第一章 真っ白な依頼
俺の仕事は、死者の囁きに耳を傾けることだ。もっと正確に言えば、物に染み付いた記憶の残響を映像として掬い上げ、遺された者たちに見せる。人は俺を「記憶投影技師」と呼ぶが、やっていることはハイテクな遺品整理とさほど変わらない。故人の部屋に漂う空気、指紋の染みたカップ、読みかけの本。あらゆる物には、持ち主の強い感情や記憶がエーテルのように纏わりついている。俺の使う「エコー・チェンバー」は、その微弱な精神的残留物を拾い上げ、スクリーンに再構成する装置だ。
依頼人が流す涙を、俺はいつも乾いた心で眺めている。彼らが映像の中に今は亡き家族の笑顔を見出し、嗚咽する姿を見ても、俺の心拍数は一拍たりとも乱れない。感動、悲哀、郷愁。そういった感情のスペクトルは、俺の世界から色褪せて久しい。かつて、俺にも鮮やかな感情があった。だが、ある出来事を境に、俺の心は色覚を失ったモノクロームのフィルムのようになった。美しい夕焼けはオレンジ色のグラデーションではなく、単なる「高層ビル群の背後で起こるレイリー散乱」。赤子の泣き声は「生存本能に基づく空気の振動」。すべては現象であり、事実だ。それ以上でも、それ以下でもない。
だから、今回の依頼も、いつものように淡々とこなすだけの作業になるはずだった。
「このキャンバスに、夫の最後の想いが残っているはずなんです」
そう言って、老婆――名を千代さんと云った――が差し出したのは、一枚の、真っ白なキャンバスだった。画材店で売られている新品と何ら変わらない。絵の具の染み一つ、木炭の粉末一粒すら付着していない。完全な「無」だ。
俺は眉をひそめた。「奥様。記憶というものは、強い感情や行為が刻まれた物に宿りやすい。例えば、長年愛用した万年筆や、何度も読み返した手紙……。しかし、このキャンバスには、何も行われた形跡がありません。ここから記憶を抽出するのは、ほぼ不可能です」
俺の無機質な説明にも、千代さんは静かに首を横に振った。皺の刻まれたその目元は、不思議な確信に満ちていた。「いいえ、あの方は最期の日、アトリエでずっとこのキャンバスに向かっていました。何かを、必死に描き込もうとしていたんです。私には、そう見えました」
亡くなった夫、壮介氏は画家だったという。ならば、なぜキャンバスは白いままなのか。下塗りのジェッソすら塗られていない、ただの亜麻布。前代未聞の依頼だった。普通なら丁重に断るところだ。だが、千代さんの揺るぎない眼差しが、俺の灰色の日常に微かな波紋を立てた。非論理的だと分かっていながら、俺は頷いてしまった。
「……分かりました。お預かりします。ただし、何も映し出せない可能性が高いことは、ご承知おきください」
千代さんは深々と頭を下げ、「ありがとうございます」と、鈴が鳴るような、それでいて芯のある声で言った。その声が、ほんの少しだけ耳に残った。
第二章 灰色の追憶
俺のアトリエ兼ラボは、街の喧騒から切り離された古いビルの最上階にある。中央に鎮座するドーム型の装置が「エコー・チェンバー」だ。その内部に、千代さんから預かった真っ白なキャンバスを設置する。ヘッドセットを装着し、俺は意識を装置と同期させた。網膜にシステムUIが浮かび上がり、俺はキャンバスに残された残留思念のスキャンを開始した。
案の定、最初は激しいノイズしか拾えなかった。意味をなさない光の明滅と、ホワイトノイズ。まるで、何も受信できないテレビの砂嵐のようだ。やはり無理だったか。諦めかけた俺の思考を、千代さんの「必死に描き込もうとしていた」という言葉がよぎる。
俺は感度を限界まで引き上げた。装置が悲鳴のような警告音を発する。脳に直接負荷がかかり、鈍い頭痛が走る。だが、その瞬間、ノイズの向こうに、何かのイメージが揺らめいた。
――古いアトリエの匂い。テレピン油と乾いた絵の具が混じった、独特の香り。窓から差し込む午後の陽光が、床に長い影を落としている。イーゼルに立てかけられた、一枚のキャンバス。
しかし、その映像はどこか奇妙だった。すべてが色を失っている。モノクロームの映画のように、光と影だけで構成された世界。壮介氏の若い頃の作品は、写真で見た限り、燃えるような色彩に満ちていたはずだ。それなのに、晩年の記憶がなぜ、これほどまでに色を失っているのか。
俺は壮介氏の他の遺品――使い込まれた絵筆や、絵の具が化石のようにこびりついたパレット――からも記憶を投影してみた。浮かび上がるのは、やはりモノクロの風景ばかりだった。楽しげに笑う妻・千代さんの姿も、食卓に並ぶ色とりどりの料理も、すべてが灰色に沈んでいる。
まるで、今の俺の世界を見ているようだった。
壮介氏もまた、何らかの理由で世界の色彩を認識できなくなっていたのではないか。その仮説は、俺の中で奇妙な共感を呼び起こした。俺は初めて、依頼対象の故人に個人的な興味を抱いていた。ただの事実の羅列だったはずの他人の記憶が、俺自身の内面と静かに共鳴し始めたのだ。この灰色の世界の果てに、壮代氏が見ていたものは何だったのか。そして、なぜキャンバスは白いままだったのか。謎は深まるばかりだった。
第三章 見えない絵の具
調査は数日に及んだ。俺は壮介氏の記憶の断片をパズルのように繋ぎ合わせ、彼の晩年の日々を追体験していった。そしてついに、真っ白なキャンバスに残された記憶の核心へと辿り着いた。
エコー・チェンバーが映し出したのは、あのアトリエだった。壮介氏は、イーゼルの前に置かれた椅子に深く腰掛けている。彼の背中はひどく小さく見えた。彼はゆっくりと手を伸ばし、キャンバスに触れる。しかし、その手には絵筆も、パレットも握られていなかった。
彼は、指で、何かを描こうとしていた。いや、なぞっている、という方が正確か。一本の指が、亜麻布の上を滑っていく。ゆっくりと、確かめるように。その動きには、切実な何かが込められていた。
なぜ、指で? 絵の具も使わずに?
その時、俺は映像の中のある一点に釘付けになった。壮介氏の顔。彼はキャンバスを見ていなかった。いや、見ることができていなかったのだ。彼の目は、どこか虚空を見つめているように開かれているが、その瞳には全く光が宿っていなかった。
――壮介氏は、目が見えなくなっていたのだ。
衝撃が脳を揺さぶった。色が見えないどころの話ではない。彼は光そのものを失っていた。俺がこれまで見てきたモノクロームの記憶は、色彩を失った心の風景などではなかった。それは、視力を失った彼が、記憶と他の感覚を頼りに再構築した、ありのままの世界の姿だったのだ。
俺は装置の解析モードを切り替えた。視覚情報ではなく、触覚データをスキャンするモードへ。キャンバスの表面に残された、ナノメートル単位の微細な凹凸を読み取る。それは、壮介氏の指が何度もなぞったことで生じた、布地の僅かな歪みと圧力の痕跡だった。
モニターに、無数の点が浮かび上がった。最初は意味のないパターンに見えた。だが、それを解析ソフトにかけると、ある規則性が見えてきた。六つの点の組み合わせ。
点字だ。
全身に鳥肌が立った。壮介氏は、絵を描いていたのではなかった。彼は、見えない目で、触覚だけを頼りに、キャンバスにメッセージを刻んでいたのだ。最後の力を振り絞って。
俺は震える指で、解読されたテキストファイルを開いた。そこに表示されたのは、短い、しかし、あまりにも温かい言葉だった。
『ちよへ。きみの こえが、ぼくの さいごの いろ だった。ありがとう。』
壮介氏は、世界のすべての色を失った。光さえも。彼の世界は完全な闇に閉ざされたはずだ。しかし、彼は絶望していなかった。妻・千代さんの声。その響き、抑揚、温かさ。それを、彼は一つの「色」として感じていた。彼にとって、この真っ白なキャンバスは、虚無や絶望の象徴ではなかった。それは、妻の声という、彼が感じることのできる唯一にして最高の色彩で満たされた、愛と感謝のキャンバスだったのだ。
第四章 心に灯る色
俺は、解読したメッセージをプリントアウトし、千代さんの家を訪ねた。彼女はいつものように、静かな佇まいで俺を迎えた。
「何か、分かりましたか」
俺は言葉を探しながら、ゆっくりと口を開いた。「壮介さんは、絵を描いていたのではありませんでした。メッセージを、残されていました」
俺が読み上げた点字の言葉を、千代さんは瞬きもせず聞いていた。そして、すべてを聞き終えると、その深い皺の刻まれた目から、大粒の涙が静かにこぼれ落ちた。それは嗚咽ではなく、まるで長い間堰き止められていた泉の水が、ようやく湧き出したかのような、穏やかな涙だった。
彼女は濡れた頬のまま、ふわりと微笑んだ。
「そう……。あたたかい、色ねぇ……」
その言葉が、その涙が、その微笑が、俺の胸に突き刺さった。
ドクン、と心臓が大きく脈打った。それは痛みではなかった。悲しみでもない。熱い、鮮やかな奔流が、凍てついていた俺の心の回路を焼き切るような感覚。忘れていた、忘れることさえ忘れていた、あの感覚。
――感動。
俺の灰色の視界の片隅に、ぽつりと、小さな光が灯った。温かい、橙色の光。それは千代さんの感謝の念が放つオーラなのか、それとも、壮介氏の愛が時を超えて俺にまで届いた残響なのか。判別はつかなかった。ただ、それは紛れもなく「色」だった。
千代さんに深々と頭を下げ、俺は彼女の家を辞した。見上げた空には、夕日が沈もうとしていた。いつもなら「大気による光の散乱現象」としか認識しなかったであろうその光景が、その日に限っては、胸を締め付けるほど美しい、燃えるような茜色に見えた。
俺の世界が、すべて色鮮やかに戻ったわけではない。心はまだ、大部分が硬直したままだ。だが、確かに、一つの色が戻ってきた。壮介氏が最期に見つけた「声」という色とは違う、俺自身の色が。
俺はしばらくの間、その場に立ち尽くし、空が群青色に沈んでいくのをただ眺めていた。頬を撫でる風が、どこか優しい。失われたものを取り戻す旅は、まだ始まったばかりなのかもしれない。それでも、確かな一歩を、俺は今日、踏み出したのだ。真っ白なキャンバスが教えてくれた、見えない絵の具の存在によって。