澱の街のソナタ

澱の街のソナタ

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第一章 淀む空気と規則正しい日々

その日も、市役所の空気は澱んでいた。物理的な意味で、だ。僕、真鍋湊が勤める市民安全局・澱浄化課の待合室には、黒い染みを体にまとわりつかせた人々が、沈んだ顔で番号を呼ばれるのを待っている。

この世界では、嘘は重さを持つ。人が嘘をつくと、「嘘の澱(おり)」と呼ばれる黒く粘着質な物質が体に付着するのだ。小さな嘘は煤のような染みになり、大きな嘘はヘドロのように体にこびりつき、その人の動きを鈍らせ、心を蝕んでいく。そして、その澱を洗い流せるのは、市が独占販売する高価な「特殊浄化液」だけ。僕の仕事は、その浄化液の配給を管理し、申請者を規定通りに捌くことだった。

「次の方、三番窓口へどうぞ」

僕の前に座ったのは、またあの老婆だった。背中から腰にかけて、まるで古木の瘤のように巨大な澱を背負っている。その重みのせいで老婆の背は深く曲がり、呼吸は常に苦しそうだ。彼女はもう一ヶ月以上、毎日ここに通いつめては、同じことを繰り返している。

「浄化液を……どうか、浄化液をください」

「申請書類は拝見しました。ですが、山下さん、あなたの所得では減免措置の対象外です。規定料金をお支払いいただけなければ、配給はできません」

僕は感情を殺し、マニュアル通りの言葉を紡ぐ。それが僕の正義であり、職務だった。澱を溜め込むのは、その人間が嘘をついたからだ。自業自得。システムの公平性を保つため、私情を挟む余地はない。

「わしは……わしは、悪い嘘なんかついとらん」老婆は掠れた声で訴える。「家族を守るためじゃった。誰も傷つけとらん……」

またその話か。僕は内心でため息をついた。澱の理由は問わない。それがルールだ。嘘に良いも悪いもない。嘘は嘘であり、澱は澱だ。

「申し訳ありませんが、事情がどうあれルールは曲げられません。お引き取りください」

僕が冷たく言い放つと、老婆は諦めたようにゆっくりと立ち上がった。その一挙一動が、背中の澱の重さを物語っている。待合室の誰もが、同情とも軽蔑ともつかない目で彼女の後ろ姿を見送っていた。

僕は自分の体を見下ろす。染み一つない、清潔なシャツ。そして、澱一つない、クリーンな体。真実だけを口にし、ルールに忠実に生きてきた証だ。僕は、澱を背負う人々を見下すことで、自らの正しさを確認していた。この澱んだ街で、自分だけは清廉でいられるのだと、固く信じていた。

第二章 歪んだ正義と少女の涙

僕には目標があった。澱浄化課のエースであり、次期課長と目される黒木さんのような職員になることだ。黒木さんは、どんな重い澱を背負った市民に対しても常に冷静で、一切の澱をその身にまとっていない。彼の白く糊の効いたシャツは、彼のクリーンな生き方の象徴に見えた。

「真鍋くん、少し感傷的すぎるな」

ある日の昼休み、黒木さんは僕のデスクに来て、缶コーヒーを置きながら言った。「あの老婆のことかい? 気にしなさんな。我々の仕事は、澱に込められた物語を聞くことじゃない。システムを維持することだ。それが、この街の秩序を守る唯一の方法なんだよ」

彼の言葉は、いつも僕の迷いを打ち消してくれた。そうだ、僕がしていることは正しいのだ。個人の感情に流されていては、社会は成り立たない。

その日の帰り道、僕は商店街で足を止めた。八百屋の店先で、小さな女の子が懸命に野菜を売っている。見覚えのある顔だった。毎日市役所に来る、あの老婆の孫娘だ。少女の服は薄汚れ、その小さな背中にも、薄墨のような澱がうっすらと付着していた。子供でも、嘘はつく。親を庇うための小さな嘘だろうか。

僕が通り過ぎようとした時、少女が駆け寄ってきた。

「市役所の人……ですよね?」

「……そうだけど」

「お願いです! おばあちゃんの澱を、なんとかしてください!」

少女は目に涙を溜め、僕のスーツの裾を掴んだ。「おばあちゃんは、嘘なんかつきたくなかったんです! 病気のお父さんの薬代を稼ぐために、本当は一日しか働いてないのに、三日働いたって嘘をついて、前借りを頼んだだけなんです! そのお金で、お父さんは助かったんです! 誰かを騙して儲けたわけじゃない! なのに、どうして……!」

少女の嗚咽が、僕の胸に突き刺さった。嘘の理由。僕が今まで頑なに聞こうとしなかった、澱の裏側にある物語。それは、僕が想像していたような、利己的で汚いものではなかった。家族を思う、切実な愛の形だった。

「……ルールだから」

僕は、かろうじてそれだけを口にすることができた。だが、その言葉はいつものように絶対的な響きを持たず、空虚に自分の耳に返ってきた。少女の涙が、僕が信じてきた「正しさ」という強固な壁に、小さなひび割れを入れていくのを感じた。アスファルトの匂いと、果物の甘い香りが混じり合う夕暮れの商店街で、僕は初めて、自分の足元が揺らぐような感覚に襲われた。

第三章 偽りの浄化と真実の重み

少女の涙が、僕の中で澱のように沈殿していた。僕はいてもたってもいられなくなり、禁じられていると知りながら、山下老婆のファイルを深く掘り下げて調査を始めた。残業と偽り、一人残ったオフィスでサーバーの記録を漁る。それは僕にとって初めての「嘘」だった。背中に、チリリと小さな熱を感じた気がした。

そして、僕は見つけてしまった。澱浄化システムの中枢に隠された、あり得ないファイル。「特殊浄化液・成分分析報告書」。それは最高機密に指定され、歴代の市長と局長しかアクセスできないはずだった。だが、システムのメンテナンス記録を辿るうちに、偶然アクセスルートを発見してしまったのだ。

震える指でファイルを開く。そこに書かれていた文字列に、僕は息を呑んだ。

【主成分:水(99.9%)、微量ミネラル】

特殊浄化液は、ただの水だった。

何かの間違いだ。何度も報告書を読み返す。だが、記載されている事実は変わらない。僕たちが市民から高額な料金を徴収して配給していた希望の液体は、水道の蛇口をひねれば出てくるものと何ら変わらなかったのだ。

頭が真っ白になった。では、なぜ澱は消える? 浄化液で澱が消えたという事例は確かにある。混乱する頭でさらに調査を進め、僕はもう一つの衝撃的な事実に突き当たる。「澱の消滅事例に関する心理学的考察」という古い論文。そこには、こう記されていた。

『澱は、物理的な洗浄によって消滅するのではない。澱を生じさせた嘘が、その対象者から「許し」を得た時に、自然消滅する』

つまり、この街のシステムそのものが、巨大な嘘だったのだ。市は、本来なら人と人との関係性の中で解消されるべき澱を、高価な液体でしか洗い流せないと市民に信じ込ませ、支配していた。

その時、背後から声がした。

「何をしている、真鍋くん」

黒木さんだった。彼の顔にはいつもの柔和な笑みはなく、氷のように冷たい表情が張り付いていた。

「見てしまったか。知りすぎたな」

「黒木さん……あなたも、知っていたんですか!?」

「当たり前だろう。システムを管理する側の人間だからな」

彼は平然と言ってのけた。僕は信じられない思いで彼を見つめた。

「じゃあ、あなたのその綺麗な体は……」

「金だよ」黒木さんは嘲るように笑った。「俺は嘘をつく。出世のため、保身のため、いくらでもな。だが、その嘘で不利益を被った相手に、十分な金を渡して『許し』てもらう。浄化液を買うより、よほど効率的だ。それがこの社会の本当のルールだよ、真鍋くん」

彼の言葉は、僕の世界を完全に破壊した。憧れだった上司は、ただの狡猾な詐欺師だった。僕が信じていた正義は、巨大な欺瞞の土台に過ぎなかった。

絶望の中でふと、自分の胸に手を当てる。そこには、確かに存在していた。小さく、しかし確かな黒い染みが。僕が初めてついた嘘。調査のための嘘。だが、それだけではない。もっと根源的な嘘。山下老婆の訴えを、真実を見ようとせずに「嘘」だと断定した、僕の傲慢さ。少女の涙から目を逸らした、僕の怠慢。それらが、僕自身の澱となっていたのだ。

僕は、自分が唾棄していた澱の住人と、何ら変わらない存在だった。その事実に気づいた瞬間、体の芯から力が抜けていくのを感じた。

第四章 許しの陽光

翌日、僕は市役所に辞表を提出した。黒木さんは何も言わず、ただ軽蔑の目で僕を見ていた。もうどうでもよかった。僕が戦うべき相手は、この巨大なシステムではない。僕自身の、嘘だ。

僕は、山下老婆が住むという古いアパートを探し当てた。ドアを開けてくれたのは、あの孫娘だった。僕の顔を見ると、一瞬怯えたような表情を浮かべた。

「おばあちゃんに、会わせてください。謝りたいんです」

部屋の奥、万年床に老婆は横たわっていた。背中の澱が、まるで彼女をベッドに縫い付けているかのようだ。僕はその枕元に正座し、深く、深く頭を下げた。

「申し訳ありませんでした」

言葉が、喉から絞り出された。

「僕は、あなたの真実を見ようとしませんでした。ルールという名の壁の後ろに隠れて、あなたの苦しみから目を背けていました。僕の無知と傲慢さが、あなたをさらに苦しめた。僕の嘘を……どうか、許してください」

沈黙が流れた。部屋に差し込む西日が、埃をキラキラと照らしている。やがて、老婆の皺だらけの手が、ゆっくりと僕の頭に置かれた。

「……あんたも、苦しかったんじゃな」

掠れた、しかし温かい声だった。

「わかって、くれたんか。それだけで、十分じゃよ」

その瞬間、不思議なことが起きた。僕の胸を苛んでいた、あのチリリとした熱と黒い染みが、ふっと陽光に溶けるように消え去ったのだ。体が、心が、信じられないほど軽くなる。これが、本当の「浄化」。

顔を上げると、老婆の背中にあった巨大な澱もまた、少しだけ小さく、色が薄くなっているように見えた。僕の許しだけでは、彼女の澱のすべてを消すことはできない。だが、僕の一言が、確かに彼女の重荷を、ほんの少しだけ軽くしたのだ。

僕はアパートを出た。夕暮れの街には、相変わらず重い澱を背負った人々が行き交っている。彼らはまだ知らない。本当の浄化の方法を。高価な偽りの水ではなく、人と人との間に交わされる、たった一言の「許し」がもたらす奇跡を。

この巨大な嘘に満ちた街で、僕にできることは小さいかもしれない。だが、無力ではない。僕はまず、あの少女の父親に会いに行こうと思った。老婆がついた嘘の相手に、真実を話し、許しを乞う手伝いをするために。

僕の戦いは、英雄の物語ではない。システムを革命する大それたものでもない。ただ、澱を背負う一人の人間の隣に立ち、その声に耳を傾け、許しという名の光を探す旅。

空を見上げる。澱んだ街の空にも、確かな夕日の光が射していた。その光の暖かさを、僕はもう知っている。軽くなった体で、僕は未来へ向かって、新しい一歩を踏み出した。

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