第一章 錆びた約束
柏木聡は、歴史を「死体」として扱ってきた。整然と並べられ、分類され、解剖されるべき、感情のない事実の集合体。それが彼の信条であり、研究者としての矜持だった。だからこそ、指先に纏わりつくこの奇妙な能力は、呪いでしかなかった。古い物に触れると、持ち主の残留思念が、生々しい感情の奔流となって流れ込んでくる。それは研究のノイズでしかなかった。
「柏木君、これをお願いできるかね」
老教授が差し出したのは、桐の小箱だった。博士課程の聡にとって、指導教官である彼の言葉は絶対だ。渋々受け取ると、ずしりとした重みが掌に伝わった。中には、土と錆にまみれた一枚の金属板。旧日本軍の認識票だった。
「先日、山中の工事現場から偶然出土したものでね。所属部隊も氏名も削り取られていて、公式記録には何もない。だが、君なら何か分かるかもしれん」
教授の目は、聡の「能力」を知っているかのように意味ありげに光っていた。聡はそれを知らないふりをして、無機質な声で応えた。
「…やってみます」
研究室に戻り、聡はラテックスの手袋を二重にはめた。気休めにしかならないことは分かっていたが、儀式のようなものだった。ピンセットで慎重に認識票をつまみ上げ、デスクライトの下で観察する。表面は腐食が進み、刻まれていたであろう文字は判読不能だ。だが、裏返した瞬間、聡は息を呑んだ。稚拙で、しかし力強い線で、三文字だけが彫られていた。
『待て』
その文字を見た途端、聡の頭を鈍痛が襲った。まずい。手袋越しでも、これほど強い残留思念は初めてだった。だが、好奇心が恐怖を上回った。彼は覚悟を決め、手袋を外し、冷たい金属にそっと指先で触れた。
瞬間、世界が反転した。
土の匂い、火薬の煙、そして腐臭。湿った落ち葉が頬を撫でる感触。耳鳴りの奥で、誰かの荒い息遣いと、心臓が肋骨を叩く激しい鼓動が響く。これは、ただの感情の断片ではない。明確な意志があった。恐怖と、絶望と、そしてそれら全てを凌駕するほどの、焼け付くような焦燥感。『間に合わない』という叫び。そして、脳裏に浮かぶのは、結った黒髪を揺らし、心配そうに眉を寄せる、見知らぬ若い女の顔。
――待っていてくれ。必ず、帰るから。
声にならない声が、聡自身の喉から迸りそうになった。彼は喘ぎながら認識票から指を引き剥がし、椅子から転げ落ちた。心臓が激しく波打ち、冷や汗が背中を伝う。ただの「無念」ではない。これは、果たされなかった「約束」の痛みだ。
聡は床に蹲ったまま、錆びた金属板を睨みつけた。これはもはや、研究対象などではなかった。彼の平穏な日常を、根底から揺るがす呪いの欠片。そして同時に、無視することのできない、悲痛な叫びそのものだった。
第二章 声なき者の追跡
あの日以来、聡の日常は侵食され始めた。眠れば、見知らぬ女が夢枕に立ち、彼の名を呼ぶ。文献を読んでいても、ふとした瞬間に土と死の匂いが鼻をつく。あの兵士の感情が、聡の中で生き続けているかのようだった。呪いから逃れるには、その源を突き止め、解放するしかない。聡は、これまで避けてきたフィールドワークに、自ら足を踏み入れることを決意した。
認識票に刻まれた『待て』という三文字と、出土した場所だけが手がかりだった。聡は大学の書庫に籠もり、該当地域で終戦間際に起こった戦闘記録を片っ端から洗い出した。それは歴史の教科書には載らない、忘れ去られた局地戦だった。記録はほとんど残っておらず、公式には「全員玉砕」とだけ記されている。英雄的な響きとは裏腹に、そこには名もなき兵士たちの無数の死が塗り込められているはずだった。
聡は何度も認識票に触れた。苦痛を伴う行為だったが、そうしなければ前に進めなかった。触れるたびに、新たな感覚が流れ込んでくる。故郷の村を流れる小川のせせらぎ。夏祭りの夜に見た、ささやかな花火の光。そして、いつも傍らにいた、あの黒髪の女の温もり。彼女は「千代」という名だった。兵士の記憶が、聡自身の記憶であるかのように鮮明になっていく。
「客観性を失っている…」
聡は自嘲した。事実を積み上げるはずの歴史学徒が、死者の感情に引きずられている。だが、もう引き返せなかった。兵士の無念は、聡自身の無念となりつつあった。千代という女性に約束を果たせなかった彼の絶望を、どうしても晴らしてやりたかった。それは、研究者としての探究心とは全く異質の、人間的な衝動だった。
数週間にわたる調査の末、聡は一つの可能性に辿り着いた。戦闘があった山からほど近い場所に、戦時中、多くの若者を戦地へ送り出した小さな村があることを突き止めたのだ。兵士が追体験させる故郷の風景と、その村の古い写真が奇妙に一致した。
聡はリュックに最小限の荷物を詰め、鈍行列車に乗り込んだ。車窓から流れる景色が、兵士の記憶の中の風景と重なっていく。田園を渡る風の匂い、遠くで鳴くひぐらしの声。全てが懐かしく、そして切なかった。
自分は一体、何を探しに来たのだろう。歴史の事実か、それとも、一人の死者の魂の救済か。答えは出ないまま、列車は目的地の無人駅に滑り込んだ。降り立ったホームに漂う草いきれの濃密な匂いは、あの最初の追体験で感じたものと、全く同じだった。
第三章 裏切りの真実
村は、時が止まったかのように静まり返っていた。聡は村役場に併設された小さな郷土資料館の扉を叩いた。老齢の館長は、東京から来たという若い研究者を珍しそうに、そして温かく迎え入れてくれた。
聡は事情を説明し、兵士の特徴、特に「千代」という名の女性との関係について尋ねた。館長は深く考え込んだ後、倉庫の奥から埃をかぶった木箱を運んできた。中には、戦没者たちの遺品や、家族に宛てた手紙が収められていた。
「この中に、何かあるやもしれん」
聡は礼を言い、一枚一枚、黄ばんだ便箋を丁寧に調べていった。そして、ある手紙の束に目が留まった。差出人の名は「宮田誠」。そして、宛名は「杉浦千代様」。心臓が大きく跳ねた。手紙を読んでいくと、そこには兵士が聡に追体験させた、千代へのひたむきな愛情と、故郷への想いが瑞々しい筆致で綴られていた。
『千代、元気でいるか。こっちは相変わらずだ。でも、お前の顔を思い浮かべれば、どんな辛いことでも乗り越えられる。戦争が終わったら、村の神社で祝言を挙げよう。約束だ。だから、待っていてくれ』
聡の指が震えた。認識票に刻まれた『待て』は、彼女への最後の言葉だったのだ。彼はやるせない気持ちで最後の一通を手に取った。それは、これまで読んできた手紙とは明らかに様子が違っていた。インクは滲み、文字は走り書きで、切迫した空気が紙面から伝わってくる。日付は、公式記録で部隊が「玉砕」したとされる日の前日だった。
『千代、聞いてくれ。もう、こんな戦いに意味はない。俺は死にたくない。お前の元へ帰りたい。明日、俺はここを抜けて、投降する。臆病者と罵られても構わない。名誉なんかよりも、お前との未来が欲しい。生きて、必ずお前の元へ帰る。だから…』
手紙はそこで途切れていた。聡は絶句した。玉砕ではなかった。彼は、生きることを選んだのだ。千代との約束を果たすために。では、なぜ彼は死んだのか?
聡が呆然としていると、館長がそっと口を開いた。
「宮田誠さん…気の毒な方じゃった。この村の出身でな、戦後、彼と同じ部隊にいたという人がこっそり教えてくれたんじゃ。彼は、投降しようとしたところを…味方に見つかり、その場で…」
言葉の続きは、聞かなくても分かった。聡の脳裏に、最後の光景が雷のように突き刺さった。
仲間だと思っていた銃口が、自分に向けられる絶望。千代の名を叫ぼうとして、声にならない呻き。胸に撃ち込まれたのは、敵の弾丸ではなく、味方の冷酷な一弾だった。「国のため」という大義名分のもとに、個人のささやかな幸福への願いが、無慈悲に踏み潰された瞬間。
聡が感じ続けていた強烈な「無念」の正体は、これだったのだ。敵に殺されたのではない。信じていたものに裏切られ、愛する人との約束を、最も残酷な形で断ち切られたことへの、血を吐くような絶望だった。
歴史とは、勝者が紡いだ美しい物語だ。だがその裏では、宮田誠のような声なき者たちの、無数の真実が握り潰されている。聡が信じてきた、客観的で、公平であるはずの「歴史」というものが、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていくのを感じた。
第四章 七十年の待ち人
館長に教えられ、聡は村外れの小さな古民家を訪ねた。引き戸を開けると、縁側で静かにお茶を啜る、背中の丸まった一人の老婆がいた。彼女の顔の深い皺の一つ一つが、長い年月の物語を刻んでいるようだった。
「杉浦千代さん、ですね」
聡が声をかけると、老婆――千代は、ゆっくりと顔を上げた。その穏やかな瞳が、聡をじっと見つめる。聡は懐から錆びた認識票と、宮田誠の最後の手紙を、震える手で差し出した。
「宮田誠さんからの、預かりものです」
千代の目が、かすかに見開かれた。彼女は皺だらけの手で、まるで宝物に触れるかのように、そっと認識票を受け取った。その裏に刻まれた『待て』の三文字を、何度も何度も指でなぞる。やがて、その乾いた瞳から、一筋の涙が静かに頬を伝った。
「…あの方は、約束を、守ってくださったんですね」
聡は、誠の死の真相を伝えるべきか迷った。しかし、残酷な真実を伝えることが、彼女のためになるとは思えなかった。聡はただ、深く頭を下げた。
「はい。彼は最後まで、あなたのことを想っていました」
千代は、聡から手紙を受け取ると、それを大切そうに胸に抱いた。
「ずっと、待っていました。周りの人は皆、もう諦めろと言いました。国は彼を軍神様だと祀り上げました。でも、私には分かっていました。あの方は、そんなもののために死ぬような人じゃない。ただ、私のところに帰りたかっただけの人です。だから、ずっと。もし帰って来たら、おかえりなさいと言ってあげようと…」
その言葉は、聡の心を強く打った。年表にも記録にも残らない、七十年以上にもわたる、たった一人の女性の待ち続けた時間。それこそが、何よりも雄弁な「歴史」そのものではないのか。
聡は、自分がこれまで追い求めてきたものが、いかに空虚であったかを悟った。歴史とは、英雄や国家が作る壮大な叙事詩ではない。それは、誠が千代を想う心や、千代が誠を待ち続けた時間といった、名もなき人々の感情の織物なのだ。自分の能力は呪いなどではなかった。歴史の行間からこぼれ落ちた、声なき声を聞き、その想いを未来へ繋ぐための、天啓だったのかもしれない。
村を去る前、聡はもう一度、誠が命を落とした山に向かって深く一礼した。ポケットの中の認識票に、そっと指で触れる。すると、いつも彼を苛んでいたあの激しい感情の奔流ではなく、まるで春の陽だまりのような、微かで、しかし確かな温もりが、指先から心へと静かに流れ込んできた。それは、言葉にならない「ありがとう」という想いのように感じられた。
大学に戻った聡は、博士論文のテーマ変更届を提出した。新しいテーマは『歴史記述から零れ落ちた“個人感情”の再発掘』。それは、彼の学者としての、そして一人の人間としての、新たな始まりを告げるものだった。歴史という「死体」に、もう一度魂を吹き込む。それが、これからの自分の生涯をかけた仕事になるだろうと、聡は確信していた。