残響の彩(いろ)

残響の彩(いろ)

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第一章 墨色の依頼

神田の裏路地に、弦音(げんね)の仕事場はあった。桐を削る甘い香りと、膠(にかわ)を煮る独特の匂いが混じり合うその空間は、彼にとって世界のすべてだった。弦音は三味線職人。彼の手から生み出される三味線は、どんな名人の手によるものよりも深く、豊かな音を奏でると評判だった。だが、その秘密を誰も知らない。弦音の世界では、音は色を帯びていた。

赤子の泣き声は痛々しいほどの深紅。小川のせせらぎは柔らかな若草色。そして、彼が丹精込めて作り上げた三味線の胴から放たれる音色は、澄み切った秋空のような瑠璃色に輝く。彼は、この生まれつきの奇妙な感覚を誰にも明かさず、ただひたすらに完璧な「色」を持つ音を求め、木と向き合う日々を送っていた。

ある霧雨の降る日の午後、その静寂は破られた。黒塗りの駕籠が、ぬかるむ路地の入り口に止まり、物々しい鎧武者を引き連れた家老風の男が、弦音の仕事場の前に立ったのだ。

「三味線職人の弦音殿でおられるか。我が主、松平蒼巌(そうがん)公がお呼びである」

松平蒼巌。その名を聞いた瞬間、弦音の指先から血の気が引いた。鑿(のみ)を握る手に、じっとりと汗が滲む。蒼巌は、かつて弦音の父が仕えた藩の家老であり、些細な讒言(ざんげん)を信じて父を断罪し、家を取り潰した張本人だった。武士の身分を剥奪され、路頭に迷った末に、母から教わった三味線作りの技だけを頼りに生きてきた。復讐など考えたこともない。ただ、忘れることもできなかった。

弦音は表情を殺し、男を仕事場に招き入れた。男が語る依頼は、奇妙奇天烈なものだった。

「実は、蒼巌様の御息女、白雪(しらゆき)姫が、心を病んでおられる。半年前から一切言葉を発さず、笑うことも泣くこともなく、ただ座敷に座っておられるだけ。いかなる名医も匙を投げた。そこで噂に聞きし弦音殿の三味線だ。その天上の音色で、姫の心を癒してはくれまいか」

男の言葉は、ねっとりとした油のような質感を持ち、弦音の目には淀んだ墨色に見えた。それは偽りと欺瞞の色だった。

癒す? あの男の娘を? 冗談ではない。断ろうとした弦音の脳裏に、今は亡き父の横顔が浮かんだ。無念のまま死んでいった父の魂は、どんな色をしていたのだろう。

「……面白い。そのお役目、引き受けましょう」

気づけば、弦音は承諾していた。復讐心からではない。職人としての、そして音に色を見る者としての、抗いがたい好奇心が、彼の心を突き動かしたのだ。心を閉ざした人間の魂は、一体どんな「色」の音を立てているのか。そして、その墨色の依頼の奥に隠された真実の色を、この目で見てみたかった。

第二章 物言わぬ姫と淀む音

松平家の屋敷は、弦音がかつて暮らした武家屋敷とは比べ物にならないほど広大で、冷たい静寂に支配されていた。案内された奥座敷は、陽光さえもためらうかのように薄暗い。その中央に、白雪姫は座っていた。人形のように整った顔立ちは、しかし何の感情も映さず、まるで精巧な硝子細工のようだった。彼女の周りの空気は、音が死んでいた。虫の声も、風の音も、まるで分厚い壁に吸い込まれるかのように消え失せている。

弦音は持参した最上の三味線を構えた。故郷の春を思い起こさせる、明るく軽やかな「山吹色」の曲を奏でる。撥(ばち)が糸を弾くたび、きらびやかな色の粒子が空間に舞う。だが、姫の瞳は虚空を見つめたまま、微動だにしない。次に、夏の夕立のような激しい「緋色」の旋律を、そして冬の夜の静けさを思わせる深い「藍色」の音を奏でた。それでも、姫の世界は変わらなかった。

弦音は演奏をやめ、目を閉じた。自身の聴覚を極限まで研ぎ澄ます。すると、わかった。姫は音を拒絶しているのではない。彼女自身の内側から発せられる、あまりにも強大な「音」が、外からのすべての音をかき消しているのだ。

それは、どんな色だ?

弦音は意識を集中させた。姫の魂の奥深く、その中心から漏れ出してくる微かな響き。それは、まるで古井戸の底に溜まった泥水のような、濁りきった暗い色をしていた。恐怖、絶望、そして深い悲しみが凝縮された、名付けようのない「澱(おり)の色」。それは、生きている人間の発する音ではなかった。

数日間、弦音は屋敷に通い続けた。昼間は姫の前で三味線を弾き、夜は仕事場に戻って木を削る。姫の心の澱を浄化するには、並大抵の音では駄目だ。この世のいかなる穢れも洗い流すほどの、純粋で、一点の曇りもない「光の色」を持つ音が必要だった。

彼は、父の遺品の中から、一本の古い木材を取り出した。それは、雷に打たれ、山神の怒りを宿すと言い伝えられる神代欅(じんだいけやき)。父は生前、「この木で三味線を作ってはならぬ。人の心を写しすぎて、弾き手も聴き手も正気ではいられなくなる」と戒めていた。

だが、弦音に迷いはなかった。正気でいられなくなるほどの音でなければ、あの魂の澱を揺り動かすことはできない。彼は鑿を握り、禁忌の木に、自らの魂を刻み込むように彫り始めた。彼の目には、来るべき演奏で生まれるであろう、まだ見ぬ至高の光の色が見えていた。

第三章 瑠璃色の鎮魂歌

数日後、一本の三味線が完成した。神代欅の胴は、磨き上げると黒檀のように深い光沢を放ち、まるで夜の湖面を思わせた。弦音はそれを抱え、最後の覚悟で松平家の屋敷へと向かった。

奥座敷には、蒼巌公も同席していた。娘を案じる父親の顔をしているが、その言葉の端々から漏れる音は、やはりあの淀んだ墨色をしていた。

「弦音殿、これが最後の試みとなろう。これで姫の心が開かれねば、諦めるほかない」

弦音は頷き、白雪姫の正面に座った。そして、ゆっくりと神代欅の三味線を構える。目を閉じると、姫の心の奥から、あの澱んだ色の音が、これまで以上に強く響いてくるのが分かった。

弦音は、息を吸い込んだ。そして、第一音を弾いた。

その瞬間、世界が変わった。

三味線から放たれた音は、色ではなかった。それは純粋な「光」だった。光は弦音の体を突き抜け、彼の意識を姫の魂の奥深くへと引きずり込んだ。彼は見た。いや、聞いたのだ。姫が封じ込めた記憶のすべてを。

半年前の嵐の夜。幼い姫は、眠れずに庭を彷徨っていた。その時、離れの座敷から、父である蒼巌と数人の家臣たちの声が聞こえてきた。壁に空いた節穴から中を覗くと、そこでは世にもおぞましい光景が繰り広げられていた。蒼巌が、政敵であると同時に、弦音の父の数少ない友人であった武士とその家族を、無実の罪を着せて惨殺していたのだ。血の匂い。肉を断つ生々しい音。助けを乞う悲鳴。それらすべてが混じり合い、幼い姫の心に、決して消えない「濁った墨色の絶望」として刻み込まれた。

姫は心を病んだのではない。あまりの恐怖に、自ら記憶と感情に蓋をし、言葉を捨てて、魂の牢獄に閉じこもったのだ。

そして弦音は、蒼巌の本当の狙いを悟った。彼が弦音を呼んだのは、娘を癒すためではない。美しい音色という名の忘却の薬で、自らの罪の唯一の証人である娘の記憶を「上書き」し、永遠に封じ込めるためだったのだ。癒し手として招かれたはずの自分は、危うく犯罪の共犯者にされるところだった。

弦音の意識が、現実の座敷へと戻る。目の前には、相変わらず無表情の姫と、満足げに演奏を聴く蒼巌の姿があった。

怒りが、緋色の炎となって弦音の全身を駆け巡った。だが、彼はその炎を、撥を握る指先に込めなかった。代わりに、姫の魂に響いていた、あの惨劇の夜の悲鳴を、殺された者たちの無念の声を、自らの音に乗せた。

曲調が変わる。それはもはや癒しの旋律ではなかった。告発の調べであり、鎮魂の歌だった。一音一音が、殺された者たちの血の涙となり、空間を濃い赤紫色に染めていく。

蒼巌の顔から笑みが消え、みるみるうちに蒼白になっていく。彼の耳には、美しい三味線の音ではなく、あの夜の断末魔の叫びが蘇っているのだ。

弦音は、最後にすべての感情を振り絞り、一音を奏でた。

それは、怒りでも悲しみでもない、すべてを赦し、すべてを包み込むような、どこまでも澄み切った「瑠璃色」の音だった。殺された魂への弔いと、生き残ってしまった少女の魂への祈りを込めた、鎮魂の光。

その音が静かに消えゆく中、奇跡が起きた。

ずっと人形のようだった白雪姫の瞳から、一筋の涙が静かに流れ落ちたのだ。そして、か細く、掠れた声で、半年ぶりに言葉を発した。

「……さむい」

弦音は静かに三味線を置くと、立ち上がった。蒼巌は恐怖と驚愕に顔を歪め、腰を抜かしたように座り込んでいる。弦音は彼を一瞥(いちべつ)すると、何も言わずにその場を去った。

屋敷を出た時、降り続いていた霧雨は上がり、西の空が茜色に染まっていた。復讐は終わったのか。いや、これは復讐ではなかった。彼はただ、一つの魂に寄り添い、その淀んだ音の色を、本来の澄んだ色に戻す手伝いをしたに過ぎない。

彼の持つこの奇妙な力は、呪いではなかったのかもしれない。それは、言葉にならない魂の叫びを聴き、その音を調律するための天命なのだ。

弦音は、神田の裏路地へと続く道を、迷いのない足取りで歩き始めた。世界は、無数の音の色で満ちている。美しい色も、醜い色も。そのすべてが織りなす、壮大な交響曲を聴きながら、彼はこれからも生きていく。ただの三味線職人としてではなく、魂の音を聴く者として。彼の背中には、夕陽が投げかけた長い影が、まるで新たな道を指し示すかのように伸びていた。

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