第一章 届かない声、歪んだ調べ
俺、ユウキは、右手の指先でステンレスのマグカップの縁をなぞった。その冷たさが、朝の静寂を切り裂くかのように意識を覚醒させる。隣室から聞こえる引っ越し作業の喧騒は、すでに三日目を迎えていた。俺のアパートは、築年数こそ古いものの、駅近で家賃も手頃だ。何より、静かで落ち着いた環境が気に入っていた。だが、新しい隣人はどうやら、その静寂を打ち破るつもりらしい。
ゴトン、ドサリ、ギシギシ……。重い家具を引きずる音、段ボールを乱暴に置く音、そして、時折聞こえる、どこか奇妙な歌声。それは、まるで古びたオルゴールから流れ出すかのように、不安定で、音程が微妙に外れている。しかし、その歌声には、確かに柔らかな温かさが宿っていた。俺は五年前に事故で視力を失って以来、音と匂い、肌で感じる微細な変化に人生の全てを委ねてきた。だから、わずかな音の揺らぎにも敏感だ。この歌声は、その不安定さゆえに、かえって耳に残る。
三日目の昼下がり、妙な音が加わった。それは、まるで、生きている何かが、息を吸い込み、吐き出すような、湿った、しかし力強い「脈動」だ。壁一枚隔てた隣の部屋から、微かに、ドクン、ドクン、という不規則なリズムが聞こえてくる。最初は、隣人が大型犬でも飼っているのかと思った。だが、その音は次第に、単なる動物の心音とは異なる、より複雑な「生命」の響きを帯びていった。それはまるで、たくさんの異なる心臓が、それぞれの速度で鼓動しているかのような、混沌とした生命の合唱だった。
その日の夕刻、俺のドアがノックされた。トントン、と小気味よい音が二回。俺は立ち上がり、ゆっくりとドアに手を伸ばした。「はい、どちら様ですか?」
「隣に引っ越してきた者です。ユウキさんですよね? 挨拶が遅れてしまって申し訳ありません」
柔らかな、しかしどこか幼さを残した女性の声だった。その声には、先ほど聞こえた歌声と同じ、妙な不安定さがあった。まるで、感情の起伏が激しい子供のようだ。
「ええ、ユウキです。お隣さん、ですか」
「はい! 良かった、ご在宅で。あの、少しばかり、お近づきの印に、と思って」
ガチャリ、とドアノブが回される音がした。俺は、ドアチェーンを外すために、手を伸ばす。すると、ドアの隙間から、甘く、しかしどこか土のような、いや、もっと深く、生命の奥底から湧き上がるような、奇妙な香りが漂ってきた。それは、花の香りとも違う、腐敗した甘さとも違う、しかし本能を強く揺さぶるような、不思議な匂いだった。
「どうぞ、これ。お口に合うと嬉しいんですが」
差し出されたものの感触は、柔らかく、温かかった。まるでもぎ取られたばかりの果実か、あるいは、もっと有機的な何かのように。
「これは……?」
「秘密です! でも、ユウキさんのために、心を込めて作ったんですよ」
彼女の声は、歓喜に満ちていた。しかしその歓喜は、俺の背筋をゾッとさせるような、一抹の狂気を孕んでいるように聞こえた。俺は、その「贈り物」を抱えたまま、ドアを閉めた。手のひらで感じるそれは、わずかに脈打っているようにも思えた。
第二章 香りの迷宮、触覚の警告
ドアを閉め、部屋の中央に戻ると、手のひらの上の「贈り物」は、まだ微かに震えていた。その感触は、粘り気のあるゼリー質と、その中に埋め込まれた小さな粒々の集合体だ。触れると、じんわりと体温が伝わってくる。そして、あの甘く、しかしどこか不穏な香りが、部屋全体に充満し始めた。俺は、その香りに抗うことができなかった。それは、飢えた獣を誘う蜜のような、抗いがたい魅力を秘めていた。
「心を込めて作った」という隣人の言葉が、頭の中でこだまする。まるで、生命を造り出すかのような、その言葉の響き。俺は、恐る恐るそれを口元に運んだ。匂いは甘く、しかし味は、今まで経験したことのない、複雑なものだった。口に入れた途端、脳が痺れるような衝撃が走る。舌の上で、無数の小さな粒が弾ける感覚。それは、甘く、酸っぱく、そして微かに苦い。そして、食道の奥へと滑り落ちるにつれ、全身が震えるような、奇妙な幸福感に包まれた。
数日後、俺は再び隣人に出会った。アパートの郵便受けの前だった。
「ユウキさん!」
その声は、やはり明るく、しかし僅かに掠れていた。
「ああ、お隣さん」
「この前のお礼も言えてなかったですね。美味しかったですか?」
「ええ、とても……独特な味でした」俺は曖昧に答えた。
「ふふ、良かったです。ユウキさんは、目が見えないから、他の感覚がすごく発達しているって聞いたんです。だから、普通のじゃなくて、もっと、こう、五感を揺さぶるようなものが良いかなと思って」
彼女の声は、無邪気な子供のようだったが、その言葉には、俺のプライベートに踏み込むような、不気味な響きがあった。俺が視覚障害者であることは、大家を通じて伝わっているだろうが、あたかも俺の全てを知っているかのような口ぶりだった。
「どうして、私が目が見えないことを知ってらっしゃるんです?」
俺の問いに、彼女は少し黙り込んだ。そして、笑い声を上げた。
「ええ? だって、ユウキさん、いつも壁にぶつかりそうになりながら歩いてるじゃないですか。音でわかるんですよ、音で」
その言葉は、まるで俺の日常を、常に監視しているかのように聞こえた。しかし、彼女の声には悪意がなく、むしろ俺を理解しようとする、一種の「優しさ」が込められているように感じられた。それが、一層俺を不安にさせた。
その日以来、隣の部屋から聞こえる音は、さらに変化していった。ドクン、ドクン、という脈動は、まるで大勢の生き物が集まって、蠢いているかのようだ。そして、時折混じる、ひゅう、ひゅう、という微かな空気の振動。それは、誰かが必死に呼吸している音のようであり、また、何かが変形していく時の、生命の軋みのようでもあった。俺は、隣人が一体何を「育てている」のか、あるいは「創り出している」のか、全く見当がつかなかった。しかし、俺の研ぎ澄まされた聴覚と嗅覚は、あの「贈り物」と同じ、甘く、しかし不穏な生命の香りを、壁の隙間から常に感じ取っていた。それは、俺を誘惑する毒であり、同時に、来るべき恐怖を警告するサインでもあった。
第三章 仄暗い情熱、増幅する生命
夜が深まるにつれ、隣の部屋からの音は、さらに鮮明になった。俺の部屋の壁は、まるで薄い紙切れのように感じられ、隣の部屋で起こっている全ての出来事が、そのまま俺の脳に流れ込んでくるようだった。ドプ、ドプ、と液体が跳ねる音。びちゃり、と粘性のものが壁に付着する音。そして、ぐちゅ、ぐちゅ、と肉が蠢くような、生命が膨張していくような、悍ましい音。それらは、ある種の熱狂的な情熱を帯びていた。
俺は、眠ることができなくなった。隣人の「贈り物」を食べた後から、体の感覚が過敏になった気がする。皮膚の表面を流れる空気のわずかな変化も感じ取り、遠くの街灯の光が壁に当たる音さえも聞こえるようだった。視覚を失って以来、俺の世界は音と匂いと触覚で満たされていたが、今やそれは、以前にも増して鮮烈で、時に過剰な情報となって俺を襲った。
ある日の夕食時、俺はまたしても隣人からの「贈り物」を受け取った。今回は、前回のものよりも複雑な形状をしていた。手のひらで触れると、まるで小さな枝のようなものが幾本も伸びており、その先には、硬い殻のようなものが付いている。そして、前回と同じ、あの甘く、しかし不穏な生命の香りが、俺の嗅覚を刺激した。
「ユウキさん、どうですか? 私、最近、すごく良いアイデアが浮かんだんです! ユウキさんが、もっともっと、この世界を『感じられる』ようにするために」
彼女の声は、興奮で上ずっていた。その言葉には、純粋な喜びと、そして、まるで俺の人生を支配しようとするかのような、深い執着が込められているように聞こえた。
「これ、どうやって食べるんですか?」俺は尋ねた。
「ああ、それはね、こうやって、この硬い部分を剥がして、中の柔らかいところを食べるんです。ちょっと癖があるけど、栄養満点ですよ!」
彼女は、まるで子供に食べ方を教える母親のように、優しく、しかし有無を言わせぬ口調で説明した。俺は言われるがままに、その「贈り物」を口にした。今回の味は、前回よりもさらに複雑で、脳の奥深くに直接響くような、甘美な苦みを伴っていた。食べ終わった後、俺の体は、まるで細胞の一つ一つが活性化されたかのように、熱を帯び、全身に未知の力が漲るような感覚に襲われた。同時に、俺の意識は、隣の部屋から聞こえる「生命の合唱」へと、より一層深く引き込まれていった。
俺は、このままではいけないと直感した。隣人の「善意」は、俺の知らないところで、確実に俺の身体と精神を侵食している。俺は、勇気を振り絞って、隣人の部屋を訪れる決意をした。ドアの向こうには、俺の世界を根本から変える、何かがある。この恐怖を直視しなければ、俺は、あの甘い「贈り物」によって、完全に別の存在に変えられてしまうだろう。俺は、震える手で、ドアノブに触れた。隣の部屋からは、まるで地球の核が脈打つかのような、途方もない生命の鼓動が聞こえていた。
第四章 善意の檻、異形の楽園
ドアノブは、ひんやりと冷たかった。しかし、それは何かの暗示のように、俺の手のひらにぴったりと吸い付いた。ガチャリ、と音を立ててドアが開く。中は真っ暗だった。だが、俺の研ぎ澄まされた嗅覚は、部屋中に充満する甘く、しかし腐敗したような、あの「生命の匂い」を捉えた。それは、前回受け取った「贈り物」の匂いそのものだった。そして、俺の聴覚は、部屋の奥から聞こえる、途方もない「音」の洪水に襲われた。
それは、無数の生き物が蠢く音だった。びちゃり、ぐにゅり、ひゅうひゅう……。形容しがたい、しかし確実に「生命」を持つものの音が、部屋中に満ち溢れていた。その音は、まるで俺の耳元で囁かれているかのように近く、そして、俺の脳を直接揺さぶるかのように、鮮烈だった。
「ユウキさん! いらっしゃいませ! 驚かせちゃいました?」
奥から、隣人の声が聞こえた。その声は、歓喜に満ち、同時に、深い愛情を湛えていた。
「何、ですか、これは……」
俺は、恐怖で声が震えるのを抑えきれなかった。足元の感触は、柔らかく、そして湿っている。まるで、足の裏に無数の有機物が張り付いているかのようだった。
「ふふ、ユウキさんのために、心を込めて作った『世界』ですよ。ユウキさんは、もう目が見えないでしょう? だから、私がユウキさんの『失われた世界』を、もう一度、創ってあげようと思ったんです」
隣人の声は、純粋な善意に満ちていた。しかし、その善意が、俺を底なしの恐怖へと突き落としていく。
「ここには、ユウキさんがかつて見ていた、美しい花々があるんです。ユウキさんが好きだった、あの夕焼けの色も、私が再現してあげました。たくさんの動物たちも、ユウキさんのために呼んであげましたよ。全部、ユウキさんのために、私がひとつひとつ、大切に創り上げたんです」
彼女の言葉のたびに、部屋の奥から、ガサガサ、ピチピチ、と、これまで聞いたことのない、しかし確かな生命の気配が強まった。俺の足元の有機物は、まるで生きているかのように蠢き、俺の足首に絡みつこうとしている。
俺は、足元のものを蹴飛ばし、一歩後ずさった。その時、俺の触れた壁に、ぬるりと湿った感触があった。それは、何本もの細い管が張り巡らされた、巨大な臓器のような感触だった。そして、その管の一つ一つから、脈打つような振動が伝わってくる。
「怖いですか? 大丈夫。これは全部、ユウキさんのため。私が、ユウキさんのために創り上げた、新しい『視界』なんですから」
彼女は、俺の腕を掴んだ。その手のひらは、冷たく、そして指先は、まるで吸盤のように粘りついていた。
「ほら、見てください。この子たちを。ユウキさんが『見る』ことができないから、私がユウキさんの代わりに『見て』、そして、ユウキさんのために『創った』んです」
俺の耳に、隣人の「創造物」の声が直接響いた。それは、鳥のさえずりのようでもあり、虫の羽音のようでもあり、そして、人間の苦悶の声のようでもあった。その音の全てが、甘く、そして悍ましい「生命の匂い」を伴って、俺の脳を侵食する。
俺は、ここでようやく理解した。隣人は、俺の失われた視覚を「再現」しようとしていたのだ。しかし、彼女の「再現」は、倫理も常識も超越した、途方もない生命の歪曲だった。彼女は、俺が「美しい」と感じていた世界を、自らの手で、肉と骨、そして、無数の生命を組み合わせることによって、「再構築」しようとしていたのだ。それは、視覚を失った俺の心に巣食っていた、「もう一度世界を見たい」という渇望を逆手に取った、純粋な狂気だった。俺の部屋に届いた「贈り物」は、彼女が作り出した、異形の生命の一部だったのだ。そして、俺は、その「贈り物」を口にすることで、彼女の「世界」と繋がってしまった。俺の研ぎ澄まされた感覚は、この「異形の楽園」の全てを、嫌というほど鮮明に捉えてしまったのだ。
第五章 光なき知覚、新たな生の選択
俺は、隣人の手を振り払った。その場から逃げ出そうとしたが、足元に絡みつく無数の有機物が、俺の動きを阻む。俺の耳は、歓喜に満ちた隣人の声と、俺のために「創られた」異形の生命たちの、混沌とした合唱で埋め尽くされていた。俺は、彼女の「善意」がどれほど深く、そして途方もない悪意に満ちていたかを、今、この全身で味わっていた。
「どうしたんですか、ユウキさん? 怖がらないで。これは全部、ユウキさんのため。ユウキさんに、もう一度、この素晴らしい『世界』を見てもらうために!」
彼女の声には、俺の恐怖を理解できない、純粋な愛情が込められていた。それが、俺にとっては何よりも恐ろしかった。彼女は、本当に俺を愛し、俺のために全てを尽くそうとしていたのだ。だが、その愛は、俺の世界を破滅へと導く、甘美な毒だった。
俺は、もがきながら、彼女の部屋のドアまでたどり着いた。背後からは、彼女の悲しみに満ちた声と、異形の生命たちのざわめきが追いかけてくる。俺は、ドアを力任せに閉め、鍵をかけた。そして、その場に崩れ落ちた。
部屋に戻った俺は、静かにベッドに横たわった。隣の部屋からは、まだ微かに、あの生命の合唱が聞こえてくる。しかし、もう俺は、あの音に恐怖を感じてはいなかった。むしろ、深い悲しみと、そして、ある種の理解が胸にこみ上げていた。
隣人は、俺の失われた視覚を、純粋な「善意」から取り戻そうとしていた。だが、彼女の「世界」は、俺が想像するよりもはるかに歪んでおり、そして、その「善意」は、俺にとっての地獄だった。俺は、これまでの人生で、「見えること」を強く渇望してきた。しかし、今、俺は、その渇望が、どれほど危険なものであったかを悟ったのだ。
失われた視覚を取り戻すことだけが、幸福ではない。俺には、音があり、匂いがあり、触覚がある。それらは、俺がこれまで生きてきた中で培ってきた、かけがえのない感覚だ。そして、それらの感覚が、隣人の「狂った善意」から、俺自身を救い出したのだ。
俺は、もう「目が見えること」を強く願わない。俺は、俺自身の「見えない世界」を、大切に生きることを選ぶ。隣人が創り出した、視覚によってしか捉えられない異形の美しさよりも、俺が五感で感じ取る、この世界の不確かな美しさの方が、はるかに価値がある。
夜が明け、太陽が昇る。その光は、俺の目には届かない。しかし、俺の肌は、確かにその温かさを感じ取っている。隣の部屋の音は、いつの間にか止まっていた。あるいは、俺の意識が、もうその音を、恐怖として捉えなくなっていたのかもしれない。俺は、あの部屋で生まれた「生命」たちが、これからどうなるのかを知らない。だが、俺は、もう迷うことなく、自分の足で、新しい一歩を踏み出すことができる。俺にとっての本当のホラーは、目に見えない異形ではなく、「善意」という名の檻に閉じ込められ、自分の渇望を見失うことだったのだ。俺は、視えざる淵の囁きから、本当の自由を見つけた。