残響のノクターン
第一章 共鳴する後悔
俺の名は響(ひびき)。他人の、最も強い後悔を『音』として聴く。それは呪いであり、俺という存在を規定する、忌まわしい調律だった。
その夜も、音はやってきた。最初は遠雷のような地鳴り。やがて窓ガラスがカタカタと震え、床がきしむ。それは誰かの後悔が物理的な力を伴って、この世界に干渉している証だった。俺は耳を塞ぎ、身を屈める。しかし、音は頭蓋の内側で直接鳴り響く。
――ああ、なぜ、あの時。
甲高い金属の悲鳴のような音。街の東地区で、また『あれ』が起きたのだ。
陽が沈むと、この世界から全ての人工光が消え失せる。電灯は生命を失ったガラス玉となり、液晶画面はただの黒い板と化す。人々は蝋燭や、特定の鉱石が放つ微かな光を頼りに、長い夜をやり過ごす。それが、この世界の法則。
そして、時折起こる『夜の消失事件』。特定の地区で、人々が集団的な幻覚と共にパニックに陥り、夜が明けた時には、全員が「何か、とても大切なものを失った」という漠然とした喪失感だけを抱えている。物理的な被害はほとんどない。だが、その後に残る後悔の残響は、凄まじい。
今夜の音もそうだ。東地区全体を包む、一つの巨大な後悔。しかし、俺の耳には、その集団的な嘆きの下で、ひときわ鋭く鳴り響く、たった一つの『個』の後悔が聴こえていた。まるでオーケストラの中から、一つのヴァイオリンの狂った旋律だけを抜き出すように。
奇妙だった。事件は集団的な現象のはず。なのに、俺が捉える最も強い音は、いつも孤独だ。この街で鳴り響く不協和音の正体を、俺は知らなければならない。その音は、俺自身の存在を揺さぶるように、いつまでも頭の中で反響していた。
第二章 鉱石の灯火
翌日、俺は東地区の石畳を歩いていた。昨夜のパニックの痕跡はほとんどなく、人々は日中の太陽の下、何事もなかったかのように電気の恩恵を享受している。だが、彼らの顔には、拭い去れない疲労と、心のどこかに空いた穴を覗き込むような、虚ろな影が落ちていた。
「また、光をお求めですか」
声に振り返ると、小さな店の軒先で、一人の女性が鉱石を磨いていた。暦(こよみ)と名乗った彼女は、夜の闇を照らす『月長石(げっちょうせき)』を扱う職人だった。色素の薄い瞳が、俺の心の奥底を見透かすように、まっすぐに射抜いてくる。
「事件が起こるたび、皆がここに駆け込んでくる。もっと強い光を、もっと明るい石を、と。まるで闇そのものに怯える子供のように」
彼女の声は、磨かれた石のように滑らかで、けれどどこか冷たい響きを持っていた。彼女の工房は、ひんやりとした石の匂いと、微かな土の香りに満ちている。
俺は、意を決して打ち明けた。後悔の音を聴く能力のこと。事件のたびに、強大な個の後悔を聴き取ってしまうこと。暦は黙って俺の話を聞いていた。眉一つ動かさず、ただ、その静かな瞳で俺を捉え続けている。
「その音の主を探しているのですね」
「ああ。この街で起きていることの核心が、そこにある気がする」
暦は磨いていた月長石を置き、立ち上がった。石から放たれる乳白色の光が、彼女の横顔を柔らかく照らし出す。
「一つ、心当たりがあります。事件が頻発する地区の中心には、必ず古い建造物がある。昨夜の東地区なら……旧天文台です。そこに、何かがあるのかもしれない」
彼女の言葉は、確信に満ちていた。俺たちは、音の源を探す、共犯者のようになった。
第三章 沈黙の蓄音機
旧天文台は、街を見下ろす丘の上に、忘れられた巨人のように佇んでいた。埃とカビの匂いが鼻をつく。俺たちは軋む床を踏みしめ、螺旋階段を上った。ドーム状の最上階、巨大な望遠鏡が夜空の代わりに、埃を被った天井を睨んでいる。
その部屋の片隅に、それはあった。
一台の、ひどく古めかしい蓄音機。黒光りする木製の筐体、鈍い金色に輝く真鍮のラッパ。昼の光の下では、それはただの時代錯誤な骨董品にしか見えない。
「これだ……」
俺が呟くと、暦は蓄音機に近づき、そっと指でなぞった。
「奇妙な作りです。動力源が見当たらない。電気でも、ゼンマイでもない。まるで……何か別の力で動くのを待っているかのよう」
彼女がそう言った瞬間、俺は微かな残響を聴いた。この場所に染みついた、幾つもの過去の後悔の音。それらが、この蓄音機を中心に渦を巻いているような感覚。
「夜だ」俺は言った。「これは、夜にしか動かない」
俺の言葉に、暦は頷いた。二人とも、この沈黙した機械が、事件の謎を解く鍵だと直感していた。俺たちが探し求める『個の後悔』は、この蓄音機によって再生されるのを待っているのだ。俺たちは次の夜、ここで全てが明らかになる瞬間に立ち会うことを決めた。
第四章 再生される幻影
日没の鐘が街に響き渡る。窓の外で、最後の街灯が蛍のように明滅し、ふっと消えた。世界から音が消え、色が失われる時間。俺と暦は、天文台の暗闇の中、息を潜めていた。暦が灯した月長石のランプだけが、心細い光の孤島を作っている。
そして、その音は来た。
これまでとは比較にならない、圧倒的な後悔の音。それは悲鳴でも、嘆きでもなかった。地殻が裂けるような、星が砕けるような、根源的な『喪失』の音。天文台が激しく揺れ、ドームの天井からパラパラと漆喰が剥がれ落ちる。
俺が床に膝をついた、その時だった。
――キィ……。
沈黙を守っていた蓄音機の針が、ひとりでに動き出した。レコード盤がゆっくりと回転を始める。だが、ラッパから響き渡ったのは、音ではなかった。
光だった。
蓄音機から放たれた青白い光が、ドームの壁に幻影を映し出す。そこにいたのは、特定の誰かではなかった。顔のない、無数の人々。彼らは闇に怯え、手を伸ばしている。その指先が求めるのは、失われた人工の光。電灯、モニター、ネオンサイン。
彼らの恐怖と、「光を失った」という後悔が渦を巻き、凝縮し、一つの巨大な影を生み出す瞬間を、俺たちは見ていた。影は脈動し、人々の恐怖を吸い上げて、さらにその輪郭を濃くしていく。
「個人の後悔なんかじゃなかったんだ……」俺は呻いた。「これは……この街の、全ての人間の後悔そのものだ」
蓄音機が再生したのは、たった一人の過去ではない。今、この瞬間にも、人々が生み出し続けている、集団的な恐怖と後悔の姿だった。
第五章 闇を恐れるもの
幻影は、まるで創世神話の一場面のように、荘厳で、そして恐ろしかった。事件の首謀者は、人間ではない。この街の人々が『夜の闇』と『光の喪失』を過度に恐れるあまり、無意識のうちに共同で作り上げてしまった『概念的存在』。それが真実だった。
あの影は、自らの存在を確かなものにするために、夜をより深く、より恐ろしいものに仕立て上げる。夜間の人工光の機能を停止させ、人々に幻覚を見せる。そうして人々が抱く新たな恐怖と後悔を糧とし、神のごとく成長していくのだ。
『失われた何か』の正体にも気づいた。それは物理的なものではない。人々が自ら手放してしまった、『闇をありのままに受け入れる心』そのものだった。
その時、俺の耳に、最後の音が流れ込んできた。それは、今まで聴いたどの後悔よりも深く、静かで、そして広大な響きを持っていた。影を生み出した人々のものでも、この街だけのものでもない。もっと大きな、人類という種そのものが奏でる、集合的無意識の後悔のフーガ。
――なぜ、我々は光にこれほど依存してしまったのか。
――なぜ、我々は夜という安らぎを、敵と見なしてしまったのか。
それは、遥か昔に火を手にした祖先から、連綿と受け継がれてきた、光への渇望と、闇への恐怖が生んだ、原罪にも似た後悔の音だった。俺は、その途方もない響きの前に、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
第六章 夜明けのフーガ
この『概念的存在』を消し去ることはできないだろう。人々が心の中から闇への恐怖を完全に消し去らない限り、影は存在し続ける。戦うべき相手は、外にはいない。俺たち自身の内にいるのだ。
俺はゆっくりと立ち上がり、隣で息を呑んでいる暦に向き直った。彼女の瞳には、壁に映る巨大な影と、俺の顔が交互に映っていた。
「聴こえるか」俺は言った。「これが、俺たちがずっと聴きたかった音だ。僕らは光に頼りすぎた。夜の静寂を、星の瞬きを、ただそれだけで美しいと思えた心を、どこかに置き忘れてきてしまったんだ」
俺はもう、この音を呪いとは思わなかった。これは人類が背負うべき、あまりにも壮大な鎮魂歌(レクイエム)なのだ。無理に消そうとするのではなく、ただ聴き、受け入れ、そして語り継いでいく。それが、この能力を持って生まれた俺の役目なのかもしれない。
暦は何も言わず、ただ静かに頷いた。そして、持っていた月長石のランプにそっと息を吹きかける。ふっ、と優しい音を立てて、最後の光が消えた。
完全な闇が、俺たちを包み込む。
だが、それはもはや恐怖の対象ではなかった。目が慣れてくると、ドームの天窓から差し込む、無数の星々の瞬きが見えた。遠い銀河の光が、何万年もかけて届いた、本物の灯火。
後悔の音は、まだ頭の中で鳴り響いている。けれど、その音色は先ほどまでとは違って聴こえた。それはもう、責め立てる不協和音ではない。過ちを認め、静かに夜を受け入れた者たちにだけ聴こえる、厳かで、どこか優しい旋律。夜明けのフーガのように、静かに、響いていた。
街の夜明けは、まだ遠い。しかし、俺たちの心には、どんな鉱石よりも確かな光が、確かに灯っていた。