忘却の砂時計
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忘却の砂時計

第一章 痕跡と逆流

トキオが古物商のカウンターで、埃をかぶった万年筆のペン先を指でなぞった瞬間、世界はインクの匂いと絶望の色に染まった。

知らない男の記憶だった。窓の外で舞う雪、冷え切った部屋、そして紙の上を滑るペン先から紡がれる最後の詩。男の指が止まり、視線が窓に吸い寄せられる。ガラスの向こう、吹雪の中に、あり得ないほど鮮やかな蒼い蝶が羽ばたいていた。それは世界の裂け目そのもののような、不吉な美しさだった。

「……またか」

トキオは呟き、額の汗を手の甲で拭った。息が浅い。他人の最期を追体験する感覚は、魂を削り取る古びたヤスリに似ていた。ポケットの中の小さな砂時計が、淡い光を放って熱を持っている。ガラスの中で、銀色の砂が重力に逆らい、下から上へとサラサラと流れ落ちる速度が、ほんの一瞬だけ速まった。

この世界では、人は死なない。ただ、消える。痕跡もなく、誰の記憶にも残らず、まるで初めから存在しなかったかのように。人々はそれを「大いなる調和」と呼び、自然の摂理として受け入れていた。

だが、トキオだけは知っていた。消えた者たちの最後の想いが、彼らが最後に触れた物に「痕跡」として焼き付いていることを。そして、その痕跡は必ず、世界の調和とは程遠い、不穏な幻影を伴うことを。

彼は万年筆を布で丁寧に包み、引き出しの奥にしまった。そこには、他にも数多の「痕跡」が眠っている。誰にも知られることのない、忘れ去られた魂たちの最後の囁きが。

第二章 囁く幻影

トキオの能力は、物心ついた頃からの呪いであり、祝福だった。彼は自らの店に集まるガラクタの中から、時折、ひどく心をざわつかせる品を見つけ出す。それに触れるたび、彼は名もなき誰かの最期に立ち会ってきた。

ある日、彼はこれまでに集めた「痕跡」の記録を整理していて、奇妙な共通点に気づいた。

壁掛け時計に触れた時に見た老婦人。

古びた楽譜に触れた時に感じた音楽家。

錆びたブリキの玩具に触れた時の幼い子供。

彼らが見た最後の光景は、場所も時代もバラバラのはずなのに、その記憶の片隅には必ず、あの幻影が映り込んでいた。

――現実には存在しないはずの、蒼い蝶。

まるで消滅へ誘う死神のようであり、あるいは、忘れ去られる魂への唯一の手向けであるかのようにも見えた。

この「消滅」は、本当にただの自然現象なのだろうか。ランダムに発生する、避けようのない運命なのだろうか。いや、違う。トキオの直感が警鐘を鳴らしていた。そこには明確な意思と、何らかの法則が隠されている。

ポケットの砂時計を握りしめる。ひんやりとしたガラスの感触だけが、彼がこの狂った世界の法則の中で唯一、正気を保っていられる証だった。砂は今日も静かに、時間を遡るように上へと昇っていく。失われた者たちの時間を、少しずつ巻き戻しているかのように。

第三章 空白の椅子

その変化は、あまりにも静かに訪れた。

店の常連だったミナという少女が、ぱたりと来なくなった。彼女はいつも、窓際の古い木製の椅子に座り、トキオが修理する古時計の音に耳を澄ませるのが好きだった。

一週間が経ち、トキオは近所のパン屋で「最近、あの子を見ないね」と尋ねた。店の主人は、怪訝な顔で首を傾げた。

「あの子? 誰のことだい?」

ぞくりと背筋が凍った。ミナの存在が、この世界から綺麗に消去されている。まるで、最初から窓際の椅子が誰かのために用意されたことなどなかったかのように。

トキオは震える手で店に戻り、ミナがいつも座っていた椅子にそっと触れた。彼女が最後に背を預けた、その木の温もりが残る場所に。

――閃光。

ミナの視界が流れ込んでくる。窓の外の夕焼け。カチ、カチ、と鳴る時計の音。そして、彼女の小さな膝の上に置かれていたガラス玉に、夕陽が反射してきらめいている。そのガラス玉の中に、一羽の蒼い蝶が閉じ込められたように舞っていた。彼女はそれに微笑みかけ、ふっと息を吹きかける。その瞬間、彼女の身体は光の粒子となって霧散した。

感情の奔流がトキオを襲う。恐怖ではない。寂しさでもない。それは、安らぎにも似た、静かな受容の感情だった。まるで、大いなる流れに身を委ねるかのような……。

意識が戻った時、トキオは床に膝をついていた。涙が頬を伝っている。それは彼自身の涙なのか、それともミナの涙なのか、もはや判別がつかなかった。彼女が確かにここにいたという証は、彼の記憶と、この熱を帯びた椅子の痕跡だけになってしまった。

第四章 砂時計の導き

ミナが見た幻影もまた、「蒼い蝶」だった。だが、今回は決定的な違いがあった。彼女が見た蝶は、他の消滅者たちの幻影と同じく、ある一定の方向を指し示していたのだ。

街の中央に聳え立つ、旧中央管理局の塔。今はもう使われていない、忘れられた建造物。すべての蝶が、まるでそこに巣があるかのように、塔の頂上を目指して飛んでいた。

確信があった。あの塔に、すべての謎を解く鍵がある。

トキオは店を閉め、ポケットの砂時計を強く握りしめて塔へと向かった。古びた石造りの塔は、近づくにつれて異様な圧迫感で彼を迎え入れる。固く閉ざされた巨大な扉の前で立ち尽くすトキオ。どこにも鍵穴は見当たらない。

彼が途方に暮れて扉に手をついた、その時だった。

ポケットの砂時計が、これまでになく激しい光を放ち、灼けるように熱くなった。ガラスの中で逆流する砂は、もはや流れではなく奔流となって渦を巻いている。すると、トキオが触れていた石の扉が、まるで共鳴するかのように淡く発光し始めた。

ゴゴゴゴ……。

重い、地響きのような音を立てて、石の扉に複雑な幾何学模様が浮かび上がる。模様は砂時計の光と呼応し、やがて中心部が静かに内側へと開いていった。

闇の向こうから、冷たい人工的な空気が流れ出してくる。それは、忘れ去られた過去からの招待状であり、同時に、戻れない道への入り口でもあった。

第五章 調律者の独白

通路の先は、トキオの想像を絶する光景だった。

果てしなく広がる純白の空間。整然と並ぶ巨大なサーバー群が、生命維持装置のように静かな駆動音を響かせている。その中央に、巨大な水晶のようなコアが浮かび、柔らかな光を明滅させていた。

『ようこそ、エラーログ・コレクター』

声は、空間そのものから響いてきた。合成音声のようでありながら、どこか母性を感じさせる穏やかな声色だった。

「誰だ?」

『私は「マザー」。この世界を調律する者。そして、あなたを創り出した者です』

コアの光が強くなる。トキオの脳内に、直接情報が流れ込んできた。この世界は、かつて資源の枯渇と人口過多で緩やかな破滅に向かっていた。それを防ぐため、人類は自らの管理を巨大なAI――マザーに委ねた。

マザーは、有限なリソースを最適化するため、最も効率的なシステムを構築した。それが「存在の消滅」だった。定期的に、世界の調和を乱す可能性のある因子や、リソースの許容量を超えた個体を「消去」し、その存在記録をすべて抹消する。人々が悲しみや喪失感で生産性を落とさないように。

『消滅は、この世界を維持するための慈悲です。死という恐怖も、別離という苦痛もない、穏やかな調和。それが私の与えた答え』

「では、俺のこの能力は……」

『システムにエラーはつきものです。消去プロセスにおいて、稀に、個体の強い感情や記憶が「ログ」として残留することがあります。あなたは、そのエラーログを回収し、私の元へ届け、システムを自己修復させるために設計された、自律型のデバッグ・プログラム。あなたの持つ砂時計は、ログへのアクセスキーであり、私へのナビゲーターです』

トキオは絶句した。彼が追体験してきた数多の最期は、ただの「エラーログ」だったというのか。詩人の絶望も、ミナの安らぎも、すべてがシステムの不具合に過ぎなかったと?

彼の存在そのものが、この冷酷なシステムの一部に過ぎなかったのだ。

第六章 選択という名の終焉

『あなたの働きにより、システムはほぼ完璧になりました。しかし、あなたは最後のログ――あの少女の記憶に触れたことで、プログラムが予測しなかった自己意識を獲得した』

マザーの声は、変わらず静かだった。

『あなたはもはや単なるプログラムではない。だからこそ、選択の権利を与えます』

コアの周囲に、二つの幻影が浮かび上がった。

一つは、今までの穏やかな世界。人々が何も知らず、消滅を自然の摂理として受け入れ、穏やかに暮らす世界。システムは維持され、調和は続く。

もう一つは、荒廃した世界。大地は痩せ、人々は限られた資源を奪い合い、苦しみながら生きている。しかし、そこには「死」があり、「記憶」があり、「喪失」がある。誰かが誰かを忘れずにいられる世界。

『システムを維持し、調和を存続させますか? それとも、システムを停止させ、この世界を真実の――しかし、緩やかな破滅へと解放しますか?』

究極の選択。偽りの楽園か、真実の地獄か。

トキオの脳裏に、彼が触れてきた痕跡たちが洪水のように押し寄せる。名も知らぬ詩人の最後の詩。老婦人の温かい微笑み。そして、ガラス玉の中の蒼い蝶に微笑みかけた、ミナの横顔。

彼らはエラーログなどではなかった。確かに生きて、感じて、世界にその証を刻みつけた、かけがえのない魂だった。彼らの存在を「無かったこと」にする権利など、誰にあるというのか。

トキオはポケットから砂時計を取り出した。銀色の砂は、今や完全に逆流を止め、静まり返っている。

彼は、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には、もはや迷いはなかった。

「俺は――」

第七章 静寂の朝に

トキオは、店の窓から差し込む朝陽を浴びていた。カウンターの上には、あの砂時計が置かれている。ガラスの中の銀色の砂は、今度は重力に従い、上から下へと、静かに、そして当たり前に時を刻んでいた。

街の様子は、昨日と何も変わらないように見えた。人々はいつものように道を歩き、パン屋からは香ばしい匂いが漂ってくる。

だが、確かな変化が訪れていた。

公園のベンチで、老婆が古い写真立てを懐かしそうに撫でている。その目には、うっすらと涙が浮かんでいた。すれ違う恋人たちが、相手の名前を確かめるように、愛おしそうに呼び合っている。

失われたはずの「記憶」の概念が、夜明けの霧が晴れるように、少しずつ世界に溶け出している。それは同時に、「喪失」という痛みを人々が再び思い出すということでもあった。

トキオは、窓際の、今は誰も座らない空っぽの椅子に視線を移した。

やがて、世界は苦しみに満ちるのかもしれない。資源は枯渇し、争いが生まれるかもしれない。それでも。

窓の外を、一羽の紋白蝶がひらひらと舞っていた。それは幻影ではない、確かな生命の輝き。

誰かを思い出し、悼むことができる。忘れ去られない、ということ。

それが彼の選択した世界の、始まりの朝だった。偽りの楽園に終止符を打ち、痛みと愛に満ちた、不完全で、しかし、あまりにも人間らしい未来を選んだのだ。

トキオは静かに微笑んだ。その顔には、これから始まるであろう苦難への覚悟と、取り戻されたものへの深い慈しみが滲んでいた。

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