蒼白のスケッチブック

蒼白のスケッチブック

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第一章 虚構の依頼人

絵の具の匂いが、死んだ時間のようにアトリエに澱んでいた。窓から差し込む午後の光は、空気中を舞う無数の埃をきらきらと照らし出し、まるで銀河のようだ、と霧島翔太はぼんやり思った。7年前、彼女を失ってから、彼の時間は止まったままだった。かつて将来を嘱望された画家、という肩書きは、今や錆びついた額縁のように彼を縁取るだけだ。

その日、アトリエのドアを叩く音が、静寂を破った。訪れたのは、早乙女葵と名乗る女性だった。喪服を思わせる黒いワンピースに身を包み、透けるように白い肌をした彼女は、この薄汚れたアトリエには不釣り合いなほど儚げで、美しい存在だった。

「霧島翔太先生でいらっしゃいますね」

鈴を転がすような、しかしどこか芯の冷えた声だった。

「絵の依頼です。肖像画を描いていただきたいのです」

翔太は無感動に頷いた。生活費のため、時折こうした依頼は受けていた。金持ちの自画像か、亡くなったペットの絵か。どちらにせよ、魂を削るような創作とはほど遠い、単なる作業だ。

「どなたを?」

「……弟です」葵は少し間を置いて言った。「7年前に、10歳で亡くなりました。名前は、蓮と言います」

彼女は鞄から数枚の写真を取り出し、テーブルに並べた。だが、どれもピントが甘かったり、逆光だったりして、少年の顔がはっきりとしない。遠足らしき集合写真の隅、誕生日ケーキの蝋燭を吹き消す横顔、公園の木陰で眠る姿。そこにいるはずの少年の輪郭は、まるで陽炎のように揺らいでいた。

「まともな写真が、これしかなくて……。あの子は、体が弱くて、あまり写真を撮らせてくれなかったんです」

伏せられた長い睫毛が、彼女の白い頬に影を落とす。

「先生の絵を拝見しました。写真よりもずっと、その人の魂を捉えるような絵を描かれる。だから、先生にお願いすれば、あの子に、もう一度会えるような気がして」

彼女の言葉は、翔太の心の、固く閉ざされた扉を微かに震わせた。かつて、同じようなことを言ってくれた人がいた。彼のミューズであり、すべてだった恋人、橘美咲。彼女もまた、7年前の交通事故で、この世を去った。

「それで……」葵は意を決したように顔を上げた。「この依頼には、一つだけ、条件があります」

「条件?」

「弟の蓮は……公式には、存在しなかったことになっています。戸籍にも、記録にも、どこにも」

翔太の眉が動いた。存在しない人間を描け、と? 冗談にしては、彼女の瞳はあまりにも真剣だった。その黒い瞳の奥には、計り知れないほどの哀しみが湛えられている。

「どういう意味です?」

「詳しいことは、お話しできません。でも、報酬は弾みます」

彼女が提示した金額は、翔太がこの一年で稼いだ額をはるかに上回っていた。だが、それ以上に彼を動かしたのは、彼女の切実な眼差しだった。その瞳は、忘れていた創作への渇望を、心の奥底で疼かせた。

存在しない少年。曖昧な写真。謎めいた依頼人。

止まっていたはずの時間が、軋みを立てて動き出す予感がした。翔太は、乾いた唇を舐め、短く答えた。

「……わかりました。引き受けましょう」

第二章 色彩の追憶

制作は、葵の語る「思い出」をスケッチすることから始まった。週に二度、彼女はアトリエを訪れ、弟の蓮について語った。

「蓮は、金木犀の香りが好きでした。病室の窓から見えるお庭に、大きな金木犀の木があって」

「あの子の髪は、とても柔らかくて、光に透けると茶色く見えたんです。私の髪とは全然違って」

「雨の日は、二人で窓に当たる雨粒を数える競争をしました。いつも、私の方が先に飽きてしまうんですけど、蓮は最後までじっと数えていました」

葵が紡ぐ言葉は、まるで上質な詩のようだった。彼女の話を聞きながら、翔太は木炭を走らせる。病弱で、世界のほとんどを知らずに生きた少年。姉だけが彼の世界のすべてだった。翔太のスケッチブックは、少しずつ、その蒼白い少年のイメージで埋め尽くされていった。

不思議なことに、蓮の姿を追えば追うほど、翔太の筆は蘇っていった。止まっていたインスピレーションの泉から、再び水が湧き出るような感覚。色の選び方、光の捉え方、筆致の力強さ。すべてが、7年前の、美咲を描いていた頃のように、鮮やかに蘇ってくる。彼は夢中でキャンバスに向かった。下地を塗り、輪郭を取り、色を重ねていく。それは、虚構の少年を創造する行為でありながら、同時に、失われた自分自身を取り戻すための儀式でもあった。

「すごい……」

ある日、制作途中の絵を見た葵が、息を呑んだ。キャンバスには、窓辺に座り、物憂げに外を見つめる少年の姿が浮かび上がっていた。顔立ちはまだ曖昧だったが、そこに宿る気配は、葵が語った蓮そのものだった。

「まるで、蓮が、そこにいるみたい……」

彼女の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

その涙を見て、翔太の胸に温かいものが込み上げた。誰かの心を、こんなにも揺さぶる絵が描けたのは、いつ以来だろう。しかし、その感動と同時に、小さな棘のような違和感が、心の隅に刺さったままだった。

葵の話は、あまりに完璧すぎた。まるで、練り上げられた脚本のように。彼女が語る蓮は、純粋無垢な天使そのもので、人間らしい欠点や矛盾が一切見当たらない。そして、物的証拠が何一つないのだ。蓮が使っていたという本も、おもちゃも、すべて「処分してしまった」と言う。

決定的な疑念を抱いたのは、彼女が「蓮と二人で見た、思い出の灯台」の話をした時だった。翔太が何気なくその灯台について調べると、建設されたのは5年前であることが分かった。蓮が亡くなったとされる7年前には、影も形も存在しなかったのだ。

血の気が引いた。全身を、冷たい水に突き落とされたような衝撃。

嘘だ。彼女は、嘘をついている。

では、このキャンバスにいる少年は、一体、誰なんだ? 俺が取り戻しかけたこの情熱は、すべて、偽りの物語の上に成り立っていたというのか?

第三章 砕かれたパレット

次に来た葵を、翔太はアトリエの入り口で待ち構えていた。

「話がある」

いつもより硬い彼の声に、葵はびくりと肩を震わせた。アトリエの中央には、イーゼルに立てかけられた、完成間近の肖像画。そこに描かれた少年は、今にもこちらに話しかけてきそうなほど、生き生きとした表情をしていた。

「灯台の話、嘘ですね」翔太は単刀直入に切り出した。「あの灯台ができたのは5年前だ。7年前に、あんたの弟が見られるはずがない」

葵の顔から、さっと血の気が引いた。彼女は唇を噛み、俯いたまま動かない。

「蓮なんて少年は、最初から存在しないんじゃないか? あんたは一体、何者なんだ!」

問い詰める翔太の声が、アトリエに響き渡る。葵はしばらく沈黙していたが、やがて顔を上げた。その瞳は涙で濡れ、決意の色を宿していた。

「……先生の、おっしゃる通りです」

か細いが、はっきりとした声だった。

「蓮は……私が作り上げた、架空の存在です」

翔太は息を呑んだ。頭を鈍器で殴られたような衝撃。

「なぜ、そんなことを……」

「償いを、したかったんです」

葵は、ぽつり、ぽつりと、すべてを告白し始めた。

7年前の、雨の夜。運転免許を取りたてだった彼女は、友人とふざけながら車を走らせていた。そして、横断歩道に差し掛かった一人の女性に、気づくのが遅れた。

ブレーキ音。衝撃。砕け散るガラスの音。

その事故で亡くなった女性こそ、翔太の恋人、橘美咲だった。

当時未成年だった葵は、有力者である親の力で、罪を問われることはなかった。示談金が支払われ、事件は公にはならなかった。だが、彼女の心には、生涯消えることのない罪の十字架が刻み込まれた。

「ずっと、あなたのことを見ていました」葵は嗚咽を漏らした。「あなたが、恋人を失って、絵が描けなくなったことも……。私があの人から奪ったのは、命だけじゃなかった。あなたの未来も、才能も、すべて私が奪ってしまった……」

彼女は償いの方法を探し続けた。そして、一つの狂気じみた計画を思いつく。翔太に、もう一度、絵を描くための「ミューズ」を与えること。彼が再び情熱を取り戻せるような、純粋で、守るべき存在を創造すること。それが、架空の弟「蓮」だった。蓮の人物像は、罪を犯す前の、こうありたかったと願う自分自身の理想であり、贖罪の化身だったのだ。

「あなたに、もう一度、光を取り戻してほしかった……。それが、私の、唯一の……」

言葉は、そこで途切れた。

翔太は、その場に崩れ落ちそうになるのを、必死でこらえた。

怒り。絶望。憎悪。そして、理解しがたい、哀れみ。様々な感情が渦を巻き、彼の精神を粉々に砕いていく。

この数ヶ月間、彼を支え、蘇らせてくれた情熱の源泉。そのすべてが、愛する人を奪った女によって仕組まれた、巨大な嘘だった。

彼はわなわなと震える手で、パレットナイフを掴んだ。そして、憎しみを込めて、キャンバスに描かれた少年の顔に、それを突き立てようとした。

第四章 夜明けのキャンバス

パレットナイフの切っ先が、キャンバスの表面に触れる寸前、翔太の腕は止まった。

彼の目に映ったのは、憎むべき女が作り出した虚構ではなかった。そこにいたのは、葵の贖罪の願いと、翔太自身の再生への渇望が奇跡的に結びついて生まれた、ひとつの確かな「命」だった。この少年を描いている間、自分は確かに生きていた。絶望の淵から、光の中へと引き上げてくれたのは、紛れもなくこの絵だった。

憎しみは消えない。悲しみも癒えない。だが、この絵を破壊することは、再び自分自身を殺すことと同じではないのか。

翔太は、ゆっくりとナイフを下ろした。

「……出ていけ」

低い声だった。葵は、はっと顔を上げた。

「この絵は、あんたの弟じゃない。あんたの贖罪の道具でもない」翔太は、キャンバスに向き直り、静かに言った。「これは、俺の作品だ」

許しではなかった。だが、それは憎しみを超えた、一人の画家としての決意表明だった。

葵は何も言えず、ただ静かに涙を流しながらアトリエを去っていった。

数日後、翔太は絵を完成させた。彼はその絵を、誰にも売るつもりはなかった。アトリエの一番光が当たる場所に飾り、タイトルをつけた。

『蒼白のスケッチブック』。

それは、存在しない少年の肖像であり、罪を背負った女の祈りであり、そして何より、画家・霧島翔太の再生の記録だった。この絵は、彼の戒めであり、未来への道標となるだろう。

夜が明け、新しい朝の光がアトリエに差し込む。

翔太は、真っ白な、新しいキャンバスの前に立っていた。その瞳には、もう迷いの色はなかった。7年間彼を縛り付けていた鎖は、砕け散っていた。

ふと、窓を開けると、風に乗って、どこからか金木犀の甘い香りが微かに漂ってきた。葵が語った、蓮が好きだったという香り。

罪が消えることはない。悲しみが無くなることもないだろう。

だが、人はそれでも、何かを創造し、明日へ向かって生きていくことができる。

翔太はゆっくりと息を吸い込むと、震えることのない手で、パレットに新しい絵の具を絞り出した。

彼の時間が、再び動き始めた。

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