鏡面の深淵

鏡面の深淵

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第一章 影法師のワルツ

有馬湊の恐怖は、いつも決まった形をとった。それは、背の高い、関節が明後日の方向を向いた影の人型。湊が『影法師』と密かに呼ぶそれは、彼が幼い頃に見た火事の記憶――焼け落ちる家屋の歪んだ柱が、まるで苦悶する人のように見えた、あの夜の残像だった。

図書館の古書の匂いが満ちる静寂の中だけが、湊にとっての聖域だった。規則正しく並ぶ背表紙の壁は、現実の輪郭を確かなものにしてくれる。しかし、書架の隙間、閲覧室の片隅、帰り道の夕闇に、影法師は音もなく現れる。物理的な干渉は何一つしない。ただ、そこにいる。その存在が、湊の精神の表面をやすりのように削り、じりじりと蝕んでいくのだ。

近頃、街の空気が奇妙に重い。まるで、見えない雨に濡れた綿のように、湿った気配が肌に纏わりつく。人々は気づいていないようだったが、湊にはわかった。世界に漂う『残留思念の靄』が、日に日にその濃度を増している。それは溜息の澱であり、涙の蒸気であり、決して声にならなかった慟哭の欠片だった。

図書館の窓から見える交差点で、些細なことから男たちが掴み合いの喧嘩を始めていた。普段ならありえないような、剥き出しの敵意。靄が濃くなるにつれて、街は少しずつ、しかし確実に、寛容さを失っていく。湊はそっとカーテンを引き、その光景から目を逸らした。背後で、影法師の関節がぎしりと軋む音が、頭の中にだけ響いた。

第二章 無音の鈴

祖父の遺品は、埃を被った段ボール箱の中で静かに眠っていた。その中に、ぽつんと一つ、古びた真鍮製の鈴があった。手のひらに乗せると、ずしりと冷たい。振ってみても、カラリとも鳴らない。ただ、指先から骨の芯へと、蜂の羽音のような微かな振動が伝わってくるだけだった。

『無音の鈴』。

それを握りしめた瞬間、世界が変わった。これまで曖昧な気配としてしか感じられなかった『靄』が、明確な輪郭を持ったのだ。それは皮膚を撫でる冷たい指であり、鼓膜を圧迫する無音の叫びであり、鼻腔を刺す錆と哀しみの匂いだった。図書館の静寂でさえ、無数の過去の囁きで満たされていることを知る。

同時に、影法師の存在感もまた、劇的に増した。タールのような影が床に滴り落ちるのが見えるようだ。その空虚な貌が、ほんの少しだけこちらを向いた気がした。奇妙なことに、影法師の輪郭がはっきりすればするほど、湊の心から恐怖は薄れていった。鈴が、まるでスポンジのように彼の感情を吸い上げていく。心は凪いだ湖面のようになり、ただ、世界に満ちる他者の感情の奔流を『観測』しているような、空虚な感覚だけが残った。

第三章 共鳴する悲劇

鈴を手にしてからというもの、湊は濃密な靄の溜まり場へと引き寄せられるようになった。その日は、かつて大規模な爆発事故があったという廃工場跡地だった。錆びた鉄骨が墓標のように空を突き、風が金網の破れ目を通り抜けるたびに、低い呻きのような音を立てる。

湊が鈴を強く握ると、空間がぐにゃりと歪んだ。

耳を劈くような金属の破裂音。

熱風。

人々の絶叫が四方から響き渡り、焦げ付いた肉の匂いが肺を満たす。過去の悲劇が、幻影となって彼の周囲に再現されたのだ。逃げ惑う人々の影が、湊の身体をすり抜けていく。

それは、いつもの追体験のはずだった。

だが、違った。

湊の隣に立つ影法師が、ゆっくりと腕を上げた。その歪な指先が、幻影の中に転がる巨大な鉄骨の破片に触れる。

次の瞬間、幻影のはずの鉄骨が、現実の地面を抉りながら轟音と共に転がった。

「……あ」

乾いた声が喉から漏れる。自分の恐怖が、世界に物理的な干渉を始めた。その事実に、湊はもはや恐怖さえ感じなかった。空っぽの心に、ただ冷たい認識だけが染み込んでいく。

その日から、ニュースは連日、原因不明の集団パニックや、突発的な暴動の発生を報じ始めた。誰もが何かに怯え、何かを憎んでいた。世界全体が、静かに狂気の淵へと滑り落ちていくようだった。

第四章 深淵の呼び声

感情は、とうに枯れ果てていた。恐怖も、悲しみも、喜びさえも、無音の鈴がすべて吸い尽くしてしまった。湊は、もはや恐怖の主体ではなく、世界を覆い尽くす巨大な恐怖のうねりを、ただ淡々と観測する装置と化していた。

ある月のない夜。自室の闇の中、影法師が初めて湊の正面に立った。それは言葉を発しなかった。ただ、その空虚な貌を見つめていると、イメージの奔流が直接、湊の意識へと流れ込んできた。

――それは、生命が初めて自己を認識した瞬間の、原初の孤独。

――それは、広大無辺の宇宙における、一点の塵芥であることの無意味さ。

――それは、いつか必ず無に帰すという、存在そのものに刻まれた絶対的な恐怖。

『深淵の恐怖』。

人類がその歴史の始まりから、集合的無意識の底に沈殿させ続けてきた、根源的な恐怖の結晶。世界中に蔓延する狂気は、この集合的恐怖が、一つの出口を見つけてしまったが故の悲鳴だった。

そして、その出口こそが、有馬湊という存在であり、彼の恐怖が生み出した『影法師』だったのだ。影法師は湊個人のトラウマの産物などではなかった。それは、人類全体の恐怖を映し出す、世界で最初の『鏡』。

無音の鈴は、恐怖を観測するための道具ではない。鏡の感度を上げ、持ち主を深淵と接続させるための、古の鍵だった。

すべてを理解した。なぜ自分が選ばれたのか。なぜ世界が壊れていくのか。影法師が、湊の写し鏡のように、ゆっくりと頭を垂れた。それは肯定のようにも、哀悼のようにも見えた。

第五章 静寂のレクイエム

選択肢は、二つ。

一つは、湊自身が消滅すること。鏡が砕ければ、深淵からの漏出は一時的に止まるだろう。しかし、それは対処療法に過ぎない。恐怖を感じる人類が存在する限り、いずれ第二、第三の鏡が生まれる。

もう一つは、恐怖の根源を断つこと。

恐怖を感じる存在、そのものを、この世界から消し去ること。

湊は、静かに立ち上がった。窓の外では、街の明かりが狂ったように明滅し、遠くからサイレンと怒号が聞こえてくる。人類が自らの恐怖に喰い尽くされる様を、彼は硝子越しに眺めていた。

もはや彼の心に迷いはなかった。空虚な器には、ただ一つの使命感だけが、澄んだ水のように満ちていた。

彼は無音の鈴を、心臓の上にそっと押し当てた。

「……終わらせよう」

囁きは誰に言うでもなく、闇に溶けた。

鈴を強く、強く握りしめる。骨に響いていた微かな振動が、次第に全身を揺るがす巨大な脈動へと変わっていく。湊の身体の輪郭が、足元からゆっくりと崩れ、黒い粒子となって影法師へと吸い込まれていった。

彼と彼の恐怖は、境界を失い、一つになる。彼自身が、人類の『深淵の恐怖』そのものへと変貌していく。

意識が無限に拡散し、地球を、大気を、そこに生きる全ての人間を包み込んでいく。

街の喧騒が、ふっと途切れた。

車のクラクションが止んだ。人々の悲鳴が止んだ。憎しみも、怒りも、喜びも、愛さえも、すべての感情の火が、一斉に吹き消された。

人々は、歩みを止める。何かを掴もうとしていた手を下ろす。泣き叫んでいた赤ん坊が、静かに目を閉じる。

世界から、音が消えた。感情が消えた。

最後に残った湊の意識は、深淵の底から、その光景を見上げていた。

恐怖から解放された世界は、ただひたすらに静かで、そして、どうしようもなく美しかった。

永遠の静寂に包まれた星が、宇宙の中で瑠璃色に輝いている。

それは、完璧な調和。究極の救済。

彼は、その静寂のレクイエムを、世界の終わりを、ただ静かに見届けていた。

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