無色の残響

無色の残響

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第一章 侵食する静寂

私、水野響(みずのひびき)の世界は、音に色がついていた。

幼い頃から、私にとって音は聴覚情報であると同時に、鮮やかな視覚情報でもあった。蛇口から落ちる水の雫はコバルトブルーの宝石となって弾け、遠くで鳴くカラスの声は、黒曜石の鋭い破片となって空気を裂く。人々が「共感覚」と呼ぶこの特性は、サウンドデザイナーである私にとって、天賦の才であり、同時に拭い去れない孤独の源でもあった。誰も、私の見るこの色彩豊かな世界を共有してはくれないのだから。

新しいアパートの三〇二号室に越してきて一週間。壁一枚隔てた隣、三〇一号室から聞こえる生活音は、穏やかな色彩のパレットだった。朝のトーストが焼けるチーンという音は、こんがりとした小麦色の円盤を描き、夜中に聞こえるテレビの控えめな会話は、紫と藍色の細い糸が絡み合うように見えた。不動産屋の話では、隣人は物静かな斎藤さんという老人で、もう何十年も住んでいるらしかった。その落ち着いた音の色彩は、私の心を奇妙に安らがせた。

その異変に気づいたのは、引っ越してきて二度目の土曜の夜だった。

いつものようにヘッドホンでミキシング作業を終え、静寂を取り戻した部屋で息をついた、その瞬間。それは聞こえてきた。

———カサ、カサカサ……。

壁の向こうからだ。ネズミだろうか。だが、その音には、あるべきはずの色が、全くなかった。

私の脳は混乱した。全ての音には色が宿る。それが、私の世界の絶対的な法則だった。しかし、今聞こえるこの乾いた摩擦音は、まるで絵の具を置く前の真っ白なキャンバスに空いた、底なしの穴。透明ですらない、「無」の色。それは視覚的な欠落であり、私の知覚にぽっかりと空いた空洞だった。ぞわり、と鳥肌が立つ。それは恐怖という感情の色である、冷たい青紫とは全く違う、もっと根源的な不安感だった。

私は耳を澄ませた。音は不規則に続き、時折、壁の内部を何かがゆっくりと這い回るかのように移動する。そのたびに、私の視界の隅で、世界の色彩が僅かに褪せていくような錯覚に陥った。まるで、その「無色の音」が、周囲の音の色を吸い取って喰らっているかのように。

私はベッドに潜り込み、耳を塞いだ。しかし、音は頭蓋の内側で直接鳴っているかのように、消えはしなかった。その夜、私は初めて、自分の世界が崩れ落ちる恐怖を味わった。

第二章 色を失くした世界

「無色の音」は、私の日常を静かに、しかし確実に侵食し始めた。

それは日に日に、その存在感を増していった。最初は微かだったカサカサという音は、やがて壁を爪で引っ掻くような、ギリ、ギリ、という不快な音に変わった。時には、重い何かをゆっくりと引きずるような、ズ……ウ、ズ……ウ、という低い音も混じるようになった。それら全ての音に、やはり色はなかった。虚無そのものだった。

夜、ベッドに入ると、その音が始まる。私は眠れなくなった。隈が深くなり、思考は鈍重になった。昼間、仕事で向き合うべき音楽の音色でさえ、どこか色褪せて聞こえるようになった。クライアントから依頼されたCM音楽。生命力あふれる若葉のような緑と、弾ける希望のレモンイエローを散りばめるべき箇所で、私の頭の中には、あの「無色の音」がちらつき、インスピレーションを濁らせた。

「水野さん、最近ちょっと疲れてる? 音のキレが悪いよ」

先輩からの指摘に、私は曖昧に笑って誤魔化すことしかできなかった。この異常な感覚を誰に説明できようか。医者に行っても、ただのストレスだと言われるのが関の山だろう。

私の孤独は、深い穴のように広がっていった。かつては美しく、私だけの秘密の庭だった音の世界が、今や色のない怪物に脅かされる恐怖の領域へと変わり果てていた。

ある日、私は意を決して三〇一号室のドアをノックした。震える指で、古びたチャイムを押す。くぐもったブザー音が、濁った茶色の靄となってドアの向こうに消えた。しかし、応答はない。何度かノックを繰り返したが、中から物音一つしなかった。

アパートの管理人にも相談してみた。恰幅のいい初老の女性は、私の訴えを迷惑そうに聞き流した。

「斎藤さん? ああ、あのおじいちゃんは耳も遠いし、本当に物静かな人よ。夜中に物音なんて立てるはずないわ。あんたの気のせいじゃないの?」

その言葉は、冷たい灰色の壁となって私の前に立ちはだかった。誰も信じてくれない。この恐怖は、この世界で私一人しか感じられないのだ。

絶望が胸を締め付ける。ヘッドホンで大音量の音楽を流しても、美しい旋律の隙間から、あの虚無の音が染み出してくるようだった。それはもう、隣室から聞こえる物理的な音ではないのかもしれない。私の脳に、私の魂に、直接寄生し、私の世界から色を奪い去ろうとしている、何か。私は鏡に映る自分の顔から、血の気が、つまり生命の色が失せていくのを見た。

第三章 蓄音機の告白

もう、限界だった。

その夜も、壁の向こうから「無色の音」は執拗に響き続けていた。ギリ、ギリ、という音は、まるで私の正気を削り取るヤスリのようだ。このままでは、私が壊れてしまう。恐怖は、いつしか怒りと、捨て鉢な決意に変わっていた。正体を突き止めてやる。たとえそれが、人知を超えた何かであったとしても。

私はスウェットのまま廊下に出て、三〇一号室のドアノブにそっと手をかけた。鍵がかかっているだろう。そうしたら、体当たりで壊してでも……。しかし、私の予想に反して、ドアノブはカチャリと軽い音を立てて回り、ドアは静かに内側へ開いた。

シン、と静まり返った部屋。鼻をつくのは、古い木の匂いと、微かな埃の匂い。そして、驚くべきことに、部屋の中は異様なほど整然としていた。まるで、長い間誰も住んでいないかのように、家具には薄く布がかけられ、生活の気配が全くない。

そして、その部屋の中央に、それはあった。

一台の、古びた木製の蓄音機。美しい曲線を描く真鍮のホーンが、天井の裸電球の光を鈍く反射している。

音は、そこから発せられていた。あの、忌まわしい「無色の音」が。

しかし、レコード盤は回っていなかった。ダイヤモンドの針は、溝が刻まれていない滑らかな黒い盤の上に、ただ静止しているだけだ。それなのに、音は確かに、そこから生まれていた。現実の法則を無視した光景に、私は金縛りにあったように動けなくなった。

ふと、蓄音機が置かれた小さなテーブルの隅に、一冊の古びた日記帳があることに気づいた。革張りの表紙には、金文字で『斎藤 朔(さいとう さく)』と記されている。私は、何かに導かれるようにそれを手に取り、震える指でページをめくった。そこには、几帳面なインクの文字で、ある女性についての記述が、切々と綴られていた。彼の妻、千尋(ちひろ)さんについて。

『———妻の千尋は、世界を私とは違う形で見ていた。彼女は、音に色が見えるのだと言った。雨の音は優しい水色、小鳥のさえずりは金色の光の粒だと、少女のように微笑みながら語ってくれた。私には見えないその世界を、彼女は宝物のように慈しんでいた。』

息が、止まった。斎藤さんの奥さんも、私と同じ———。

私は憑かれたようにページを読み進めた。日記は、千尋さんが病で徐々に視力を失っていった日々の記録だった。光を失った彼女にとって、唯一の慰めは、耳から入ってくる色彩豊かな音の世界だけだった。しかし、病は彼女の聴覚にも及び、やがて彼女が愛した音の色は、少しずつ彩度を失い、くすんでいったという。

最後の方のページは、斎藤さんの絶望で滲んでいた。

『———今日、千尋が言った。「あなたの声から、色が消えちゃった」。彼女はそう言って、子供のように泣いた。彼女の世界から、最後の色が消えようとしている。それは彼女にとって、世界の終わりを意味するのだろう。私には、彼女の手を握ってやることしかできない。』

そして、最後の日付のページ。

『千尋が、逝った。彼女が最も恐れていた「無色の音」だけが満ちる世界に絶望し、自ら……。私は、彼女のいないこの世界で、何のために生きればいいのか。ああ、千尋。君が感じていた恐怖を、絶望を、私も感じたい。君が見ていた「無色の世界」に、私も行きたい。そうすれば、もう一度君に会える気がするのだ。』

全身の力が抜けた。私が聞いていた「無色の音」。それは、幽霊でも怪物でもなかった。工学の心得があった斎藤さんが、妻の死後、彼女が感じていたであろう絶望と恐怖を追体験するために、自ら作り出したものだったのだ。人間の可聴域ギリギリの特殊な周波数を緻密に組み合わせ、色聴を持つ者にしか「色のない空白」として知覚されない、特殊な音響装置。それを、妻との思い出の蓄音機に偽装して。

彼は妻と一つになるために、この部屋で、彼女が最期に見たであろう「無色の世界」を、たった一人で聞き続けていたのだ。日記の最後の記述から、彼自身は数週間前に衰弱し、親族によって施設に引き取られたことが分かった。タイマーで動き続けていた装置だけが、主の深い悲しみの残響を、この部屋に響かせ続けていたのだった。

恐怖は、跡形もなく消え去っていた。代わりに、胸が張り裂けそうなほどの、深い、深い悲しみが込み上げてきた。孤独だと思っていたのは、私だけではなかった。私の呪いは、誰かにとっては、命を懸けて守りたいほどの宝物だった。

第四章 色彩のレクイエム

私は、ゆっくりと蓄音機の形をした装置に近づいた。そして、その側面にある小さなスイッチに、そっと指を伸ばした。カチリ、という小さな音。それは、磨かれた黒曜石のような、静かで、しかし確かな意志を持った色の音だった。

次の瞬間、世界から「無色の音」が消えた。

しん、と静まり返った部屋に、窓の外から聞こえる車の走行音が、オレンジと白の光の帯となって流れ込んでくる。遠くで鳴る救急車のサイレンは、赤と青の鮮烈な螺旋を描いた。色が、戻ってきた。私の世界に。

しかし、その色彩は、以前とは全く違って見えた。

アパートの古い水道管を流れる水の音。そのくすんだ緑色の中に、私は、千尋さんが最後に見たかもしれない、色褪せた世界の悲しみを感じた。きしむ窓を揺らす風の音。その乾いた白い吐息の中に、私は、妻を想い続けた斎藤さんの、果てしない孤独を感じた。

音の色の中に、他者の感情が、物語が、確かに宿っている。私は、この感覚を初めて味わっていた。

数日後、私は自室の制作機材の前に座っていた。そして、新しい曲を作り始めた。それは、ただ明るく美しいだけの曲ではなかった。喜びを表す黄金色のメロディの中に、微かな悲しみの灰色の和音を織り交ぜた。未来への希望を奏でる若草色のアルペジオに、癒えない孤独の深い藍色のベースラインを寄り添わせた。

私の呪いであり、才能でもあったこの力は、もう私を孤独にする壁ではなかった。それは、見知らぬ誰かの心に触れ、その物語と繋がるための、繊細な架け橋なのだ。

窓から差し込む午後の光が、部屋の隅に置いたままだった小さなオルゴールを照らしていた。引っ越しの時に、祖母からもらった古いものだ。私はそれを手に取り、そっと蓋を開けた。

キラキラ、キラキラ……。

無数の銀色の粒子のような音が、部屋いっぱいに広がった。その一粒一粒が、今は亡き千尋さんと、彼女を深く愛した斎藤さんの、哀しくも美しい物語を宿して、優しく輝いているように、私には見えた。

世界は、言葉にならない無数の物語を奏でている。私の世界は、以前よりもずっと深く、複雑で、そしてどうしようもなく、愛おしいものに変わっていた。

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