第一章 歪んだ産声
高槻湊(たかつき みなと)の仕事は、音を狩ることだ。世界に散らばる音を捕獲し、編集し、新たな命を吹き込む。彼はサウンドデザイナーとして、その繊細な聴覚とセンスで評価されてきた。しかし、ここ数ヶ月、彼は深いスランプの沼に沈んでいた。コンピューターの前に座っても、画面上の波形はただの無機質な線にしか見えず、かつて感じたはずの音の持つ生命力が、指の間からこぼれ落ちていくようだった。
「リアルな音が足りないんだ。もっと、こう、魂を揺さぶるような……」
クライアントの言葉が、耳鳴りのように頭の中で反響する。焦燥感に駆られた湊が次なる狩場として選んだのは、郊外に打ち捨てられた「月岡診療所」だった。閉鎖されて三十年以上経つその廃墟は、軋む床、風が窓の隙間を通り抜ける音、滴り落ちる水の音など、退廃的なアンビエントサウンドの宝庫のはずだった。
九月の湿った空気が、崩れかけたコンクリートの壁に染み付いたカビの匂いを運んでくる。湊は高性能マイクを慎重に構え、ヘッドフォンを装着した。途端に、世界の解像度が上がる。自分の呼吸音、衣擦れの音、そして廃墟が発する微かな呻き。集中力を高め、レコーダーの赤い録音ボタンを押した、その時だった。
――キィ……ィィ……。
ヘッドフォンの中から、奇妙な音が聞こえた。赤ん坊の泣き声のようにも、古い電子機器が発するノイズのようにも聞こえる、甲高く、不快な音。周波数がおかしくなったような、歪んだ産声。
「……なんだ?」
湊はヘッドフォンを外し、耳を澄ませた。しかし、現実の空間には、ただ風の音と、遠くで鳴くカラスの声が響くだけだ。気のせいか。いや、マイクは確かに拾っている。彼はもう一度ヘッドフォンをつけ、マイクの指向性を音源と思しき方角――かつて新生児室だったであろう部屋――に向けた。音は、より鮮明になる。それは間違いなく、この廃墟のどこかから発せられていた。
恐怖よりも先に、プロとしての好奇心が勝った。これは使える。この不気味で、耳を惹きつけて離さない音は、ホラーゲームか映画の効果音として最高の素材になるだろう。彼は慎重に音を録音し、満足げに機材を片付けた。この時、彼はまだ知らなかった。その音を自分のスタジオに持ち帰ることが、日常という名の薄氷を砕く、最初のハンマーの一振りになるということを。
その夜、スタジオで録音したデータを再生した瞬間、奇妙なことが起きた。編集ソフトがフリーズし、モニターの画面に一瞬、砂嵐が走ったのだ。そして、誰もいないはずの部屋の隅から、カタン、と小さな物音がした。
「疲れてるんだな……」
湊は自分に言い聞かせ、PCを再起動した。しかし、背筋を這い上がる冷たい感触は、気のせいだと切り捨てるには、あまりにも生々しかった。
第二章 共鳴する過去
例の「音」は、湊の日常を着実に侵食し始めた。そのデータを再生するたびに、スタジオの照明が瞬き、機材が奇妙な誤作動を起こす。最初は偶然だと考えていた湊も、さすがに無視できなくなっていた。音には、何かがある。科学では説明のつかない、何かが。
彼はサウンドデザイナーの知識を総動員して、その音を分析することにした。スペクトラムアナライザで周波数特性を調べると、人間の可聴域をわずかに外れる高周波と低周波が、不規則な周期でパルス状に含まれていることがわかった。自然界の音にも、人工音にも見られない、異様な波形。まるで、この世のものではない何かの声紋のようだった。
「一体、なんなんだ……この音は」
恐怖と好奇心は表裏一体だ。湊は、あの診療所の過去を調べ始めた。古い新聞記事や町の郷土資料を漁るうち、一つの事件に突き当たる。三十五年前、月岡診療所で、生後間もない赤ん坊が原因不明の病で死亡し、その数日後、母親である「小野寺小夜子(おのでら さよこ)」が失踪した、という記事だった。警察は母親が育児ノイローゼの末に我が子の後を追ったと見て捜査を打ち切ったが、遺体は見つかっていない。
記事を読んだ瞬間、湊の脳裏に、あの歪んだ産声が響いた。まさか。死んだ赤ん坊の霊が、今もあの場所で泣いているとでもいうのか。非科学的だ。馬鹿げている。そう頭では否定しながらも、心臓は嫌な音を立てて脈打っていた。
その夜、湊は悪夢にうなされた。暗い新生児室。彼はガラス越しに中を覗いている。部屋の中には若い女が一人、何かを抱いて揺りかごのように体を揺らしている。女が振り向く。その顔は、新聞記事で見た小野寺小夜子に似ていた。彼女は湊に向かって、にこりと微笑む。しかし、その腕に抱かれているはずの赤ん坊の姿は、影のように黒く塗りつぶされていて、見ることができない。
ただ、あの音が聞こえる。キィィ……と耳を劈く、歪んだ泣き声が。
湊は飛び起きた。全身が冷たい汗で濡れていた。幻聴ではない。スタジオの方から、あの音が微かに聞こえてくる。PCはシャットダウンしたはずだ。スピーカーの電源も切れている。それなのに、音は確かに聞こえる。
彼は、自分の内側から何かが蝕まれていくのを感じていた。この音は、単なる外部からの刺激ではない。自分の記憶の奥底にある、何かと共鳴している。彼は思い出していた。幼い頃、病弱だった妹が、夜中に苦しそうに咳き込む声。何もできずに、ただ布団の中で耳を塞いでいた自分の無力感を。あの音は、湊がずっと蓋をしてきた罪悪感を、無理やりこじ開けようとしているかのようだった。
第三章 聞こえない泣き声
正体不明の恐怖は、湊の理性を少しずつ麻痺させていった。仕事は完全に手につかなくなり、食事も喉を通らない。彼は亡霊のように痩せ衰え、鏡に映る自分の顔に怯える始末だった。あの音は、もはや幻聴なのか現実なのか区別がつかないほど、四六時中、彼の頭にこびりついていた。
このままでは壊れてしまう。
湊は、最後の理性を振り絞り、一つの決断をした。もう一度、あの月岡診療所へ行く。音の根源と対峙し、すべてを終わらせるために。
再び足を踏み入れた廃墟は、昼間だというのに、夜よりも深く暗い闇を湛えているように感じられた。彼は吸い寄せられるように、新生児室だった部屋へと向かう。ギ、と錆びついたドアを開けると、埃とカビの匂いに混じって、微かに甘い、粉ミルクのような香りがした。
部屋の中央には、古びたベビーベッドが一つ、ぽつんと置かれていた。そして、その傍らの床に、一冊の古ぼけた日記帳が落ちているのを、湊は見つけた。表紙には「小夜子」と、震えるような文字で記されている。小野寺小夜子の日記だ。
湊は唾を飲み込み、震える手でそのページをめくった。そこに綴られていたのは、怪異の記録などではなかった。それは、一人の母親の、痛ましいほどの愛と絶望の記録だった。
『この子は、泣かない。先生は、声帯に異常があるのかもしれないと仰った。でも、私は聞こえる。この子が、私を呼ぶ声が』
『今日も、あの子の声が聞こえた。ベビーモニターから聞こえてくる、か細いけれど、確かな声。夫はただのノイズだと言うけれど、違う。これは、あの子が懸命に生きている証』
湊は息を呑んだ。日記を読み進めるうちに、驚愕の事実が明らかになっていく。
小夜子の赤ん坊は、先天性の重い病で、声を出すことができなかった。彼女が「我が子の声」だと信じていた音は、当時普及し始めていたベビーモニターが、他の電波と混線して発していた、単なる電子ノイズだったのである。
周囲は彼女を諭そうとしたが、小夜子は頑なにそのノイズを我が子の声だと信じ続けた。衰弱していく我が子を腕に抱きながら、彼女はその「幻聴」だけを支えに、精神の均衡を保っていたのだ。
『あの子が、逝ってしまった。あんなに元気な声で泣いていたのに。どうして』
そして、最後の日付のページには、狂気に満ちた一文が記されていた。
『声が、まだ聞こえる。あの子が、私を呼んでいる。今、迎えに行くからね』
湊は、全身の力が抜けてその場に崩れ落ちた。
幽霊などいなかった。怨念も、呪いも。
彼が録音した音の正体は、三十五年間、この部屋で鳴り続けていたベビーモニターの故障によるノイズ。そして、彼を苛んでいた怪奇現象は、彼の罪悪感が、この場所に残された母親の狂気的なまでの愛情と共鳴して見せた、幻覚だったのだ。
彼女は、聞こえるはずのない声を聞いた。
彼は、聞きたくなかった声を、心の奥底で聞いていた。
病に苦しむ妹の声から耳を塞いだ過去を持つ彼は、子供の声を聞くことだけを願った母親の絶望に、無意識下で深く同調してしまったのだ。
キィィ……。
古びたベビーモニターから、今もその音が鳴り続けている。それはもはや、不気味な怪異の音ではなかった。愛する我が子の声を聞きたかった、一人の母親の悲痛な祈りの残響に聞こえた。
第四章 沈黙のレクイエム
スタジオに戻った湊は、まるで憑き物が落ちたかのような、静かな表情をしていた。恐怖は消え、後には深い悲しみと、そして奇妙なほどの穏やかさが残っていた。
彼はPCを起動し、あの「ノイズ」のデータを呼び出した。画面に映る歪な波形は、もはや恐怖の対象ではなかった。それは、小野寺小夜子という女性が生きた証であり、声なき赤ん坊への鎮魂歌(レクイエム)の冒頭のフレーズのように見えた。
湊は、キーボードに指を置いた。
彼はノイズを消去するのではなく、その音を核にして、新たな曲を作り始めた。
ノイズの甲高い周波数に、チェロの深く温かい音色を重ねる。不規則なパルスに、穏やかなピアノのアルペジオを寄り添わせる。それは、恐怖の音を美しい音楽で包み込み、浄化していくような作業だった。
彼の指は、かつてないほど滑らかに動いた。スランプの霧は、完全に晴れていた。今、彼が紡いでいるのは、単なる音の羅列ではない。そこには、声を持たなかった赤ん坊への悼み、我が子の声を聞きたかった母親への共感、そして、何もできなかった過去の自分自身への赦しが込められていた。
夜が明け、朝日がスタジオに差し込む頃、一曲の音楽が完成した。
タイトルは、『沈黙のレクイエム』。
歪んだノイズから始まるその曲は、やがて荘厳で、どこまでも優しい旋律へと変容し、最後は完全な静寂――沈黙――の中に、そっと溶けていく。
湊が完成した曲を再生し終えた、その瞬間。
ずっと彼の耳にこびりついていた幻聴が、ふっと消えた。スタジオを包んでいた重苦しい空気も、嘘のように軽くなっている。まるで、母親と赤ん坊の魂が、このレクイエムに導かれて、ようやく安らかな場所へと旅立っていったかのように。
数週間後、湊が制作した『沈黙のレクイエム』は、あるドキュメンタリー映画の主題歌として採用された。音に込められた深い物語性は多くの人々の心を打ち、彼のキャリアは新たな高みへと到達した。
湊は、もう二度と月岡診療所を訪れることはなかった。しかし、彼は時折、あの廃墟のことを思う。そこはもう、彼にとって恐怖の場所ではない。誰かの深い悲しみが、時を超えて誰かの心を動かし、新たな創造を生み出すきっかけとなった、聖地のような場所だった。
音を狩るだけのサウンドデザイナーは、もういない。彼は今、音に宿る心を聴き、その声なき声に寄り添うことができる、真の表現者へと生まれ変わっていた。世界に満ちる音は、時に悲しく、時に残酷だ。しかし、その奥には必ず、誰かの祈りや願いが息づいている。湊は、そのことを知っている。
窓の外で、穏やかな風が吹き抜ける音がした。それは、ただの風の音。しかし今の湊の耳には、世界が奏でる、優しく美しい音楽のように聞こえていた。