第一章 光と塵の街角
俺、カイが生業にしているのは、いわば他人の後悔を覗き見ることだ。この世界では、人々は社会への「貢献度」に応じて、その身から「生体光」と呼ばれる光を放つ。エリートたちは太陽のように眩しく、凡人たちは街灯のように慎ましく輝く。そして、貢献度の低い者は……その光を失い、徐々に身体が透き通り、誰からも認識されなくなる。
俺には、そんな薄れゆく人々が纏う、もう一つの光が見えた。それは「時間塵」と呼ばれる微細な粒子。彼らが選び得たもう一つの人生、失われた選択のきらめきだ。ピアニストになれたかもしれなかった老人の指先からは白銀の塵がこぼれ、恋に破れた若者の肩には赤錆色の塵が積もる。それらは無念の化石であり、存在の証でもあった。
アスファルトに反射するネオンが滲む夜。俺はカフェの窓際で、真鍮製の古い懐中時計を磨いていた。父の形見であるそれは、単なる時計ではない。蓋を開けると、特殊なフィルターを通して時間塵の密度を正確に捉え、その輝きを増幅させることができる。チク、タク、と耳元で刻まれる秒針の音は、無数の失われた可能性が囁く声のように聞こえた。
街行く人々は、互いの生体光の強さを値踏みするように見比べ、輝きの強い者には道を譲り、弱い者には目もくれない。誰もがより強く輝くことを目指し、その過程でこぼれ落ちた無数の「もしも」には、誰も気づかない。俺を除いては。この冷たくも美しい、残酷な世界の法則の中で、俺はただの観測者だった。少なくとも、その日までは。
第二章 無色の後悔
依頼人は、娘の急速な透明化を憂う初老の男だった。彼の生体光もまた、ずいぶんと頼りない。
「娘の……リナの光が、日に日に薄れていくのです。なのにあの子は、何も感じていないように穏やかな顔をしている。どうか、原因を調べていただけませんか」
指定された公園のベンチに、その少女リナは座っていた。夕陽を浴びて、彼女の身体は向こう側が透けて見えるほど希薄だった。だが、俺は息を呑んだ。彼女の周りには、あるべきはずのものが、何一つなかったのだ。
時間塵が、ない。
普通、ここまで透明化が進めば、身体の輪郭が見えなくなるほど夥しい量の時間塵が渦巻いているはずだ。画家になる夢を諦めた後悔。友人と喧嘩別れした未練。数えきれない選択の残骸が、その人物の存在をかろうじて繋ぎ止めている。
だが、リナは違った。彼女の周囲の空気は、まるで洗い流されたかのように澄み切っていた。後悔も、未練も、失われた可能性のかけらさえも存在しない。ただ、虚無がそこにあるだけだった。
俺が声をかけると、彼女はゆっくりと顔を上げた。ガラス玉のように感情の読めない瞳が、俺を捉える。
「こんにちは」
その声は、水面に落ちた小石のように静かだった。
「君は、自分が消えかかっていることに、何も思わないのか?」
「消える?いいえ。私は今のままで、とても満たされていますから」
彼女は微笑んだ。その完璧に凪いだ表情に、俺は得体の知れない寒気を覚えた。これは人の持つ穏やかさではない。まるで、初めから何も与えられていないかのような、空虚な平穏だった。
第三章 失われた風景
リナの調査は難航した。彼女の過去を辿っても、時間塵が存在しないため、俺の能力は何の手がかりも示してくれない。諦めかけた時、依頼人の男がぽつりと漏らした。
「あの子は昔、絵を描くのが好きで……世界中の風景を描いて回るのが夢だと、言っていました」
その言葉だけを頼りに、俺は懐中時計のフィルターを最大にした。リナに近づき、意識を集中させる。チク、タク、チク、タク。秒針の音が、世界の深淵に潜っていくための合図のように響く。
見えた。
リナの意識の底、ほとんど消去されかけた領域に、色鮮やかなパレットと、白いキャンバスに向かう彼女自身の姿が、陽炎のように揺らめいていた。あまりに微弱な、しかし確かな「可能性」の残滓。
俺は懐中時計を強く握りしめ、その失われた風景を無理やり実体化させた。
「――ッ!」
時計のレンズから放たれた光が、リナを包む。一瞬、公園の風景が歪み、目の前にイーゼルに立てかけられた美しい油絵の幻影が現れた。南国の海、雪深い山脈、喧騒の市場。リナが夢見たであろう、無数の世界。
その光景を映したリナの瞳が、初めて大きく見開かれた。戸惑い、驚き、そして何かを思い出したかのような痛みが、そのガラス玉の表面を走る。彼女の透明な身体が、ぐらりと揺れた。
だが、それも束の間だった。幻影は砂のように崩れ落ち、リナの瞳は再び元の無感情な光に戻る。
「……今の、何ですか?」
彼女は首を傾げた。まるで、今起きた出来事そのものが、彼女の世界には存在しなかったかのように。
確信した。これは自然な現象ではない。何者かが、あるいは何かが、意図的に彼女から「失われた可能性」を奪い取っているのだ。
第四章 システムの真実
俺の行き過ぎた干渉は、見えざる番人の注意を引いたらしい。翌日、俺のアパートのドアをノックする者がいた。ドアを開けると、そこに立っていたのは、純白の光で網膜が焼けるかと思うほど眩しい生体光を放つ男だった。彼の周囲にもまた、時間塵は一切存在しなかった。
「調律局のシズマと申します。カイさん、あなたに少しお話が」
男、シズマは、この世界の真実を淡々と語り始めた。かつてこの世界は、無限の可能性が引き起こす嫉妬、後悔、そして争いによって破滅寸前まで陥った。「大混乱時代」と呼ばれるその悲劇の反省から、先人たちは絶対的な安定をもたらす社会管理システム「アルカディア」を構築したのだという。
「アルカディアは、全ての人間の適性を解析し、社会にとって最も貢献できる、ただ一つの『最良の道』を提示します。それ以外の不要な可能性、つまり迷いや後悔の原因となる選択肢は、幼少期に無意識下で摘み取られる。それが『最適化』です」
シズマは、まるで天気の話でもするかのように言った。
「時間塵が見えない人々は、完璧に最適化された、幸福な市民なのです。彼らは迷うことなく、与えられた役割に満たされ、社会に貢献し、強く輝く」
俺は言葉を失った。リナのあの空虚な平穏は、作られた幸福だったのだ。
「じゃあ、俺は……俺のこの能力は一体……」
「良い質問です」とシズマは微笑んだ。「システムとて完璧ではない。稀に『最適化』から漏れる個体、いわばバグが発生します。彼らは過剰な可能性を抱え、時間塵を撒き散らしながら、いずれ社会の不協和音となる。あなたのその稀有な能力は、そうした『非最適化人間』を早期に発見し、我々が保護――あるいは再調整するための、貴重なセンサーなのですよ」
全身の血が凍りつくような感覚。俺は観測者などではなかった。俺自身が、システムの檻を監視する、鎖に繋がれた番犬に過ぎなかったのだ。
第五章 逆流するクロノグラフ
絶望が、冷たい泥のように身体にまとわりつく。俺の見てきた無数の後悔や未練のきらめきは、ただの不良品の烙印だったというのか。俺が共感し、時に救いたいと願った人々は、システムの定義する「バグ」だったというのか。
「カイさん。あなたもまた、システムの庇護下にあるのです。我々に協力し、安定した世界の一員として生きるか。あるいは、バグとして『再調整』されるか。選ぶのはあなたです」
シズマの言葉は、選択の自由を与えているようで、その実、絶対的な支配を突きつけていた。
俺は、掌の中の懐中時計を強く握りしめた。父の形見。寡黙だった父は、死ぬ間際、この時計を俺に渡し、こう言った。「お前の見るものが、真実だとは限らない。だが、お前が感じた痛みだけは、本物だ」と。
父もまた、この偽りの平穏に抗い、システムに消された「非最適化人間」だったのかもしれない。
痛み。そうだ。リナの瞳に一瞬だけ宿った、あの痛み。それは本物だった。システムに奪われた夢の痛みが、確かにそこにあった。
偽りの幸福か、痛みを伴う自由か。
答えは、とうに出ていた。
「俺は、選ばない」
俺はシズマを睨みつけ、懐中時計の蓋を開けた。
「俺は、この世界を『選ばせる』」
俺は、これまで生きてきた中で抱え込んだ、自分自身の膨大な時間塵――この理不尽な世界で観測者として生きる以外の、無数の失われた可能性――を、懐中時計に叩きつけた。システムに抗い続けた証である、混沌のエネルギーの奔流を。
懐中時計が、断末魔のような甲高い音を立てて振動する。真鍮のボディに亀裂が走り、フィルターレンズから凝縮された光が溢れ出した。それは、増幅装置と化したのだ。俺自身の存在を燃料にして。
第六章 塵埃の夜明け
懐中時計から放たれた光の槍が、窓を突き破り、夜空にそびえるアルカディアの中枢タワーを貫いた。
瞬間、世界から音が消えた。
次の瞬間、都市全体が、巨大な不協和音を奏でて震えた。
街中の人々が、一斉に足を止める。エリートも、凡人も、消えかかっていた者も。誰もが、虚空を見つめて立ち尽くす。
そして、それは始まった。
彼らの周囲に、色とりどりの「時間塵」が、まるで吹雪のように舞い上がり始めたのだ。忘れていた夢。捨て去った恋。選ばなかった道。システムによって消去されていたはずの、無数の「もしも」が、人々の意識の中に強制的に流れ込んでいく。
「ああ……私は、本当は……音楽家に……」
「君と、あの時……結婚していれば……」
歓喜の嗚咽と、絶望の叫びが、街のあちこちで同時に生まれた。偽りの平穏は砕け散り、誰もが自身の失われた可能性と、その痛切な重みと、強制的に向き合わされていた。
俺の身体もまた、急速に光を失い、透き通っていく。だが、不思議と恐怖はなかった。俺の周囲にも、無数の俺がいた。小説家になった俺。旅人になった俺。父と同じ技術者になった俺。その誰もが、俺を見て、静かに頷いているように見えた。
薄れゆく意識の中、俺は星屑のように舞う無数の時間塵を見上げていた。
これが、真の自由への夜明けなのか。それとも、新たな「大混乱時代」の始まりに過ぎないのか。
その答えを知る者は、どこにもいない。
ただ、世界はもう二度と、昨日と同じ朝を迎えることはないだろう。その混沌とした、しかしあまりにも美しい光景を最後に、俺の意識は静かに闇に溶けていった。