優しい幽霊のいる家

優しい幽霊のいる家

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第一章 哀れな囁きと闇の染み

都会の喧騒が、コンクリートミキサーのように心をかき混ぜ、すり減らしていく感覚に耐えきれなくなった頃、佐伯湊(さえき みなと)はその古民家を見つけた。都心から電車を乗り継ぎ、さらにバスで三十分。木々の匂いが濃くなる山の麓に、その家は忘れられたように佇んでいた。破格の家賃は、おそらく悠久の時が刻んだ柱の傷や、畳の擦り切れに対する慰謝料なのだろうと、彼は好意的に解釈した。

グラフィックデザイナーという仕事は、場所を選ばない。必要なのは、静寂と、高速のインターネット回線、そして締め切りに蝕まれないための鈍感さだ。最後のひとつが決定的に欠けていた湊にとって、この隔絶された環境は理想郷に思えた。

引っ越しの荷解きもそこそこに、最初の夜が訪れた。虫の声がオーケストラのように響き渡り、窓の外の闇は底なしの深淵を思わせる。湊は安堵のため息をつき、硬い布団に体を横たえた。疲労が鉛のように全身に広がり、意識が沈みかける。

その時だった。

――ひっく、ひっく……。

耳鳴りかと思った。しかし、それは明らかに、どこか部屋の隅から聞こえてくる、か細い嗚咽だった。幼い子供が、声を殺して泣いているような、痛々しい響き。湊は身を起こした。音は止んでいる。気のせいか。古い家は夜になると様々な音を立てるという。軋む柱、風に揺れる障子。そうだ、きっとその類だろう。

再び横になると、また聞こえてきた。今度はもっと近く、まるで枕元で囁かれているかのように。それは恐怖を煽るというより、どうしようもない哀れさを誘う声だった。見捨てられた子猫のような、寄る辺ない魂の震え。

湊の心に、怜憫の情が湧き上がった。誰かは知らない。だが、こんなにも悲しげに泣いている。彼は目を閉じたまま、心の中でそっと呟いた。

「かわいそうに……。どうか、安らかに眠れますように」

その瞬間、部屋の空気がわずかに重くなった気がした。閉じた瞼の裏で、部屋の隅の闇が一瞬、インクを垂らしたようにじわりと濃くなった。しかし、疲労困憊の湊がそれを深く追求することはなく、やがて静かな寝息を立て始めた。

翌朝、湊は奇妙なものを見つける。昨夜、闇が濃くなったと感じた隅の壁に、直径十センチほどの、湿ったような黒い染みができていた。古い家だ、雨漏りかもしれない。彼はそう結論づけ、すぐに仕事に取り掛かった。

しかし、その日から、家の中では不可解な出来事が頻発するようになった。テーブルに置いたはずのマグカップが、気づくと床に移動している。閉めたはずの襖が、わずかに開いている。誰もいない二階から、床板が軋む音が聞こえる。

それらはすべて、湊の心の琴線に触れる、ささやかな怪異だった。まるで、構ってほしがる子供の悪戯のように。そしてそのたびに、湊は苛立ちよりも先に、奇妙な同情を覚えてしまうのだった。「寂しいのだろうか」。そう思うたびに、壁の染みは少しずつ、しかし確実に、その面積を広げていった。

第二章 善意が育むもの

季節は夏から秋へと移ろい、湊の新しい生活も軌道に乗り始めていた。時折起こる怪異にも慣れ、彼はそれを家の「個性」として受け入れつつあった。壁の染みは、今や歪んだ人の上半身のような形になり、じっとりと湿気を帯びていたが、彼はそれを見ないふりをした。

ある雨の日、湊は軒下でずぶ濡れになって震えている子猫を見つけた。痩せこけ、片目は膿で覆われている。その姿は、この家で毎夜聞こえる嗚咽と重なった。彼は迷わず猫を抱き上げ、家の中に招き入れた。温かいミルクを与え、柔らかいタオルで体を拭いてやる。猫は最初こそ警戒していたが、やがて湊の膝の上で安心したように喉を鳴らし始めた。

「よかったな。もう大丈夫だ」

湊が猫の頭を撫でながら優しく語りかけた、その夜。異変は、かつてないほど明確な形で訪れた。

深夜、湊は凄まじい物音で目を覚ました。ドン、ドン、と何かを叩きつけるような音。そして、ギリギリと鉄が擦れるような不快な音が続く。子猫はベッドの隅で毛を逆立て、低い唸り声を上げている。

湊が恐る恐る居間へ向かうと、そこには信じられない光景が広がっていた。年代物の桐箪笥が、ガタガタと激しく揺れているのだ。まるで内側から誰かが必死で出ようとしているかのように。そして、その揺れに合わせて、壁の人型の染みから、黒く粘ついた液体がぽたぽたと滴り落ちていた。

恐怖が背筋を駆け上る。これは、ただの家の軋みではない。明らかに、何者かの意思が存在する。湊は後ずさり、子猫を抱きかかえて寝室に逃げ込んだ。震えながら朝を待つ間、すすり泣きは聞こえなかった。代わりに、満足げな、低い笑い声のようなものが聞こえた気がした。

怪異は、湊の「善意」に呼応するようにエスカレートしていった。

リモートでのクライアントとの打ち合わせ。担当者が理不尽な要求を繰り返し、疲弊しきっているのが声から伝わってきた。他のスタッフなら突き放す場面で、湊はつい同情してしまった。

「大変ですよね。心中お察しします。何とかご期待に沿えるよう、僕の方でやってみます」

心からの労りの言葉を口にした直後だった。PCのモニターが一瞬暗転し、そこに、痩せこけて頬の落ち窪んだ、長い髪の女の顔が、ノイズ混じりに浮かび上がった。目は虚ろで、口元だけが歪に吊り上がっている。悲鳴を上げそうになるのを、必死で堪えた。

恐怖は確実に湊の心を蝕んでいた。しかし、彼はその原因が自らの「優しさ」にあるとは、まだ気づいていない。彼はただ、この家に棲む霊が、何か途方もない悲しみを抱えているのだと信じていた。だからこそ、恐怖を感じながらも、心のどこかでその存在を憐れみ続けていた。

「お前も、誰かに優しくされたかっただけなんだよな」

壁の染みに向かってそう呟いた日、染みの中から、はっきりと指のようなものが五本、ぬるりと突き出してきた。湊は、自分が何かとんでもない過ちを犯しているのではないかという、漠然とした不安に襲われ始めていた。

第三章 優しい食卓

嵐が来た。風が家を揺さぶり、雨が窓ガラスを激しく打ちつける。それはまるで、この家の中で育ち続けた何者かの感情が、外の世界と共鳴しているかのようだった。停電が起こり、世界は完全な闇と轟音に支配された。

湊は蝋燭の心許ない光の中で、子猫を抱きしめて息を潜めていた。もう、すすり泣きは聞こえない。その代わりに、家中に満ちているのだ。怨嗟でも、怒りでもない、飢えに似た、ねっとりとした気配が。

二階から、ゆっくりと階段を降りてくる音がした。一歩、また一歩、湿った足音が近づいてくる。それは湊のいる居間の前でぴたりと止まった。静寂。風雨の音さえもが遠のくような、濃密な沈黙。

襖が、ひとりでにスッと開いた。

そこに立っていたのは、女だった。PCのモニターで見た、あの女だ。しかし、今度は幻ではない。骨と皮ばかりに痩せこけた体。床まで届く濡れた黒髪。そして、闇の中でも爛々と輝く、飢餓に満ちた二つの瞳。彼女は実体を持っていた。湊の「優しさ」と「同情」を糧にして、ついにこの世にその身を固着させたのだ。

女は言葉を発しない。ただ、その瞳が湊に何かを必死に訴えかけていた。それは深い悲しみと、救いを求める懇願の色をしていた。少なくとも、湊の目にはそう映った。

恐怖で心臓が凍りつきそうだった。しかし、それを上回る感情が、湊の胸を締め付けた。哀れみだ。この女は、こんな姿になってまで、誰かに助けを求めている。この世に未練を残し、苦しみ続けているんだ。

彼は、自分の中にまだ残っていた最後の理性を振り払った。震える足で立ち上がり、女に向かって一歩、踏み出す。

「大丈夫だ。僕が、君を救ってあげる。何があったんだ。話してくれ」

湊は、恐怖に歪む顔に必死で穏やかな笑みを浮かべ、救いの手を差し伸べた。

その瞬間、女の表情が変わった。悲哀に満ちていたはずの顔が、ぐにゃりと歪む。口が耳元まで裂け、黒く淀んだ歯列が覗いた。虚ろだった瞳に、歓喜と嘲りの光が灯る。

「……ア……リガ……トウ……」

それは声ではなかった。湊の脳内に直接響く、悍ましい思念の奔流だった。

「アナタノ、『ヤサシサ』……トテモ……オイシイ……」

女は湊が差し出した手に、冷たい粘液のような自身の手を絡みつかせた。ぞわり、と全身の産毛が逆立つ。体から、生命力そのものがごっそりと吸い出されていく感覚。湊の優しさ、同情、共感。彼が人間として培ってきた最も尊い感情が、この怪物のための極上の晩餐と化していたのだ。

ここで湊は、絶望的な真実を悟った。彼女は救いを求めてなどいなかった。彼女はずっと、自分を育ててくれる「優しい宿主」を待っていただけなのだ。そして、湊の尽きることのない善意は、最悪の怪物を育て上げる、最高の苗床だったのだ。

第四章 空っぽの器

絶体絶命だった。優しさを向ければ、それは相手を肥えさせる毒になる。かといって、恐怖や憎しみを抱けば、それもまた負の感情として吸収されてしまうだろう。生き延びる道はただ一つ。感情を無にすること。これまで自分が最も大切にしてきた、人間性の核ともいえる部分を、自らの手で殺すことだった。

女は恍惚の表情で湊の生命力を吸い続けている。湊の体は急速に冷え、視界が霞んでいく。だが、彼の頭脳は、死の淵で異常なほど冴え渡っていた。

彼は、最後の賭けに出ることにした。

湊は残された気力を振り絞り、女の目を見据えた。そして、心の中で、これまでの人生で抱いたすべての「優しさ」を呼び起こした。子猫を助けた時の愛おしさ。クライアントを労った時の同情。見知らぬ誰かのために祈った、純粋な善意。それらすべてを凝縮し、純度を高め、黄金に輝く光の奔流のようなイメージを創り上げた。

女の動きが止まる。目の前に差し出された、これまでとは比較にならないほど濃厚で美味な「餌」に、完全に意識を奪われたのだ。

「……これを、全部あげる」湊は心の中で囁いた。「だから、僕から離れてくれ」

それは取引ではなかった。降伏であり、自己犠牲だった。女は歓喜に打ち震え、湊の魂からその光の奔流を、貪るように吸い上げ始めた。

湊は、自分の内側が空っぽになっていくのを感じた。温かいものが消え、色が失われ、世界がモノクロームに変わっていく。愛、共感、憐憫、そういった感情が根こそぎ奪われ、後に残ったのは、ただ冷たい虚無だけだった。

女が感情の奔流を飲み干し、恍惚の絶頂に達した、その一瞬。

湊は、空っぽになった心の器の底に、たった一つだけ残しておいた感情を解き放った。それは、「拒絶」だった。純粋で、絶対的で、いかなる同情も含まない、鋼のような拒絶。

黄金の光の中に仕込まれた、一滴の猛毒。それを口にした女は、けたたましい金切り声を上げた。彼女の存在そのものが、湊の最後の人間性と結合してしまっていた。その人間性が消滅した今、彼女もまた、この世に留まるための楔を失ったのだ。

女の体は陽炎のように揺らめき、端から砂のように崩れ始めた。断末魔の叫びが嵐の音にかき消されていく。やがて、後には何も残らなかった。

夜が明け、嵐は過ぎ去っていた。朝日が部屋に差し込み、壁の染みが、ただの古い家の染みに戻っているのを照らし出す。湊は生きていた。床には、怯える子猫が寄り添っている。彼はその小さな体に手を伸ばし、しかし、何も感じなかった。かつて感じたはずの愛おしさも、守ってやりたいという衝動も、どこにもなかった。ただ、そこに「猫という物体」があるだけだった。

彼は怪物を打ち負かした。その代償として、自分自身の一部を、いや、ほとんどすべてを失った。

数週間後、湊はあの家を出た。家は間もなく取り壊されると聞いたが、何の感慨も湧かなかった。彼は都会に戻り、再びデザイナーとしての仕事を始めた。以前よりも、仕事は捗った。クライアントの無理難題にも、徹夜続きの修正作業にも、心が揺らぐことはない。彼は、極めて優秀で、冷徹な機械になった。

ある日、彼は街角で泣いている子供を見かけた。かつての彼なら、間違いなく駆け寄り、声をかけていただろう。しかし、今の湊は、ただその横を無感動に通り過ぎるだけだった。

優しさとは、何だったのだろう。人を人たらしめるものは、何なのだろう。

優しさを失った自分は、果たしてまだ「人間」と呼べるのだろうか。

答えの出ない問いだけが、空っぽになった湊の心に、乾いた風のように吹き抜けていった。

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