灰色と星屑のフーガ

灰色と星屑のフーガ

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第一章 灰色の霧と透明な依頼人

霧島朔の世界は、灰色に澱んでいた。彼が古書店『時雨堂』の主人になってから、もう五年になる。埃とインクの匂いが染みついたこの場所は、彼のシェルターだった。なぜなら、ここには嘘が少ないからだ。書物たちは沈黙を守り、ただ静かにそこにある。

朔には、生まれつきの奇妙な能力があった。他人が嘘をつくと、その口元から、まるで煙草の煙のような、澱んだ灰色の霧が立ち上るのが見えるのだ。その濃淡や粘度は、嘘の悪質さに比例する。些細な見栄は淡い煙のように、悪意に満ちた欺瞞は、コールタールのように粘り気を帯びて相手にまとわりつく。

この能力のせいで、朔は他人を信じることができなかった。愛の告白も、友情の誓いも、日常の挨拶さえも、彼の目には薄汚れた灰色に染まって見えた。人間関係に疲れ果てた彼がたどり着いたのが、この古書店というわけだ。

その日も、外は冷たい雨が降っていた。店先の軒を叩く雨音だけが、店内の静寂を縁取っている。朔がカウンターの奥で古い天文学の専門書を整理していると、ちりん、とドアベルが鳴った。

入ってきたのは、一人の若い女性だった。濡れたトレンチコートを脱ぎながら、不安げに店内を見回している。年の頃は二十代半ばだろうか。切りそろえられた黒髪が、雨の湿気でしっとりと頬に張り付いていた。

「あの……人を探しているんです」

女性は、か細いが芯のある声で言った。朔は無言で顔を上げる。またか、と思った。失踪人探し、借金からの逃亡、痴情のもつれ。時折、この古書店を私立探偵の事務所か何かと勘違いした客が訪れる。そのたびに、彼らの口からはおびただしい灰色の霧が噴き出した。自分の都合のいいように捻じ曲げられた物語が、店内の空気を汚していく。

朔は無愛想に「うちは本屋だ」とだけ答え、視線を本に戻した。だが、女性は諦めなかった。

「失踪した兄を探してほしいんです。警察にも届けましたが、事件性がないと……。でも、兄はそんな無責任な人じゃありません。必ず何かあったはずなんです」

彼女はカウンターに近づき、まっすぐに朔の目を見た。その瞬間、朔は息を呑んだ。

彼女の言葉からは、一片の灰色も立ち上っていなかった。声は震えていたが、その奥にあるものは透明だった。純粋な憂慮と、揺るぎない確信。朔がこれまで見てきた、どんな人間の言葉よりも、澄み切っていた。まるで、磨き上げられた水晶のようだった。

「どうして、俺に?」朔は、思わず問い返していた。

「この辺りで、どんな情報にも通じている人がいると聞きました。どんな嘘も見抜く、と……」

彼女は水瀬遥と名乗った。彼女が語る兄の話、失踪した日の状況、兄の人柄。そのすべてが、嘘偽りのない、透明な響きを持っていた。朔の心の中で、何かが軋むような音を立てた。何年もの間、灰色の霧に覆われていた世界に、初めて差し込んだ一筋の光。この光を、信じてみたい。そう、強く思った。

「……分かった。引き受けよう」

朔の口から出た言葉に、彼自身が一番驚いていた。遥の顔が、ぱっと輝く。その笑顔さえも、一点の曇りもなかった。

朔はまだ知らなかった。その完璧な透明さこそが、彼を待ち受ける最も深く、昏い闇の入り口であることを。

第二章 カシオペア座の不在証明

水瀬遥の兄、水瀬航(わたる)は、城西大学の天体物理学研究室に所属する若き研究者だった。朔と遥はまず、彼が住んでいたアパートを訪れた。鍵は遥が持っていた。ドアを開けると、微かにオゾンと紙の匂いがした。生活感の希薄な、整然とした部屋だった。

「兄は、研究のことしか頭にないような人でした」

遥は、本棚に並ぶ難解な専門書を指でなぞりながら、寂しげに呟いた。彼女の言葉は、相変わらず透明だった。

朔は部屋の隅々まで注意深く観察した。彼の能力は、こういう場面では役に立たない。嘘は人が発するものであり、物に宿るものではないからだ。彼は自らの五感と洞察力だけを頼りに、航の痕跡を拾い集めていく。

机の上には、書きかけの論文と、膨大な数式が記されたノートが数冊置かれていた。その一冊の最後のページに、走り書きのようなメモがあった。

『カシオペア座の幽霊を見つけた。だが、それは祝福ではない』

「カシオペア座の幽霊?」遥が首を傾げる。

「カシオペア座Aのことだろう。超新星爆発の残骸だ。だが、『幽霊を見つけた』というのは奇妙な表現だ。まるで、そこに存在しないはずのものを見たような……」

朔は天文学にも多少の心得があった。古書店には、あらゆる分野の知識が眠っている。

次に二人は、航が所属していた大学の研究室を訪れた。航の指導教官である佐伯教授は、人の良さそうな笑顔で二人を迎えた。しかし、朔の目には、その笑顔の周りにまとわりつく、粘り気のある灰色の霧が見えていた。

「水瀬くんがねぇ、実に残念ですよ。彼は非常に優秀な学生で、もうすぐ大きな発見を発表できるところだったんだ」

佐伯教授が言う「大きな発見」という言葉の端から、濃い霧が漏れ出す。彼は何かを隠している。あるいは、事実を歪めて伝えている。

「どんな発見だったか、お伺いできますか?」朔が鋭く問いかける。

「それは……彼のプライバシーに関わることだからね。まだ公にされていない研究内容だよ」

教授は言葉を濁し、そのたびに灰色の濃度が増していく。朔は確信した。航の失踪は、この研究と深く関わっている。

研究室の同僚や、航と付き合っていたという恋人にも話を聞いた。誰もが航の身を案じる言葉を口にしたが、その端々からは、一様に灰色の霧が立ち上っていた。嫉妬、安堵、虚偽。様々な感情が混じり合った汚れた色が、朔の視界を覆っていく。世界は、やはり嘘で満ちている。うんざりするような現実を前に、朔は眉間を揉んだ。

そんな彼の隣で、遥は静かに佇んでいた。彼女だけが、この灰色の世界で唯一、透明な存在だった。調査が行き詰まるたび、朔は彼女の澄んだ瞳に救われるような気持ちになった。彼女の兄を思う純粋な気持ちが、朔の濁った心を洗い流してくれるようだった。

「朔さん、ありがとうございます」帰り道、遥がぽつりと言った。「あなたを信じて、よかった」

その言葉には、一片の曇りもなかった。朔の胸に、温かい何かがじんわりと広がっていく。人を信じるという感覚を、彼は忘れかけていた。この依頼が終わったら、すべてが元に戻ってしまうのだろうか。それとも――。

朔は、カシオペア座が輝く夜空を見上げた。航が書き残した「幽霊」とは、一体何なのか。無数の嘘の先に隠された真実を、彼はこの手で暴き出すと誓った。信じられるただ一人の人間のために。

第三章 完璧な嘘の色

調査は核心に近づきつつあった。朔は、航の研究が「未知の重力波の観測」に関するものであり、佐伯教授がその成果を横取りしようとしていたという仮説を立てた。教授や同僚たちの嘘の霧は、その仮説を裏付けているように見えた。航は、教授の不正を告発しようとして、揉み消されたのではないか。

朔は最後の切り札として、佐伯教授を再び訪ねた。今度は一人だった。古書店で見つけた天文学の古い論文をダシに、専門的な質問を投げかけ、巧みに航の研究内容へと話を誘導していく。

「水瀬くんの研究データですが、彼のノートにあった『カシオペア座の幽霊』という記述、あれは重力波のノイズパターンと酷似していますね。もし、彼が従来の観測方法では捉えられない、特殊な重力波を発見していたとしたら、ノーベル賞級の発見です。そのデータを、あなたが自分のものにしようとしたのではありませんか?」

朔の言葉に、佐伯教授の顔色が変わった。彼の口元から、これまでで最も濃く、粘り気のある灰色の霧が噴き出した。それはまるで、彼の内なる醜悪さが具現化したかのようだった。

「な、何を言うんだね、君は!憶測で……!」

教授は激しく動揺し、支離滅裂な弁明を繰り返す。そのすべてが真っ黒な嘘に染まっていた。犯人はこの男だ。朔は勝利を確信した。あとは、警察に引き渡すための決定的な証拠だけだ。

その夜、朔は『時雨堂』で一人、祝杯を挙げていた。久しぶりの高揚感に包まれていた。遥に良い報告ができる。彼女の透明な笑顔が目に浮かぶ。長年、彼を縛り付けてきた能力が、初めて人の役に立ったのだ。

グラスを傾けながら、朔はふと、奇妙な違和感に襲われた。遥のことだ。彼女は、あまりにも完璧すぎなかっただろうか。兄を思う気持ち、朔への信頼、そのすべてが一点の曇りもなく透明だった。人間は、どんなに誠実であっても、心のどこかに些細な矛盾やためらいを抱えているものではないか。無意識の見栄や、都合の良い記憶の改ざん。そんな小さな灰色の粒子さえ、彼女からは一切見えなかった。

まるで、彼女自身が、自分の言動のすべてを寸分の狂いもなく「真実」であると信じ込んでいるかのようだ。

その考えに至った瞬間、朔の背筋を冷たい汗が伝った。まさか。そんなはずはない。だが、一度芽生えた疑念は、急速に彼の心の中で根を張っていく。彼は急いで、航のアパートから持ち帰っていた資料を引っ張り出した。部屋の隅に置かれていた、大学の卒業アルバム。そこに写る、少しはにかんだような笑顔の青年。名前の欄には、はっきりと『水瀬 航』と書かれている。

朔は震える手でスマートフォンを取り出し、遥に電話をかけた。

「遥さん、一つだけ、確認したいことがある。君のお兄さんのフルネーム、もう一度教えてくれないか?」

電話の向こうで、遥が少し不思議そうな、しかし淀みのない声で答えた。

「はい。水瀬 航(みなせ わたる)ですけど……」

その名前は、アルバムの名前と同じだった。朔は安堵しかけた。だが、彼はもう一つの可能性に気づいてしまった。アルバムに写る人物そのものが――。いや、もっと単純なことだ。

「……すまない、もう一つだけ。お兄さんの、学生時代のあだ名は?」

「あだ名、ですか?……確か、『ワタル』って、そのまま呼ばれてました」

その答えを聞いた瞬間、朔の中で何かが砕け散った。アルバムの寄せ書き欄には、いくつものメッセージが書かれていた。そのどれもが、『コウへ』『コウ、卒業おめでとう!』と、彼を『コウ』と呼んでいたのだ。『航』という漢字は、『コウ』とも読める。

「君は、誰だ?」

朔の声は、自分でも驚くほど低く、冷たかった。

一瞬の沈黙。そして、電話の向こうから、くすくす、と押し殺したような笑い声が聞こえた。それは、朔が知る遥の声ではなかった。

「……気づいちゃったんだ。せっかく、あなただけは信じてあげようと思ったのに」

その声が発せられた瞬間、朔の脳裏に、幻覚のような光景が広がった。電話の向こうにいる遥の姿。その輪郭から、これまで見たこともないほど濃密で、澱みきった、絶望的なまでの灰色の霧が、まるで決壊したダムの水のように噴き出している。

彼女は、水瀬遥ではなかった。兄を探してもいなかった。彼女の言葉が透明だったのは、彼女が語る物語のすべてを、彼女自身が狂気的なまでに「真実」だと信じ込んでいたからだ。朔の能力は、嘘を見抜く。だが、本人が真実だと信じ込んでいる嘘は、見抜けない。

「兄さんはね、私のものなの。誰にも渡さない。あの汚い人間たちから守ってあげるの。それが私の『真実』よ」

彼女が探していたのは、物理的に失踪した兄ではなかった。彼女の歪んだ理想の中に存在する「完璧な兄」という偶像の、最後のピースだったのだ。そして、水瀬航は、彼女によってどこかに監禁されている。

朔は、愕然と受話器を握りしめていた。唯一信じた光が、最も深い闇だった。彼の世界が、再び音を立てて崩れていく。

第四章 星屑の真実

事件の結末は、あっけないものだった。朔からの通報を受けた警察が、女――本名を相田美咲という――のアパートに踏み込み、クローゼットの奥に作られた隠し部屋から、衰弱した水瀬航を無事に保護した。美咲は航の研究室に出入りしていた派遣スタッフで、一方的に彼に執着し、ストーカー行為を繰り返した末、犯行に及んだのだった。彼女にとって、航を自分の管理下に置くことは崇高な「保護」であり、彼を探し回る自分の行動は、兄を思う妹の「真実」の姿だったのだ。

佐伯教授の嘘は、単に研究データの横取りを画策していたという、矮小なものに過ぎなかった。すべてのピースがはまり、事件は解決した。だが、朔の心には、焼け野原のような空虚さだけが残った。

彼は打ちのめされていた。自分の能力を過信し、完璧に騙された。唯一信じた人間が、最大の嘘つきだった。灰色の霧は、あくまで人が発する言葉の表層をなぞるだけだ。その奥にある、狂気的なまでの信念や、歪んだ自己正当化――人の心の「真実」までは、何一つ見通すことなどできなかったのだ。嘘の色が見えることは、真実が見えることと同義ではない。その当たり前の事実を、彼は骨身に染みて理解した。

数ヶ月が過ぎた。季節は巡り、秋の澄んだ空気が街を包んでいる。『時雨堂』の日常は、何も変わらずに続いていた。しかし、朔の内面は、静かに、だが決定的に変化していた。

彼はもう、以前のように人間を拒絶してはいなかった。かといって、無邪気に信じられるようになったわけでもない。ただ、受け入れることにしたのだ。この世界の不確かさと、人間の不完全さそのものを。

嘘には、嘘をつかざるを得ない理由がある。自己保身、嫉妬、見栄。そして時には、誰かを守るため、あるいは、そうしなければ壊れてしまうほど脆い心を守るためにも。灰色の霧の向こう側にある、その複雑で哀しい動機に、彼は思いを馳せるようになった。美咲の狂気さえも、元をたどれば孤独が生み出した、歪んだ救済への渇望だったのかもしれない。

ある晴れた夜、朔は店の外に出て、空を見上げた。満天の星が、手の届きそうなほど近くで瞬いている。

あの星の光は、何万年も、何億年も前に放たれたものだ。今、この瞬間にも、見えている星のいくつかは、もう存在しないのかもしれない。僕たちが見ているのは、壮大な過去の残像、美しい嘘のようなものだ。

それでも、星空は美しい。

真実と嘘が混じり合って、光と闇が溶け合って、この世界はできている。完璧な透明さなど、どこにも存在しない。それでいいのだ。

朔は、自分のこの目を、初めて呪わしいとは思わなかった。この目は、世界の不確かさを教えてくれる。完璧な理解などできないという、謙虚さを与えてくれる。

ちりん、とドアベルが鳴った。一人の客が店に入ってくる。朔は、ゆっくりと振り返った。そして、以前の彼なら決して見せることのなかった、穏やかで、どこか少しだけ温かみのある表情で、静かに言った。

「いらっしゃいませ」

彼の目に映る世界は、相変わらず灰色に満ちている。だが、その灰色の霧の合間に、彼は今、確かに星屑のような小さな真実のかけらを探し始めていた。その不確かで、果てしない探索こそが、これからの彼の人生なのだと、朔は静かに予感していた。

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