メモリアの天秤

メモリアの天秤

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第一章 色褪せた風景と記憶晶

私立天穹学園では、誰もがお金を持ち歩かない。僕たちの通貨は「思い出」だ。

首から下げた学生証に埋め込まれた透明なプレート、通称「記憶晶(きおくしょう)」。これに指を触れて念じると、自らの記憶を「メモリア」というポイントに変換できる。学食のランチも、購買部のノートも、すべてはこのメモリアで支払われる。

昼休み、喧騒に満ちたカフェテリアで、僕は記憶晶に指を置いた。脳裏に浮かべるのは、昨日の古典の授業の風景。退屈な教授の声、窓の外を流れる雲、チョークの乾いた匂い。感情の振れ幅が少ない、ありふれた記憶。ディスプレイに『3メモリア』と表示される。僕はそのわずかなポイントで、棚に並んだ一番安いクリームパンを一つ買った。

これが僕、水瀬湊の日常だ。感情の波を立てず、心を揺さぶるような出来事を避け、価値の低い思い出だけを生産しては消費する。なぜなら、ここでは強い感情を伴う記憶ほど高価だからだ。「初めて自転車に乗れた日の高揚感」は数百メモリア、「親友と夜通し語り明かした文化祭前夜の興奮」なら数千にもなる。そして、一度支払ってしまえば、その思い出は脳から綺麗に消え去る。まるで、そんな出来事は初めからなかったかのように。

だから僕は、大切な思い出を作らない。失うのが怖いからだ。空っぽの心で、色褪せた風景の中を歩く。それが僕にとっての唯一の処世術だった。

そんな僕のモノクロームの世界に、ある日、極彩色のインクが一滴、落とされた。

「うわあ、すごい! この特製オムライス、すっごく美味しそう!」

声のした方へ視線を向けると、一人の女子生徒が目を輝かせていた。今日からクラスにやってきた転校生、朝比奈陽葵。彼女はトレーの上で湯気を立てる、一日限定二十食の特製オムライスを前に、満面の笑みを浮かべている。値段は確か、1500メモリア。僕が一ヶ月かけて貯めるような額だ。

レジ係の生徒が彼女に尋ねる。

「お支払いいただく思い出をどうぞ」

「はい! えっと、これで!」

陽葵は記憶晶に指を触れ、嬉しそうに目を閉じた。彼女の口元が、何かを思い出すように綻ぶ。

「昨日、学校に来る途中の公園で、四つ葉のクローバーを見つけたの。すっごく嬉しかった!」

その瞬間、レジの端末が甲高い音を立てた。『1800メモリア』。カフェテリアがどよめく。たかが四つ葉のクローバーで、そんな高価値がつくのか。彼女の「喜び」の純度が、それだけ高かったということだ。

「お釣りです」と返された300メモリアを受け取り、彼女は僕の隣の席に座った。

「こんにちは! あなた、水瀬くんだよね? よろしくね」

太陽みたいな笑顔だった。僕の影をすべて消し去ってしまいそうな、眩しい笑顔。僕は曖昧に頷き、クリームパンの袋を破った。

「君は、思い出を失うのが怖くないのか」

思わず、心の声が漏れた。

彼女はきょとんとした顔で僕を見ると、スプーンでオムライスを一口運び、幸せそうに頬を緩ませてから言った。

「怖くないよ。だって、思い出は、また新しいのを作ればいいんだもん。空っぽになった分、もっと素敵なことでいっぱいにできるじゃない?」

その言葉は、僕がずっと目を背けてきた真理のように聞こえた。同時に、あまりにも無防備で、危うい生き方だとも思った。この学園でそんな生き方を続ければ、いつか本当に大切なものまで、あっけなく手放すことになるだろうに。

第二章 万華鏡の少女

陽葵は、僕という存在を面白がっているようだった。僕がどれだけ壁を作っても、彼女はひらりとそれを飛び越えてくる。

「水瀬くん、放課後、図書室に行かない? 面白い本を見つけたんだ」

「……僕はやることがある」

「じゃあ、屋上は? ここから見える夕日、きっとすごい価値の思い出になるよ!」

断っても、彼女は諦めなかった。まるで、僕の灰色の世界に色を塗ろうとするかのように、毎日、毎日、新しい提案をしてきた。根負けした僕が一度だけ付き合って図書室へ行くと、彼女は古い植物図鑑を広げ、そこに描かれた見たこともない花の絵を指差しては、子供のようにはしゃいだ。その横顔を見ていると、僕の心臓が奇妙な音を立てた。これは、危険な兆候だ。この感情が「思い出」になれば、それはきっと安くない価値を持つ。

僕は必死に心を閉ざした。彼女の言葉に耳を傾けながらも、その内容を記憶に留めないように努めた。彼女の笑顔を視界に入れながらも、その輝きを心に刻まないようにした。僕の記憶晶は、相変わらず「退屈」や「眠気」といった低級なメモリアしか生み出さなかった。

そんな日々の中で、僕は彼女の異変に気づき始めていた。時折、彼女はふっと顔を青ざめさせ、胸元を強く押さえることがあった。息が苦しそうで、額には脂汗が滲む。

「大丈夫か?」

声をかけると、彼女は数秒後に何事もなかったかのように笑う。

「へ、平気だよ! ちょっと考え事してただけ!」

その笑顔が、あまりにも痛々しかった。

やがて学園では、彼女に関する噂が囁かれるようになった。なぜ彼女は、あんなにも必死に新しい思い出を作ろうとするのか。なぜ彼女は、毎日あれほど多くのメモリアを必要とするのか。

「聞いた? 朝比奈さん、学園の奥にある特別医療棟に通ってるらしいよ」

「あそこって、最先端の治療を受けられるけど、とんでもないメモリアが必要なはずじゃ……」

クラスメイトたちのひそひそ話が、僕の耳を不快に撫でた。

ある雨の日、僕は傘もなく立ち尽くす陽葵を見つけた。彼女はまた胸を押さえ、苦しそうに壁に寄りかかっていた。

「朝比奈!」

駆け寄ると、彼女は弱々しく僕を見上げた。

「み、なせ……くん……」

その手は氷のように冷たかった。僕は自分の記憶晶を握りしめた。今、この瞬間の「焦燥」や「心配」は、きっと高いメモリアになるだろう。だが、そんなことはどうでもよかった。僕は自分のブレザーを彼女の肩にかけ、保健室へと背負って走った。雨が僕の顔を打ち、彼女のか細い呼吸が首筋にかかる。この記憶を、僕は絶対に支払いたくない、と強く思った。

第三章 代償の天秤

陽葵は、そのまま学園の特別医療棟にある集中治療室へ運ばれた。僕が彼女のクラスメイトとして保護者代理のような形で呼ばれた先で、白衣を着た初老の医師から告げられた事実は、僕の世界を根底から覆した。

「朝比奈さんは、生まれつき重い心臓の病を抱えています。この学園の医療ポッドによる定期的な延命治療だけが、彼女が生きる唯一の道です」

医師は淡々と、しかし同情的な目で僕を見つめた。

「そして、その治療には、一週間ごとに10万メモリアという、莫大なコストがかかります」

10万メモリア。それは、普通の生徒が三年間で経験するすべての喜怒哀楽を捧げても、到底届かない数字だ。彼女が毎日、必死に世界を輝かせ、どんな些細なことからも「喜び」や「感動」を搾り取っていたのは、生きるためだったのだ。彼女の万華鏡のような日々は、死の淵で踊る、あまりにも切実なダンスだった。

「ですが……」医師は言葉を続けた。「今回の発作で消耗が激しく、次の治療に必要なメモリアが、わずかに足りません。彼女が貯めていたメモリアは、もう底をついています」

頭を殴られたような衝撃だった。じゃあ、彼女は?

「このままでは……残念ながら」

絶望が、冷たい霧のように僕の心を覆った。そんな時、医師は僕の首から下がる記憶晶に目を留め、カルテと照らし合わせながら言った。

「君は、水瀬湊くん、だね。……記録によると、君は入学以来、ほとんど高価値のメモリアを支払ったことがない。君の中には、まだ手付かずの、極めて価値の高い記憶が眠っているはずだ」

彼の視線が僕を射抜く。

「もし、君が持つ最も価値のある思い出を彼女のために支払ってくれるなら……おそらく、彼女は助かる」

僕が、守り続けてきたもの。

それは、たった一つだけ、僕の世界で唯一彩りを持つ、宝物のような記憶。

幼い頃、病室で亡くなる直前の母と過ごした、最後の一日。

母が僕のために読んでくれた絵本。か細い指で僕の髪を撫でてくれた感触。最後に交わした「大好きよ」という言葉の温もり。その声、その笑顔、その匂い。僕という人間を形成する、すべての核となる思い出。

これを手放せば、僕は母を完全に失う。顔も、声も、愛されたという事実さえも、実感として思い出せなくなる。空っぽの僕に残された、たった一つの光。

天秤の片方には、陽葵の命。

もう片方には、僕のすべて。

どちらかを選べと、世界は残酷に告げていた。僕は、唇を噛みしめることしかできなかった。

第四章 空っぽの僕に、君がいた

廊下のベンチに座り、僕はどれくらいの時間、虚空を見つめていただろう。窓の外は、もう茜色に染まっていた。

陽葵の笑顔が脳裏に浮かぶ。図書室ではしゃぐ姿、屋上で夕日を語る横顔、そして雨の中で苦しげに僕を見上げた、あの頼りない瞳。彼女と過ごした日々は、僕が必死に価値を認めないようにしてきた、名前のない思い出たちだ。しかし、それらは確かに僕の中で息づき、僕の灰色の世界に、淡い光を灯してくれていた。

母の思い出は、過去だ。僕を生かしてくれた、大切な過去。

でも、陽葵は、未来だ。これから笑い、泣き、生きていくはずの未来。

過去の温もりにすがりついて、目の前の未来を見殺しにしていいのか? 思い出とは、金庫にしまい込んで一人で眺めるためのものなのか? それとも、誰かの明日を繋ぐために、手渡すためのものなのか?

答えは、もう出ていた。

僕は立ち上がり、迷いのない足取りで、再び医師の元へと向かった。

「お願いします。僕の思い出で、彼女を助けてください」

治療室の端末に記憶晶を接続する。目を閉じると、鮮やかにあの日の光景が蘇る。母の笑顔、優しい声、温かい手。ありがとう、母さん。さようなら、母さん。

『思い出の転送を開始します』

無機質な音声とともに、僕の頭の中から、何かが決定的に引き剥がされていく感覚がした。陽炎のように、大切な記憶が揺らめき、輪郭を失い、そして、消えた。

目を開けた時、僕の心はがらんどうの空洞になっていた。悲しい、という感情さえ湧いてこない。ただ、ひどく静かだった。しかし、その静寂の底に、誰かを守れたという、不思議な安堵感が小さく灯っていた。

数日後、治療を終えた陽葵が、僕の前に現れた。少し痩せたけれど、その瞳には以前と同じ、強い光が宿っていた。

「水瀬くん。……先生から、全部聞いたよ」

彼女はそう言うと、深く、深く頭を下げた。

「ごめんなさい。私のせいで、君の大切なものを……」

「いいんだ」

僕は静かに首を振った。本当に、そう思っていた。

「もう、僕には何も思い出せない。君が奪ったわけじゃない。僕が、そうしたかっただけだ」

母の顔を思い出そうとしても、もう靄がかかったように何も浮かばない。声も、温もりも。

でも、不思議だった。目の前で涙を浮かべる陽葵の顔を見ていると、空っぽのはずの胸が、じんわりと温かくなるのを感じた。

「僕の思い出は、もう空っぽだ」

僕は彼女に、精一杯の笑顔を向けた。

「だから、これから君と一緒に、新しい思い出でいっぱいにしてくれないか」

陽葵は驚いたように顔を上げ、その瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。そして、彼女は泣きながら、花が咲くように笑った。

「……うんっ!」

学園の窓から差し込む夕日が、僕たち二人を包んでいた。何も持たないはずの僕の隣には、確かな体温があった。失ったものの大きさは計り知れない。でも、得たものの価値は、もうメモリアなんかでは測れない。

これから始まる日々が、僕たちの本当の物語だ。空っぽの僕と、僕の思い出で未来を繋いだ君とで紡いでいく、誰にも奪われることのない、僕たちだけの物語。

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