正を突き破って、微かで、どこまでも透明な「安堵」の色が、蛍の光のように放たれるのを、私は確かに感じ取った。それは、私の能力が見せた最後の幻だったのかもしれない。だが、それで十分だった。

自室に戻った私は、ラップトップを開いた。白紙の画面が、私自身の本当の感情を映す鏡のように見えた。もう、偽りの色彩に惑わされることはない。私は、色に隠された人間の「心」に耳を傾ける道を選ぶ。それがどれほど困難な道であろうと。

私は深く息を吸い込み、指をキーボードに置いた。そして、世界に向けた最初の一文を、静かに打ち込み始めた。

『この世界は、色で嘘をつく』

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

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