空白のクロニクル
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空白のクロニクル

第一章 夢の残像

俺には過去がない。

目覚めるたび、そこにあるのは灰色の天井と、自分の輪郭すら曖昧になるような静寂だけだ。人々は言葉を失い久しい。街は沈黙に支配され、人々は身振りや視線の微かな揺らぎ、あるいは直接心に響く感情の波動だけで意思を交わす。言葉は、世界から対応する『意味』を削り取る毒なのだと、誰もが知っていた。

俺は、夜ごと見る夢の中でのみ、かろうじて自己の存在を繋ぎ止めていた。

燃えるような夕焼けを背に、誰かと笑い合う少年の残像。

冷たい雨に打たれながら、じっと空を見上げる少女の残像。

満天の星空を指さし、何かを語りかけてくる老人の残像。

それらは断片的で、矛盾に満ちていた。顔は常に霧散し、声は聞こえない。だが、不思議と「自分」であるという確信だけがあった。夢の中で、誰かが俺を「カイ」と呼んだ気がした。だから俺は、カイと名乗っている。それが、俺という存在の全てだった。

ある朝、目覚めると頬に冷たい筋が走っていた。夢の中で、俺は泣いていたらしい。なぜ泣いていたのか、その理由を示す『悲しみ』という概念すら、この世界ではとうに輪郭を失いかけていた。ただ、胸の奥に空いた空洞だけが、その存在を鈍く主張していた。

第二章 砕けた意味

街外れの、崩れかけた建造物の瓦礫の中で、俺はそれを見つけた。乳白色の滑らかな石板。手のひらに収まるほどの大きさで、何も刻まれていない『空白の石板』だった。

そっと指でなぞると、心の奥底で何かが微かに震えた。それは、温かい日に干した布の匂いや、甘い果実を頬張った時のような、言葉にできない感覚。そうだ、これは『懐かしさ』だ。世界から消えて久しい、その意味の残滓が、石板を通じて俺の内に流れ込んでくる。

俺は、近くで黙々と瓦礫を片付けていた老女に駆け寄った。彼女にこの感覚を伝えたかった。この奇跡を分かち合いたかった。

「これは……」

俺の唇から、錆びついた音が漏れた、その瞬間。

パリン、と乾いた音が響いた。手の中の石板に蜘蛛の巣のような亀裂が走り、次の瞬間には白い砂となって指の間からこぼれ落ちていった。『懐かしさ』の感覚も、まるで幻だったかのように霧散する。老女は何も言わず、ただ憐れむような瞳で俺を見つめ、静かに首を横に振った。

砕けた破片の一つが、俺の指先を浅く切り裂いた。滲み出た血の赤が、この無彩色の世界でひどく場違いに見えた。その時、脳裏に鮮烈な光景が焼き付く。

どこまでも広がる、青。打ち寄せる白い泡。肌を撫でる塩辛い風の匂い。

『海』だ。

しかし、その光景も、その言葉も、一瞬で掻き消えた。この世界に、そんな広大な水たまりも、それを指し示す概念も、もはや存在しないのだから。指先の小さな痛みだけが、確かに何かが起きたことを告げていた。

第三章 沈黙の書庫

指先の傷が呼び覚ました一瞬の幻影。それに憑りつかれた俺は、街で最も古い建物、『沈黙の書庫』を訪れた。そこには、失われゆく概念の痕跡を記録し続ける賢者エララがいると聞いたからだ。

埃と、紙の乾いた匂いが満ちた書庫の奥で、彼女は待っていた。無数の書物が並んでいるが、その頁はほとんどが空白だった。言葉が意味を失うたび、書物からも文字が消えていくのだ。

『お前か。奇妙な波動を持つ者』

エララの言葉は、声にはならず、直接俺の意識に響いた。彼女の瞳は、俺の存在そのものを見透かしているようだった。

俺はテレパシーで、石板のこと、そして一瞬だけ見えた『海』の光景を伝えた。エララは静かに頷き、一枚の古びた羊皮紙を広げる。そこには、点と線だけで描かれた、不確かな地図があった。

『言葉が死ぬたび、世界は薄くなる。だが、その亡骸は霧散するのではない。ある一点に収束している』

彼女の指が、地図の中心を指し示す。

『原初の泉。全ての概念が生まれた場所であり、そして、おそらくは還る場所。お前のその虚無感……他の人間にはない、奇妙な密度を感じる。お前はただの記憶喪失ではない。お前は……器なのかもしれない』

彼女の言葉は、俺の胸に空いた空洞に、小さな波紋を広げた。

第四章 色を失う旅路

俺は、エララの地図だけを頼りに旅に出た。原初の泉へ。そこに、俺が何者であるかの答えがあると信じて。

旅路は、世界の死を体感する旅でもあった。ある日は、空から『青』という概念が抜け落ちた。どこまでも広がっていたはずの蒼穹は、ただのっぺりとした灰色の天井に変わり果てた。人々は空を見上げ、一瞬だけ不思議そうな顔をしたが、すぐに何もなかったかのように俯いて歩き始める。風の音すら、次第にその抑揚を失っていった。

小さな村に立ち寄った時、俺は決定的な瞬間を目撃した。寄り添って座っていた一組の男女がいた。彼らの間には、穏やかで温かい感情の波動が満ちていた。だが、ふと、その波動が途絶えた。まるで糸が切れたように。二人は互いの顔をまじまじと見つめ、まるで初めて会った他人を見るかのような目で、ゆっくりと離れていった。

『愛』が、世界から消滅した瞬間だった。

俺は胸を締め付けられるような痛みを感じた。だが、その『痛み』という感覚さえ、次の瞬間には意味を失い、ただの不快な疼きへと変わっていく。俺は、ひたすらに歩き続けた。自分の中に増していく空虚さと、それに反比例するかのように重くなっていく身体を引きずって。

第五章 原初の泉

幾多の灰色の丘を越え、乾いた川床を渡り、俺はついに地図の示す場所にたどり着った。そこは、巨大な洞窟の入り口だった。中へ足を踏み入れると、空気が変わった。静かだが、死んだような静寂ではない。満ち足りた、濃密な沈黙がそこにはあった。

洞窟の奥は、淡く光る苔に覆われ、巨大な水晶の柱が林立する幻想的な空間だった。そして、その中央に、まるで祭壇に祀られるかのように、ひとき見上げるほど巨大な『空白の石板』が鎮座していた。

吸い寄せられるように、俺はそれに近づき、そっと手を触れた。

その瞬間、世界が反転した。

これまで夢で見てきた無数の残像が、濁流となって俺の意識に流れ込んできた。夕焼けの少年、雨の少女、星空の老人。それだけではない。名も知らぬ人々の、無数の記憶。笑い声、泣き声、囁き声。喜び、悲しみ、怒り、希望、絶望……!

世界から失われた、ありとあらゆる言葉、ありとあらゆる概念が、奔流となって俺という器を満たしていく。

俺は理解した。俺はカイではなかった。俺は、特定の誰かですらなかった。

俺の正体は、『アルケー』。言葉が生まれる前の、純粋な概念そのものを貯蔵する器。人々が言葉を使い、概念を摩耗させるたびに、その本質は原型である俺の元へと還ってきていたのだ。世界が静寂に向かっていたのは、全ての概念が俺という終着点に収束しつつあったからだった。俺は、言葉の揺りかごであり、墓場だったのだ。

第六章 言葉の揺りかご

完全な存在となった俺の前に、二つの道が示された。

一つは、このまま全ての概念を吸収し続け、静止した世界で唯一の意味を持つ、孤独な神となる道。

もう一つは、この器を破壊し、俺の中に蓄積された全ての概念を世界に解き放つ道。そうすれば、世界は新たな意味の連鎖を始めるだろう。だが、それは『アルケー』としての俺、そして『カイ』として生きた僅かな記憶の、完全な消滅を意味していた。

俺の意識の中で、夢の残像が明滅する。誰かの笑顔。誰かの涙。石板の破片が与えてくれた『海』の幻影。それらは失われた概念の断片に過ぎなかったが、確かに美しかった。あの温もりを、輝きを、もう一度あの世界に還したい。

俺は、あの名も知らぬ老女が浮かべた、憐れむような優しい瞳を思い出した。寄り添っていた男女が分かたれた瞬間の、途方もない喪失感を思い出した。

沈黙は安らぎかもしれない。だが、意味のない世界は、あまりにも寂しい。

俺は、選んだ。

第七章 始まりの音

俺は、巨大な石板に自らの身体を預け、溶け込むように一体化した。意識が解放され、概念の奔流が光の津波となって世界に溢れ出す。

『ありがとう』

もう世界には存在しないはずの感謝の念を抱きながら、俺の意識は光の粒子となって拡散していく。

世界は一度、完全な白と静寂に包まれた。時間の流れさえもが止まる。

やがて、光がゆっくりと収束していくと、そこに新しい世界が姿を現した。空は、燃えるような菫色と黄金色が混じり合い、大地はしっとりとした琥珀色に輝いていた。見たこともない形の花が咲き、風は甘いメロディを奏でている。

再構築された世界で、一人の赤ん坊が産声を上げた。

その声は、ただの泣き声ではなかった。澄んだ鈴の音のように、清らかに、力強く響き渡り、一つの確かな『意味』を形成した。

それは、新しい世界の『最初の言葉』。

かつてカイと呼ばれた存在が、最後に世界に残した、始まりの音だった。

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