忘れ形見の香り

忘れ形見の香り

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第一章 湿った土と金木犀

雨の匂いが、死んだ感情を呼び覚ます。

水野楓がその事実に気づいたのは、梅雨入りを告げる最初の長雨が、アスファルトを黒く濡らした夜のことだった。

オフィスビルの二十階。窓の外では、街の灯りが雨粒に滲んで、まるで泣いているかのように揺らめいている。最終の電車を逃した楓は、一人きりでデザインの修正作業に没頭していた。静寂を支配するのは、規則正しいキーボードの打鍵音と、空調の低い唸りだけ。効率。理性。それが楓の鎧であり、盾だった。感情は思考を鈍らせ、生産性を下げるノイズに過ぎない。そう信じて、もう十年近く生きてきた。

ふと、鼻腔を奇妙な香りが掠めた。

それは、湿った土の匂い。そして、季節外れの金木犀の、甘くも切ない香り。二つが混じり合った、あり得ない組み合わせの香りだった。

「…なんだろう」

換気口からだろうか。楓は眉をひそめ、作業の手を止めた。しかし、この密閉されたオフィスビルで、外の土の匂いがこれほど強く届くはずがない。ましてや、六月のこの時期に金木犀が香るなど、常識的に考えられなかった。

その時だった。

視界の端、資料棚が並ぶ薄暗い廊下の奥に、黒い人影のようなものが立っているのに気づいた。一瞬、清掃員かと思ったが、時刻は深夜二時を回っている。影は微動だにせず、ただそこに在るだけ。輪郭は曖昧で、まるで濃い煙が集まって人の形を成しているかのようだ。

心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。楓は息を殺し、モニターの光に身を隠すようにして影を窺う。見間違いだ。疲れているんだ。そう自分に言い聞かせようとするが、あの異様な香りが、それがただの幻覚ではないと警告している。

恐怖が、鎧の隙間から冷たい指を差し込んでくる。楓は唾を飲み込み、ゆっくりと立ち上がった。意を決して廊下の照明スイッチに手を伸ばし、躊躇いがちに押す。

カチリ、という乾いた音とともに、蛍光灯が瞬きながら廊下を白く照らし出した。

そこには、誰もいなかった。

影も、香りも、まるで最初から存在しなかったかのように消え失せていた。

「…気の、せいか」

安堵の息を吐きながらも、背筋を伝う冷たい汗は止まらない。楓は足早に自分のデスクに戻り、急いでパソコンの電源を落とした。もう仕事どころではない。一刻も早く、この場所から立ち去りたかった。

タクシーを拾い、自宅マンションの部屋に逃げ込むまで、楓は何度も背後を振り返った。雨音に混じって、あの湿った土と金木犀の香りが追いかけてくるような気がしてならなかった。

これが、始まりだった。

雨が降るたびに、それは現れるようになった。香りとともに現れ、雨が上がるとともに消える、黒い影。楓が十年間、頑なに蓋をしてきた心の奥底で、何かが静かに軋み始めていた。

第二章 影の浸食

影は、確実に楓の日常を浸食し始めた。

最初のうちは、オフィスの廊下の隅や、夜道の電柱の陰など、楓から距離を置いた場所に現れた。しかし、雨が降る日を重ねるごとに、その距離は縮まっていった。満員電車の向かいのホーム。カフェの窓の外。そしてついに、自宅の寝室のドアの隙間から、こちらを窺うように。

影は何も語らず、何もしてこない。ただ、そこにいる。その圧倒的な存在感が、楓の理性を少しずつ削り取っていく。そして、影が現れる前には、必ずあの「湿った土と金木犀の香り」が漂うのだ。それは楓にしか感じられないらしく、同僚に尋ねても怪訝な顔をされるだけだった。

「水野さん、最近顔色が悪いですよ。ちゃんと眠れてますか?」

打ち合わせの帰り際、後輩の沙織が心配そうに声をかけてきた。

「ええ、大丈夫。少し寝不足なだけ」

楓は作り笑いを浮かべて答えた。他人に弱みを見せること、ましてや自分の内面を吐露することなど、彼女には到底できないことだった。人との深い関わりは、予期せぬ感情の波紋を生む。それは、楓が最も恐れることだった。

「無理しないでくださいね。週末はゆっくり休んでください」

沙織の純粋な気遣いが、逆に楓の心を苛んだ。大丈夫ではない。毎晩、雨音に怯え、部屋の隅に立つ影の気配に眠れぬ夜を過ごしている。鏡に映る自分の顔は、目の下に濃い隈が張り付き、まるで生気のない能面のようだった。

楓は、過去を振り返ることを意識的に避けていた。特に、家族の話はタブーだった。会社の身上調査書にも、家族構成の欄には「なし」とだけ記している。脳裏を掠める幼い日の断片を、仕事のタスクリストで無理やり上書きする。弟。その二文字が浮かびそうになるたびに、楓は頭を強く振った。

忘れたのだ。忘れると決めたのだ。あの日の雨も、土の匂いも、甘すぎる花の香りも、すべて。悲しみも、後悔も、罪悪感も、すべて心の奥の箱に詰めて、固く固く鍵をかけたはずだった。

だというのに、影と香りは執拗にその箱をこじ開けようとしてくる。

ある雨の夜、楓はついに自室のベッドの上で、影と至近距離で対峙した。部屋の隅に立っていた影が、音もなく滑るようにベッドサイドに近づいてきたのだ。香りが濃くなり、呼吸が苦しくなる。楓は金縛りにあったように身動きが取れず、ただ暗闇に浮かぶその黒い輪郭を見つめることしかできなかった。

影はゆっくりと手を伸ばすような仕草を見せる。その指先が楓の頬に触れようとした瞬間、楓の中で何かが切れた。

「やめてっ!」

絶叫とともに、楓はベッドから転げ落ちた。同時に、テーブルに置いてあったスタンドライトが床に落ちて大きな音を立てる。その衝撃で我に返ると、影も香りも消えていた。

荒い呼吸を繰り返しながら、楓は震える手で顔を覆った。もう限界だった。このままでは、精神が壊れてしまう。

逃げなければ。

この影から。この香りから。そして何より、この記憶から。

第三章 金木犀の公園

記録的な豪雨が東京を襲った夜。楓は、傘も差さずに家を飛び出した。

テレビは特別警報を告げ、スマートフォンの通知がけたたましく鳴り響いている。だが、楓にはどうでもよかった。背後から、これまでで最も強い「湿った土と金木犀の香り」が迫ってくる。部屋のあらゆる隅から、黒い影が滲み出してくるような錯覚に陥り、パニック状態に陥っていた。

逃げたい。ただ、逃げたい。

ずぶ濡れになりながら、当てもなく夜の街を走る。叩きつける雨が視界を奪い、足元の水たまりが跳ねて全身を冷やす。それでも楓は足を止めなかった。どこへ向かっているのかも分からなかったが、身体が覚えているかのように、ある方向へと導かれていく。

やがて、楓の足は古びた住宅街の一角で止まった。息を切らし、膝に手をついて顔を上げる。そこは、かつて自分が家族と暮らした家があった場所だった。今は取り壊され、小さな公園になっている。

公園の中央には、見上げるほど大きな金木犀の木が一本、豪雨に打たれながら静かに佇んでいた。

なぜ、ここへ?

忘れたはずの場所。地図からも、記憶からも消し去ったはずの場所。

その時、公園の入り口に、あの黒い影がすっと現れた。逃げ場は、もうない。楓は観念したように、その場に立ち尽くした。

影は、雨の中をゆっくりと楓に近づいてくる。不思議と、もう恐怖は感じなかった。むしろ、長い旅の終わりにたどり着いたような、奇妙な安堵感があった。

目の前に立った影。その濃密な黒が、雨粒に溶けるように揺らぎ始める。そして、楓が瞬きをした次の瞬間、影は、幼い少年の姿へと変わっていた。

着ているのは、見覚えのある黄色いレインコート。少し大きめの長靴。くりくりとした大きな瞳で、楓をじっと見つめている。

「……樹(いつき)?」

掠れた声で、楓は十年以上ぶりにその名前を口にした。亡くなった弟、樹。八歳で、この世を去った、たった一人の弟。

楓は、弟の幽霊が現れたのだと思った。自分を責めに、あるいは、恨みを言いに来たのだと。しかし、樹の姿をした影は、ただ悲しそうな目で楓を見つめるだけだった。

そして楓は気づく。この影は、樹ではない。

これは、幽霊などではない。

これは、私だ。

私が捨てた、私の感情だ。

あの日、土砂降りの雨の中、庭の金木犀の木の下で遊んでいた樹。目を離した、ほんの数秒の隙。滑りやすい土の斜面から足を滑らせ、彼は頭を強く打った。楓が駆けつけた時、樹の手は冷たくなり始めていた。湿った土の匂いと、雨に打たれた金木犀の甘い香りが、死の匂いとなって楓の記憶に焼き付いた。

その日から、楓は感情に蓋をした。悲しみは、弱い人間の証だ。罪悪感は、前へ進むための足枷だ。樹への愛情さえも、思い出すだけで胸が張り裂けそうになるから、すべてを忘れることにした。そうしなければ、生きていけなかった。

目の前の影は、楓が心の奥底に封じ込めた、悲しみ、罪悪感、後悔、そして弟への愛情…それら全ての感情が寄り集まってできた、忘れ形見だったのだ。

影は、楓を傷つけようとしていたのではなかった。ただ、気づいてほしかった。忘れないでほしかった。自分という感情が、確かにここに存在することを、認めてほしかったのだ。

第四章 雨上がりの空

「ごめんね、樹」

楓の頬を、雨なのか涙なのか分からない雫が伝い落ちる。

「ごめん…ひとりにして、ごめんね…」

言葉が、嗚咽に変わる。楓は、樹の姿をした影に向かって、ゆっくりと手を伸ばした。あの日、握ることのできなかった、冷たくなっていく弟の小さな手を思い出しながら。

指先が、影に触れる。冷たくも、熱くもない。ただ、自分の心の一部に触れているような、不思議な感覚があった。

「ずっと、会いたかった。ずっと、大好きだよ」

堰を切ったように、封じ込めていた想いが溢れ出す。十年分の悲しみが、十年分の後悔が、十年分の愛情が、濁流となって楓の心を洗い流していく。

すると、樹の姿をした影は、ふっと優しく微笑んだ。その表情は、幼い頃、楓が大好きだった弟の笑顔そのものだった。影は光の粒子となり、きらきらと舞い上がりながら、楓の胸の中へと吸い込まれていくように溶けていった。

同時に、ずっと鼻の奥にまとわりついていた、あの湿った土と金木犀の香りも、すっと消えていた。

降りしきっていた雨が、いつの間にか止んでいる。雲の切れ間から月の光が差し込み、濡れた公園を幻想的に照らし出していた。

後日、楓の日常に、もう影が現れることはなかった。雨が降っても、あの奇妙な香りがすることもなくなった。

けれど、楓はもう雨の日を恐れてはいなかった。

「水野さん、最近なんだか…表情が柔らかくなりましたね」

オフィスで、後輩の沙織が不思議そうに言った。

「そうかな?」

楓は、はにかむように小さく微笑んだ。

彼女は、失った感情を取り戻したのだ。それは時に胸を締め付けるような痛みを伴う。けれど、喜びも、優しさも、そして誰かを愛おしく思う気持ちも、その痛みと繋がっていることを知った。悲しみや罪悪感から目を背けるのではなく、それらすべてを抱きしめて生きていく強さを、彼女は手に入れたのだ。

週末、楓は新しいスケッチブックと色鉛筆を買った。そして、アパートの小さなベランダに出て、雨上がりの澄んだ空を見上げた。湿った空気の中に、もうあの日の恐怖の匂いはない。代わりに、雨上がりの土の匂いが、どこか懐かしく、穏やかな気持ちにさせてくれた。

楓はスケッチブックを開き、最初のページに、一本の金木犀の木を描き始めた。それはもう、悲しみの記憶の象徴ではなかった。

忘れられることのない、愛した弟との絆の証。

楓は、ようやく、自分の心と、そして過去と、和解することができたのだった。

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