***第一章 死者からの手紙***
水野蒼(みずのあおい)の世界は、五年前に時間が止まったままだった。恋人だった一ノ瀬樹(いちのせいつき)が、不慮の事故でこの世を去ったあの日から。樹のいない世界は色を失い、蒼はただ息をしているだけの、抜け殻のような日々を図書館の静寂の中でやり過ごしていた。
今年もまた、あの湿った灰色の季節がやってきた。樹の命日だ。朝から降り続く雨が、窓ガラスを叩いて物悲しいリズムを刻んでいる。郵便受けにカタン、と乾いた音が響いたのは、昼下がりのことだった。どうせ広告の類だろうと重い腰を上げた蒼の目に、信じられないものが飛び込んできた。
見慣れた、少し癖のある丸文字。それは、間違いなく樹の筆跡だった。
心臓が氷の塊に鷲掴みにされたような衝撃に襲われる。震える手で封を開けると、一枚の便箋が滑り落ちた。
『やあ、蒼。五年後の君へ。泣いてばかりいないかい? 少し早いけど、君への誕生日プレゼントだ。僕からの最後の贈り物。明日の午後三時、駅前の交差点で、赤い傘を差した少女が車に轢かれそうになる。君が助けるんだ。大丈夫、君ならできる』
意味が分からなかった。死んだ人間から手紙が届くはずがない。ましてや、未来を予言するような内容など、悪趣味な悪戯としか思えなかった。けれど、その文字は、蒼が愛した樹の文字そのものだった。蒼は混乱のあまり、その手紙を握りしめたまま、夜まで動けずにいた。
翌日。蒼は、まるで何かに憑かれたように駅前の交差点に立っていた。雨は昨日よりも勢いを増している。午後三時まで、あと五分。馬鹿げている。そう自分に言い聞かせても、足はアスファルトに縫い付けられたように動かない。
そして、運命の午後三時が訪れた。信号が青に変わる。その瞬間、母親の手を振りほどいた小さな女の子が、赤い傘をくるくると回しながら車道へ飛び出した。甲高いブレーキ音と悲鳴が重なる。蒼の身体は、思考より先に動いていた。数メートルを駆け抜け、少女の小さな身体を突き飛ばす。直後、蒼がいた場所を大型トラックが猛スピードで通り過ぎていった。
地面に倒れ込んだ蒼の腕の中で、少女がわっと泣き出す。駆け寄ってきた母親の感謝の言葉も、周囲の喧騒も、ひどく遠くに聞こえた。蒼の頭の中は、昨日届いた手紙の言葉で埋め尽くされていた。
『大丈夫、君ならできる』
これは、奇跡なのか。それとも――。蒼は、雨に濡れたアスファルトを見つめながら、五年ぶりに、心の奥底で何かが動き出すのを感じていた。
***第二章 奇跡の連鎖***
あの日を境に、蒼の世界は静かに変わり始めた。死んだ樹からの手紙は、その後も忘れた頃に不定期で届くようになった。
『今度の土曜の夜、三丁目の角にあるパン屋が火事になる。原因は古いコンセントだ。店主のおじいさんは耳が遠いから、君が知らせてあげて』
蒼は半信半疑のまま、パン屋を訪ねた。事情を話すと、店主は怪訝な顔をしたが、念のためにと業者を呼んでくれた。結果、壁の中でショート寸前だった配線が見つかり、火事は未然に防がれた。店主は涙を流して蒼の手を握り、「あなたは命の恩人だ」と何度も言った。
またある時は、『来週の火曜、君の図書館に、亡くなった夫との思い出の本を探すおばあさんが来る。それは書庫の三番棚、一番奥に眠っている』という手紙が届いた。予言通りに現れた老婆に、蒼がそっとその本を差し出すと、彼女は「どうして分かったの」と驚き、静かに涙をこぼした。
手紙の指示通りに行動するたびに、誰かの未来が救われ、蒼の世界は感謝の言葉と温かい繋がりで彩られていった。閉ざされていた心が、ゆっくりと解きほぐされていくのを感じた。樹が起こしてくれる奇跡は、まるで止まっていた蒼の時間を再び動かすための、優しいぜんまい回しのようだった。
しかし、蒼の心には新たな不安が芽生え始めていた。どの手紙にも、必ず同じ一文が添えられているのだ。
『これは僕からの最後の贈り物だ』
いつか、この奇跡は終わってしまう。樹との唯一の繋がりが、断ち切られてしまう。その恐怖が、蒼の心を締め付けた。
そんなある日、蒼はふと、手紙の封筒に押された消印に目を留めた。それは、樹と生前最後に行った旅行先の、海辺の小さな町の名前だった。星が驚くほど綺麗に見える、静かな港町。
なぜ、あの町から?
謎の答えが、そこにあるのかもしれない。蒼は、樹との思い出と、この不可解な奇跡の真相を確かめるため、その海辺の町へ向かうことを決意した。それは、五年ぶりに過去と向き合い、未来へと一歩踏み出すための、彼女自身の小さな旅の始まりだった。
***第三章 約束のトリック***
潮の香りが混じる風が、蒼の髪を優しく撫でた。記憶の中にある風景と変わらない、穏やかな港町。蒼は、駅前の小さな郵便局の扉を押し開けた。年配の局員が、穏やかな笑みで迎えてくれる。
「あの、お尋ねしたいのですが……」
蒼は震える声で、届いた手紙のことを話した。未来を予言する、死んだ恋人からの手紙。途方もない話に、一笑に付されることも覚悟していた。しかし、局員は驚くでもなく、静かに頷いた。
「ああ、一ノ瀬樹さんからの、『未来預かり郵便』ですね」
「未来……預かり郵便?」
「はい。当郵便局が独自に行っている小さなサービスです。生前のうちに、未来の特定の日付を指定して手紙を預かり、その日になったら投函する、というものです。タイムカプセルのようなものですよ」
蒼は、頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。手紙は、未来から届いたものではなかった。すべて、五年以上も前に、生きていた樹が書いたものだったのだ。
局員に案内され、奥の保管室へと足を踏み入れる。そこには、埃をかぶった木製の棚があり、一つの区画に『水野蒼様宛』と書かれた札が掛かっていた。そして、その下には、日付が記された何十通もの手紙の束が、分厚い輪ゴムで留められて整然と並んでいた。
目の前の光景が信じられなかった。では、あの予言は一体何だったのか。蒼が混乱していると、局員は手紙の束の中から、一通の厚い封筒を取り出して手渡した。「一ノ瀬さんからです。『もし彼女がここに来たら、最初にこれを渡してください』と預かっておりました」
それは、計画の「説明書」だった。
蒼は震える手で封を開き、そこに綴られた樹の最後の告白を読んだ。
『蒼へ。君がこれを読んでいるということは、僕の仕掛けた奇跡の謎を解き明かしに、ここまで来てくれたんだね。ごめん。ずっと、黙っていて。実は、事故に遭うずっと前から、僕は病気で、余命を宣告されていたんだ』
文字が、涙で滲んでいく。
『僕がいなくなったら、君はきっと、自分の殻に閉じこもってしまうだろうと思った。だから、君がもう一度、世界と繋がるための、ほんの小さなきっかけを作りたかった。未来の予言なんて、大それたものじゃない。これは、僕の血の滲むような調査と、ほんの少しの推測で作られた、愛のトリックなんだ』
樹は、残された時間のすべてを、この計画に捧げていた。彼は過去何十年分もの新聞の縮刷版や郷土史を読み込み、事故の統計、火災の発生しやすい建物のデータ、人間行動のパターンを徹底的に分析していたのだ。
駅前の交差点の事故は、雨の日の同じ時間帯に、過去十年で三度も類似の飛び出しがあった記録から。パン屋の火事は、築五十年の建物の配線が一度も交換されていない事実と、店主の性格を考慮して割り出した高い可能性から。図書館の老婆は、過去の貸出記録の中で、ある特定の時期にだけ借りられている本があることを突き止め、その周期から彼女の訪問を予測したものだった。
それは、超能力でも奇跡でもなかった。一人の青年が、愛する人の未来を想い、持てる知識と時間のすべてを注ぎ込んで作り上げた、壮大で、あまりにも切ない計画だった。
「君に、生きてほしかった。僕のいない世界で、笑ってほしかったんだ」
手紙の最後の一文を読み終えた時、蒼はその場に崩れ落ちていた。嗚咽が止まらない。樹の深い、深すぎる愛情が、五年の時を経て、津波のように蒼の心を飲み込んでいった。
***第四章 星屑の道標***
郵便局から渡された、最後の一通。それは、今日の日付が指定された、正真正銘、樹からの最後の手紙だった。蒼は、星が瞬き始めた港町の防波堤に座り、そっと封を開いた。
波の音が、静かに響いている。もう、この手紙に未来の予言は書かれていないだろう。蒼には、分かっていた。
『蒼へ。
ここまで、僕の長い手紙を読んでくれて、本当にありがとう。もし君がこの手紙を一人で読んでいるのなら、僕の計画は、大成功したってことだね。
もう、君には僕の道標は必要ない。君はもう、一人でちゃんと前を向いて歩き出せる。そうだろう?
たくさんの人を助けて、たくさんの「ありがとう」を受け取った君の心は、僕が最後に見た時よりも、ずっと強く、優しくなっているはずだから。
これからは、僕のいない未来を、君自身の足で歩いていってほしい。時々、辛くて立ち止まりたくなったら、空を見上げてごらん。満天の星が、君の道を照らしてくれる。
あの無数の星屑の中に、僕もいる。いつだって、そこから君のことを見守っているから。
さようなら、僕の愛した人。
君の未来に、満天の星ほどの幸あれ。
一ノ瀬 樹』
手紙を胸に抱きしめたまま、蒼の頬を温かい涙が伝った。でもそれは、五年前の絶望の涙とは全く違う、感謝と愛しさに満ちた、しょっぱいけれど優しい涙だった。
顔を上げると、まるで樹の言葉に応えるかのように、夜空には息をのむほどの星が広がっていた。一つ一つの光が、樹の愛情のように瞬き、蒼の心を照らしている。
樹が遺してくれたのは、未来を予言する奇跡ではなかった。
それは、未来を「生きる力」そのものだった。
蒼はゆっくりと立ち上がり、星空に向かって深く、深くお辞儀をした。そして、踵を返し、明日へと続く道を一歩、踏み出した。
彼女の時間は、今、確かに動き始めた。夜の澄んだ空気が、新たな始まりの匂いを運んでいた。
星屑のタイムカプセル
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