第一章 琥珀色の「ありがとう」
僕、音無響(おとなし ひびき)の言葉は、形を持つ。
「響、そっちの資料、取ってくれる?」
図書室の古い木の床がきしむ音に混じって、友人の千歳(ちとせ)の声が響いた。彼女は昨日まで運動部のエースだったが、今朝の誕生日で「手先の器用さ」と「空間認識能力の欠如」が入れ替わり、今は山積みの本を相手に苦戦している。この『才能置換』が、僕たちの通う私立常葉(ときわ)学園の絶対的な法則だった。
「はい、どうぞ」
差し出した分厚い歴史書を受け取った千歳が、ほっとしたように息をつく。その安堵の表情に、僕の胸のうちに温かいものが灯った。
「ありがとう、響。本当に助かる」
その言葉が、引き金だった。胸の奥から湧き上がった純粋な感謝の感情が、喉を通って声になると同時に、僕の唇から光の粒が零れ落ちる。それは空中でくるくると踊り、やがて手のひらの上で、夕焼けを閉じ込めたような琥珀色の小さな結晶となった。結晶は生き物のように微かな熱を帯び、複雑な光を放っている。
「わあ、綺麗……。今日の結晶は、蜂蜜みたいな色だね」
千歳が無邪気に笑う。僕は曖昧に微笑み返しながら、結晶が生まれた瞬間に、頭の中にぽっかりと空いた小さな穴に気づいていた。千歳に何を感謝していたんだっけ。彼女が困っていたのは覚えている。でも、その理由が、まるで霞のかかった風景のように思い出せない。
言葉の結晶が輝きを増すほど、僕の記憶は薄片となって剥がれ落ちていく。そして結晶は、数分もすれば塵のように掻き消え、その時にはもう、関連する記憶の大部分が僕の中から失われているのだ。
第二章 模範生の影と万華鏡
学園には、法則の例外のような男がいた。
彼の名前は、各務要(かがみ かなめ)。
才能が毎年のように入れ替わるこの学園で、彼は常に成績トップを維持し続けていた。昨日まで数学の天才だった者が翌日には芸術家になり、言語の達人がスポーツ選手になる世界で、彼の「完璧さ」は異質だった。彼はどんな才能を与えられても、それを完璧に使いこなしてみせるのだ。
ある日の放課後、僕は大講堂にいた。誰もいない静寂の中、壁に掲げられた創設者の巨大な肖像画が、僕をじっと見下ろしている。その肖像画の胸元で、奇妙なものが鈍い光を放っていた。万華鏡のようなモザイク模様が刻まれた「学園章」。
ふと、その学園章の模様が、ゆらりと形を変えた。今朝、僕が落としたクラスメイトのペンを拾って「大丈夫?」と声をかけた時に生まれた、淡い水色の結晶。その結晶と寸分違わぬ色と形が、学園章の中に一瞬だけ映り込んでは、複雑なパターンの中に溶けて消えた。
ぞくり、と背筋が冷たくなる。
「それに見惚れる気持ちは、僕にもわかるよ」
振り返ると、いつの間にいたのか、各務要が立っていた。彼の表情はいつも通り凪いでいて、感情の色が見えない。
「君の言葉は、美しいからね。音無響くん」
彼は僕の名前を知っていた。僕たちはクラスも違う。彼は僕の能力を知っている? どこまで?
各務は僕の混乱を見透かしたように、肖像画に目をやった。
「消えゆくものは、美しい。だが、儚すぎると思わないか?」
意味深な言葉を残し、彼は音もなく去っていった。大講堂には、古びた木の匂いと、僕の胸をざわつかせる不穏な予感だけが残されていた。
第三章 欠けたパズル
記憶の欠落は、僕の日常を静かに侵食し始めていた。
「響、この前の約束、覚えてる?」
千歳にそう聞かれても、僕は首を傾げることしかできない。僕の返事に彼女が寂しそうな顔をするたび、胸が締め付けられるのに、その理由さえ思い出せないのだ。僕の頭の中は、まるで虫食いだらけの古い地図のようだった。大切な場所を示すはずの部分が、ごっそりと抜け落ちている。
この喪失の連鎖を断ち切りたい。僕は学園の古い記録を漁り始めた。創設者の理念、才能置換の法則が始まった経緯、そして僕自身の能力について。しかし、何も見つからない。まるで、誰かが意図的に情報を隠しているかのように。
疑念の矛先は、自然と各務要へと向かった。彼だけが、この流転する世界で「変わらない」存在だ。彼なら何か知っているはずだ。僕が失くした記憶のピースを、彼が持っているのではないか。そんな荒唐無稽な考えが、確信に変わっていくのを感じていた。
第四章 記憶図書館の扉
僕は、各務を学園の時計塔の屋上で待ち伏せた。夕日が彼の端正な横顔を赤く染めている。
「君は、何を知っているんだ」
僕の問いに、各務はゆっくりと振り返った。その瞳には、初めて見る明確な感情――憐れみのような色が浮かんでいた。
「知りたければ、ついてくるといい。君が失くした『物語』の在処を教えてあげよう」
彼に導かれてたどり着いたのは、学園の最上階、誰にも知られていない隠し部屋だった。扉を開けた瞬間、息を呑んだ。壁一面に作り付けられたガラスの棚に、無数の結晶が収められていたのだ。僕がこれまで生み出し、消えていったはずの、色とりどりの言葉の結晶たちが。琥珀色、水色、悲しみに濡れた深い藍色、怒りに燃えた真紅の結晶まで、全てがそこに在った。
「ここは、僕の図書館だ。そして君は、最高の司書だよ」
各務はうっとりと結晶を見つめながら言った。彼は、僕の結晶が消える瞬間に放出される微弱なエネルギー――彼が『記憶の残滓』と呼ぶものを特殊な装置で集め、再結晶化させていたのだ。
「この学園の法則は、凡人たちのための慰めにすぎない。才能に恵まれなかった者への、気まぐれな施しだ。僕はそれを終わらせる。この集めた記憶のエネルギーを使い、法則そのものに干渉する。そして、僕だけの永遠不変の才能を手に入れるんだ」
彼の計画の核心を聞いて、僕は愕然とした。
「そのために、触媒が必要でね。これだけの記憶を結晶化させた君自身が、最高の鍵となる」
各務の指が、部屋の中央に置かれた、創設者の肖像画と同じ学園章が埋め込まれた装置に触れる。僕の存在そのものが、彼の野望のための道具にされようとしていた。
第五章 最後のことば
僕の記憶が、彼の欲望のために。千歳や他の生徒たちが、法則の崩壊によって混乱し、苦しむ未来。それは、駄目だ。たとえ僕が多くのことを忘れてしまっても、心の奥底で覚えている温かい感情が、それを拒絶していた。
「やめろ……!」
僕の制止の声は、小さな灰色の結晶となって床に落ち、かき消された。
各務は嘲笑う。「その程度の感情では、何も止められないさ」
装置が起動し、図書館の結晶たちが一斉に共鳴を始める。耳障りな高周波が空間を震わせ、僕の頭を割るように痛みが走る。失われた記憶たちが、断片的に脳裏を駆け巡る。千歳の笑顔、喧嘩した後の苦い味、夕焼けの教室の匂い。忘れたくなかった、大切なものたち。
そうだ。僕は、忘れたくなかったんだ。
僕の奥底から、これまでにないほどの巨大な感情の奔流が湧き上がってきた。それは怒りでも悲しみでもない。失いかけた全てを取り戻したいと願う、魂の渇望そのものだった。
「僕は、忘れたくないんだ!君のことも、みんなとの時間も、この痛みさえも!」
絶叫と共に、僕の全身から光が溢れ出した。それは一つの巨大な結晶となり、部屋の全てを飲み込むほどの虹色の輝きを放つ。その瞬間、壁の肖像画の学園章が閃光を放ち、各務の図書館に満ちていた全ての結晶が、甲高い音を立てて砕け散った。
第六章 記憶のコア
砕けた無数の結晶は、光の粒子となって僕の身体に降り注いだ。まるで乾いた大地が雨を吸い込むように、失われた記憶の全てが僕の内側へと還ってくる。千歳との約束、他愛ない会話、名前も思い出せなかったクラスメイトの優しさ。パズルのピースが埋まっていく歓喜。
しかし、その感覚はすぐに変質した。僕自身の記憶だけではない。この学園が始まって以来、ここを通り過ぎていった全ての生徒たちの喜び、悲しみ、希望、絶望――膨大な記憶の濁流が、僕の意識を洗い流していく。
ああ、そうか。
僕は「音無響」という個ではなかった。
この学園は、才能への固執や嫉妬が生む衝突を避けるための、巨大な生態系調整システムだった。そして僕の能力は、そのシステムが円滑に機能するために、生徒たちの感情と記憶を記録し、定期的にアーカイブするための『記録装置』だったのだ。結晶の消滅は、記憶のサーバーへのアップロードだった。
目の前で、呆然と立ち尽くす各務の姿が見える。彼の才能への渇望もまた、この学園のシステムが生んだ一つの記録すべき記憶に過ぎない。
僕の身体の輪郭が、ゆっくりと光の中に溶けていく。個としての意識が希薄になっていく中で、僕は最後に残った力で、彼に微笑みかけた。それは許しでも、憐れみでもない。ただ、全てを受け入れたという、システムとしての静かな肯定だった。
僕の身体は完全に光の奔流となり、大講堂の肖像画に描かれた学園章の中へと吸い込まれていった。
翌日、常葉学園にはいつもと変わらない朝が訪れた。生徒たちの才能は新たに入れ替わり、教室には昨日とは違う喧騒が満ちている。誰も、音無響という生徒がいたことを覚えてはいない。
ただ、創設者の肖像画の胸に輝く学園章だけが、以前よりも遥かに深く、複雑な虹色の光を湛えていた。まるで、そこに宿った誰かの無数の記憶が、流転し続ける生徒たちの営みを、永遠に静かに見守っているかのように。