瑠璃色の約束
1 3566 文字 読了目安: 約7分
文字サイズ:
表示モード:

瑠璃色の約束

第一章 開かずの小箱と青いインク

水野栞の日常は、埃と静寂の匂いがした。市立歴史民俗資料館の学芸員として働く彼女にとって、歴史とは死んだ時間の集積であり、感情を排した客観的な事実の連なりに過ぎなかった。過去は過去。変えることも、触れることもできない。その距離感が、人との間に無意識に壁を作ってしまう栞には、心地よかった。

その日、栞の静かな世界に小さな波紋を投げかけたのは、一つの桐の小箱だった。市内の旧家の当主が、「先祖代々、開かずの箱として伝わってきたものです」と言って寄贈していったものだ。古びた桐の箱は、手に取るとひんやりとしていて、長い時間を吸い込んだ重みがあった。

栞が恐る恐る蓋を開けると、ベルベットの褪せた深緑の上に、二つの品が寄り添うように収まっていた。一つは、瑠璃色の軸を持つガラスペン。光にかざすと、深い青の中に銀粉を散らしたような微細なきらめきが揺らめいた。まるで、夜空のひとかけらを閉じ込めたかのようだ。そしてもう一つは、封蝋の跡が残る一通の手紙。しかし、経年劣化か、あるいは涙の跡か、インクが滲んでほとんどの文字が判読不能になっていた。

「ただの古いガラクタですよ」

隣で覗き込んでいた先輩学芸員は興味なさそうに言った。しかし、栞はそのガラスペンから目が離せなかった。冷たいガラスのはずなのに、なぜか持ち主の体温がまだ残っているような気がした。そして、読めない手紙に込められたであろう、誰かの必死の想い。それは、栞が普段「客観的な事実」として扱っている歴史とは全く違う、生々しい感情の息遣いを伝えてくるようだった。

これまで感じたことのない強い衝動に駆られ、栞は上司に願い出た。「この手紙、私が解読してみたいんです」。

栞の心の中で、止まっていた何かが静かに動き出すのを、彼女自身はまだ知らなかった。

第二章 瑠璃と蒼月の影

手紙の解読は困難を極めた。栞は赤外線撮影や画像解析ソフトなど、あらゆる技術を駆使して、滲んだインクの痕跡を追いかけた。それはまるで、深い霧の向こうにかすかに見える人影を、手探りで探し当てるような作業だった。

並行して、ガラスペンの持ち主の調査も進めた。箱が伝わった旧家は、明治時代に栄えた藤代家。記録をたどると、一人の女性の名が浮かび上がった。藤代瑠璃(ふじしろ るり)。病弱で、二十歳という若さで夭折した令嬢だった。ガラスペンの瑠璃色は、彼女の名から取られたものに違いない。

さらに調査を進めると、意外な事実が判明した。藤代瑠璃は、当時、ごく一部の文学愛好家の間で知られた、夭折の天才女流作家でもあったのだ。儚く、透き通るような文章で綴られる物語は、彼女の短い生涯と重ね合わされ、伝説のように語り継がれていた。

「この手紙は、彼女の恋文だったのかもしれない」

栞の胸に、そんな仮説が芽生えた。資料を読み解くうちに、瑠璃の屋敷に出入りしていた一人の画学生の存在に行き当たった。高村蒼月(たかむら そうげつ)。身分は低いが、その才能は周囲から高く評価されていたという。しかし、彼の記録は瑠璃が亡くなった直後から、ぷっつりと途絶えていた。

瑠璃と蒼月。身分違いの悲恋。病に倒れた令嬢と、彼女を愛した貧しい画学生。栞の頭の中では、ありふれているが、それゆえに切ない物語が紡がれ始めていた。インクが滲んだのは、別れの手紙を書く瑠璃の涙だったのではないか。

栞はいつしか、単なる研究対象として彼らを追うのをやめていた。休日に藤代家の屋敷跡を訪れ、古地図を片手に蒼月が通ったであろう道を歩いた。百数十年前の空気を吸い込むように深く息をし、彼らが見たであろう景色に想いを馳せた。歴史はもはや、死んだ時間の集積ではなかった。それは、確かに生きて、愛し、苦しんだ人々の息遣いが宿る、温かい物語だった。冷徹な現実主義者だったはずの栞の心は、瑠璃と蒼月の影に、強く揺さぶられていた。

第三章 時を渡るインクの真実

数ヶ月に及ぶ作業の末、ついに手紙の全文解読に成功した日、栞は資料室に一人、息を飲んだ。ディスプレイに映し出された文字の連なりは、彼女の心を激しく揺さぶり、そして、これまでの仮説を根底から覆した。

それは、瑠璃から蒼月への手紙ではなかった。

――蒼月から、瑠璃への手紙だった。

そして、その内容は、栞が想像していた悲恋の物語とは全く違う、驚くべき愛の告白だった。

『瑠璃、君がいなくなって、もうすぐ一年が経つ。君のいない世界は、色を失った絵のようだ。だが、僕はペンを置くわけにはいかない。君との約束だからだ』

手紙は、そう始まっていた。蒼月は、瑠璃の死後も、彼女のために物語を書き続けていたのだ。そして、続く一文に、栞は雷に打たれたような衝撃を受けた。

『君が愛した物語を、これからも「藤代瑠璃」の名で、僕が紡いでいく。この瑠璃色のペンは、君の魂そのものだ。君の魂が、僕の指を動かす。君が生きた証を、僕が物語にする。それが、僕が君にできる、唯一の愛の形なのだから』

――夭折の天才女流作家・藤代瑠璃。その正体は、彼女を愛した画学生、高村蒼月だったのだ。

病弱で外出もままならなかった瑠璃のために、蒼月は外の世界の物語を語り聞かせ、やがてそれを文章にして届け始めた。それが評判を呼び、「藤代瑠璃」という作家が生まれた。瑠璃の死後も、蒼月は彼女の存在をこの世に留めるため、たった一人で「藤代瑠璃」として物語を書き続けた。あの美しい瑠璃色のガラスペンは、彼が愛する人の魂と共に物語を紡ぐための、聖なる道具だったのだ。

手紙の滲みは、瑠璃の涙ではなかった。愛する人を失い、それでも彼女のために書き続けると誓った、蒼月の悲痛な決意の涙だった。

栞は椅子に深く身を沈めた。頭が真っ白になった。歴史の「事実」が、目の前で音を立てて崩れ落ちていく。文献に残された記録、客観的なデータ、それらがいかに脆く、一面的なものであるかを思い知らされた。歴史とは、記録された事実の裏側で、誰かが誰かを想う、名もなき愛の物語によって織り上げられているのかもしれない。栞がこれまで信じてきた、冷たくて動かないはずの歴史が、今、燃えるような熱を持って彼女の胸に迫ってきた。

第四章 瑠璃色の約束

真実を知ってしまった栞は、深い葛藤に苛まれた。この事実を公表すれば、文学史を揺るがす大発見になるだろう。しかしそれは同時に、蒼月が命をかけて守ろうとした瑠璃の名を、そして二人の静かな愛の形を、衆目に晒すことにもなる。歴史の真実を追求する学芸員としての使命と、二人の想いを守りたいという一個人の感情の間で、栞の心は引き裂かれそうだった。

何日も悩み抜いた末、栞は一つの論文を書き上げた。それは、センセーショナルに真実を暴くものではなかった。藤代瑠璃の文学を論じながら、その創作の背景に、高村蒼月という一人の人間の、深く、献身的な愛が存在した可能性を、静かに、しかし確かな筆致で示唆するものだった。彼女は蒼月の手紙そのものを引用するのではなく、その想いのエッセンスだけを掬い取り、二人の魂が決して離れることがなかった証として、論文の中に織り込んだ。

論文の最後を、栞はこう締めくくった。

「歴史は、勝者や権力者によってのみ語られるものではない。記録の片隅で、誰かが誰かを想った名もなき祈り、果たされなかった約束、そして時を超えて届けられた愛。その一つ一つの小さな光が響き合い、私たちの今という時間を、豊かに照らしているのかもしれない」

数週間後、リニューアルされた資料館の展示室に、あの桐の小箱が置かれた。瑠璃色のガラスペンと、解読された手紙のレプリカが、柔らかな照明の中に並んでいる。栞はガラスケースの前に立ち、静かにそれを見つめた。まるで蒼月の指が、今もそのペンを握っているような気がした。

ふと顔を上げると、窓の外は美しい夕焼けに染まっていた。燃えるような橙と、夜の始まりを告げる深い瑠璃色が混じり合う空。その光の中に、栞は一瞬、寄り添って空を見上げる瑠璃と蒼月の幻を見たような気がした。

歴史は、決して過去の遺物ではない。それは時を超え、人の想いを運び、今の私たちに何かを語りかけてくる、生きた物語なのだ。蒼月の愛を受け取った今、栞は、人との間に築いてきた壁が、少しだけ低くなったのを感じていた。誰かの想いを受け取ること、そして、自分の想いを誰かに伝えること。その温かさと尊さを、彼女は初めて知ったのだ。

瑠璃色の空の下、栞は静かに微笑んだ。彼女の心にもまた、時を超えた約束のインクが、新たな物語を記し始めていた。


TOPへ戻る