残影探偵と折れたタクト

残影探偵と折れたタクト

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第一章 沈黙のコンチェルト

音無朔(おとなし さく)は、死者の沈黙と対話する男だった。彼が足を踏み入れたのは、弦楽器の甘い樹脂の香りと、それとは不釣り合いな鉄錆の匂いが混じり合う、天才ヴァイオリニスト・響野律(ひびきの りつ)の殺害現場だった。高級マンションの最上階。防音仕様のレッスンルームは、床に広がる赤黒い染みを除けば、完璧に整頓されていた。

「警視庁の連中は、ありきたりな強盗殺人で片付けたがっている。だが、腑に落ちない」

先に現場入りしていた旧知の刑事、長谷部が苦虫を噛み潰したような顔で言った。彼の視線の先にあるものこそ、朔がこの事件に呼ばれた理由だった。

壁に、奇妙な影が一つ、焼き付いたように残っている。

これは「残影(ざんえい)」と呼ばれる現象だ。強い未練や情念を抱いて非業の死を遂げた者の影が、その場に留まり続けるという、現代科学では説明のつかない怪奇。警察組織はこの現象を公式には認めないが、ごく一部の人間は、その影が事件解決の鍵を握ることを知っていた。そして、その影の言葉を解読できる唯一の専門家が、元刑事の私立探偵、音無朔だった。

響野律の残影は、生前の彼が得意とした情熱的な演奏姿勢をとっていた。肩に顎を乗せ、ヴァイオリンを構える姿。だが、その右手には、あるべき弓がない。代わりに握られているのは、一本の指揮棒(タクト)だった。それも、真ん中からポッキリと折れた、痛々しい姿の指揮棒だ。

「ヴァイオリニストの影が、なぜ折れた指揮棒を?」長谷部が訝しげに呟く。

朔は目を細め、影をじっと見つめた。残影は言葉を発しない。ただ、死の瞬間の想いを、一つの象徴的な形で示し続けるだけだ。それは、死者が遺した最後のダイイング・メッセージであり、沈黙のコンチェルトだった。

「響野律は、何かを指揮しようとしていた。あるいは、誰かに何かを託そうとしていたのかもしれない」

朔の低い声が、静まり返った部屋に響いた。彼は、論理と証拠が支配する捜査の世界から、一度はドロップアウトした男だ。非合理的な残影に惹かれ、その声なき声に耳を傾けるようになったのは、ある事件で同僚を失い、人の心の割り切れなさを痛感したからだった。

壁の影は、まるで悲壮な旋律を奏でているかのようだった。その折れた指揮棒が指し示す先に、真実がある。朔は確信した。これは単なる物盗りの犯行などではない。この影には、天才の死に隠された、もっと深く、歪んだ物語が秘められている。彼の仕事は、その沈黙の旋律を、一音たりとも聴き逃さずに解読することだった。

第二章 不協和音の証言者たち

朔は、響野律という天才を取り巻く人間たちの間を巡り始めた。彼らが奏でる証言は、どれも美しく調和しているようでいて、その実、耳障りな不協和音を隠していた。

最初に会ったのは、響野の長年のライバルとされた指揮者の黒川だった。「彼の死は音楽界の損失だ。惜しい才能を亡くした」。黒川はそう言って、重々しく頭を垂れた。しかし、その瞳の奥には、安堵にも似た微かな光が揺らめいているのを朔は見逃さなかった。黒川は最近、あるコンクールで響野と審査を巡って激しく対立していたという噂があった。折れた指揮棒は、指揮者である彼を暗示しているのか?

次に、響野が所属していたオーケストラの団員たちに話を聞いた。誰もが口を揃えて彼の才能を絶賛する。「彼のヴァイオリンは神に愛されていた」「我々凡人とは次元が違った」。だが、その賞賛の言葉の裏には、焦げ付くような嫉妬の匂いがした。完璧すぎる才能は、時に周囲の人間を絶望させる劇薬となる。彼らの中に、その劇薬に耐えきれなくなった者がいても不思議ではなかった。

そして最後に、朔は響野の妹、詩織(しおり)と対面した。兄の死に憔悴しきった彼女は、陽の当たらない温室で育った花のように儚げだった。彼女は兄の才能を誰よりも信じ、献身的に支えてきたという。

「兄は…音楽の神様に全てを捧げた人でした。最近は、新しい曲を作ることに没頭していて…」

詩織は震える声で語った。彼女の瞳は潤み、深い哀しみに満ちている。朔は、彼女の純粋な兄への愛情に、わずかな違和感を覚えた。それは、敬愛というにはあまりに強すぎる、信仰にも似た狂信的な光だった。

朔は響野の部屋を再び訪れた。彼の書斎で、未発表だという楽譜の束を見つける。ページをめくる朔の手が、ふと止まった。そこに書かれていた音符は、人間の指が物理的に演奏可能な範囲を逸脱していた。異常なまでの跳躍、神速のパッセージ。これは、もはや人間が奏でるための音楽ではない。まるで、理想の音を追い求めるあまり、狂気に陥った者の叫びのようだった。

そして、最後のページに、鉛筆で書かれた小さな文字を見つけた。

『この曲は詩織に。僕の音を、君の指揮で完成させてくれ』

朔の脳裏で、バラバラだったピースが繋がり始める。残影が握っていた折れた指揮棒。ライバルだった指揮者の黒川。そして、兄に全てを捧げた妹。

響野律は、なぜ演奏不可能な曲を書いたのか。そして、なぜ妹にそれを託そうとしたのか。

不協和音の中に、真実の旋律が隠されている。だが、それはあまりにも悲しく、おぞましい音色を奏でようとしていた。

第三章 折れたタクトのレクイエム

朔は、一つの仮説に辿り着いていた。だが、それを確かめるためには、最後の証拠が必要だった。彼は響野の主治医を突き止め、衝撃的な事実を知る。

響野律は、進行性の神経疾患に侵されていた。それは、指先の感覚を徐々に奪っていく、演奏家にとっては死刑宣告にも等しい病だった。

天才は、その玉座から引きずり下ろされようとしていたのだ。

もはや、彼の指はかつてのように完璧な音を紡ぐことはできなかった。プライドの高い彼が、衰えゆく自分を世間に晒すことを許せるはずがない。だから彼は、常人には演奏不可能な楽譜を書いた。それは、自らの内なる理想の音楽を紙の上に定着させる、唯一の手段だったのだ。

朔は詩織の元へ向かった。彼女は、兄のレッスンルームで、彼の遺したヴァイオリンを静かに磨いていた。

「詩織さん。あなたのお兄さんは、もうヴァイオリンを弾けなくなっていた。そうですね?」

朔の静かな問いに、詩織の肩が小さく震えた。彼女はゆっくりと顔を上げ、その瞳は、もはや悲しみではなく、底知れないほどの静けさを湛えていた。

「…ええ。神様は、兄から全てを奪おうとしていました。あんなに愛していた音楽を、その手から取り上げようとしていたんです」

「残影が握っていた折れた指揮棒…あれは、演奏家としての彼のキャリアが終わったことの象徴だった。そして、指揮者である黒川さんへの嫉妬や、あなたに後を託したいという願いが込められていた。僕はそう考えていました」

朔は続けた。

「だが、違った。あの影が示していたのは、もっと単純で、もっと残酷な真実だった」

朔は詩織の目を見据える。

「あなたですね。響野律を殺したのは」

詩織は、ふっと微笑んだ。それは聖母のようにも、悪魔のようにも見える、不思議な笑みだった。

「私は、兄を守ったのです」

彼女の告白は、静かなレクイエムのように響いた。

彼女は、兄が天才でなくなっていく苦しみに耐えられなかった。不完全な音を奏でる兄の姿を見たくなかった。彼女にとって、兄は完璧な音楽の化身であり、信仰の対象だった。その神話が崩れることを、彼女は許せなかったのだ。

「あの日、兄は私に言いました。『もう終わりだ』と。私は、そんな兄を見たくなかった。だから、兄が最も美しい音を奏でていた記憶のまま、永遠にしてあげたのです」

凶器は、兄が大切にしていた指揮棒だった。彼女はそれで兄の命を奪った後、それを折り、兄の手に握らせた。

「兄の音楽は、誰にも指揮させない。この私以外には」

それは、兄の伝説を守ろうとする歪んだ愛情であり、彼の音楽を独占しようとする究極の独占欲の表れだった。

朔は詩織を逮捕した。事件は解決した。だが、彼の心には、重い沈黙だけが残った。

残影が示していたのは、犯人へのヒントだけではなかったのかもしれない。それは、天才としての死を選んだ男の絶望と、それでも妹に音楽を託したかった切ない愛情、そして、その愛情によって殺された男の、声なき叫びだったのではないか。

数日後、朔は一人、自分の事務所にいた。窓から差し込む夕陽が、壁に彼の影を長く伸ばしている。その影は、まるで何かを指揮するかのように、静かに佇んでいた。

論理や証拠だけでは決して辿り着けない、人の心の深淵。死者の影が奏でる沈黙のコンチェルトに耳を傾けること。それが、自分に課せられた宿命なのだと、朔は改めて感じていた。影は、これからも語りかけてくるだろう。割り切れない想いを、救われなかった魂の旋律を。そして自分は、それを聴き続けるのだ。永遠に終わらないレクイエムのように。

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