恐怖の継承者

恐怖の継承者

4 6281 文字 読了目安: 約13分
文字サイズ:
表示モード:

第一章 ノイズの雨

鉄錆の味がする。

雨の匂いじゃない。

口の中だ。

舌の根が痺れ、奥歯の隙間から、じわりと血の味が滲み出している。

ワイパーが、悲鳴を上げながらフロントガラスを拭う。

ギュウ、ギュウ、と。

まるで濡れた黒板を爪で引っ掻くような音が、鼓膜を直接撫で回す。

「……ッ」

こめかみに指を突き立てる。

頭蓋骨の内側で、誰かがスプーンを使って脳味噌をかき回している感覚。

痛いんじゃない。

うるさいのだ。

『やめて』

『くさい』

『こっち見んなよ菌がうつる』

後部座席から、ダッシュボードの隙間から、エアコンの送風口から。

何百もの囁き声が漏れ出し、車内に充満していく。

これが、死に際の音だ。

この峠道で絶命した者たちの、最後の瞬間の電気信号。

それが俺の脳神経に無理やり割り込み、過負荷をかけてくる。

助手席の錠剤瓶を掴む。

蓋をねじ切り、白い粒を喉の奥へ放り込んだ。

水はない。

ガリリと噛み砕く。

強烈な苦味が食道を焼き爛れさせながら落ちていく。

数秒後。

世界に分厚い膜が張った。

ノイズが遠のく。

耳鳴りが、遠くの波音のような低周波へと変わる。

ハンドルを握る手が、小刻みに震えている。

汗でシャツが背中に張り付く不快感だけが、俺を現実に繋ぎ止めていた。

視線を落とす。

助手席のシートに、一冊の絵本。

『星のおはなし』

表紙は手垢で黒ずみ、角は犬の耳のように折れている。

妹の、佳奈の遺品。

警察は言った。

『足を滑らせたことによる、転落死です』

『夜間の廃墟への立ち入りは危険だと、あれほど』

事故。

不幸な偶然。

ふざけるな。

俺は聞いたのだ。

霊安室で、冷え切った佳奈の頬に触れた瞬間。

骨が砕ける音ではない。

もっと粘着質な、あざ笑うような音を。

『脱げよ』

『あいつマジでやったぞ』

『きっしょ』

佳奈は、殺された。

肉体的な暴力ではない。

もっと陰湿で、逃げ場のない「悪意」の集合体に、心をすり潰されて。

ヘッドライトが闇を切り裂く。

朽ち果てたゲートの奥、雨に濡れた巨大なドーム状のシルエットが浮かび上がった。

星降り山天文台。

エンジンを切る。

静寂は訪れない。

キィィィィ……。

耳鳴りじゃない。

絵本だ。

助手席の絵本が、生き物のように脈打ち、紙と紙が擦れ合う音を立てている。

俺は息を詰め、表紙をめくった。

天文台の挿絵。

その窓枠の一つ一つに、赤いクレヨンで、びっしりと『目』が描き加えられている。

無数の視線。

それらが一斉に、俺を見ている。

「……そうか」

恐怖で胃液がせり上がってくるのを、無理やり飲み込む。

「歓迎会は、これからのようだな」

俺は絵本をコートの内ポケットにねじ込み、雨の降りしきる闇へと足を踏み出した。

第二章 共鳴する煉獄

カビと、腐った畳のような臭気。

エントランスホールは、巨大な胃袋の中のようだった。

湿度が異様に高い。

肌にまとわりつく空気が、ねっとりと重い。

ザリッ。

靴裏でガラス片を踏む。

その音が、静まり返ったホールに波紋のように広がる。

視界がぐにゃりと歪んだ。

ホールの隅。

埃を被った受付カウンターの陰。

暗がりで、何かが蠢いている。

「ねえ、知ってる?」

子供の声だ。

高い、無邪気な、鈴を転がすような声。

「あいつ、給食のパン、トイレで食べてるんだって」

「まじで? 便所飯じゃん」

「きたねー!」

「うわ、近寄んなよ!」

視界の端に、影が走る。

一つじゃない。五つ、六つ。

半透明の子供たちが、円を作って回っている。

中心には、うずくまる小さな影。

これは幻覚じゃない。

過去の残響(エコーズ)。

この場所に染み付いた、濃密な悪意の記憶が、俺の脳をスクリーンにして再生されている。

うずくまる影が、ゆっくりと顔を上げた。

目がない。

鼻も、口もない。

のっぺらぼうの顔面に、黒いクレヨンで乱暴に『×』が刻まれている。

ドクン、と心臓が早鐘を打つ。

佳奈じゃない。

もっと古い記憶だ。

ポケットの中で、絵本が熱を帯びる。

焼けた石を入れたように熱い。

取り出して開く。

ページの上を、文字ではない何かが這い回る。

ミミズのような、赤い線。

『ドゲザ シテ ナメロ』

吐き気がした。

強烈な腐臭が鼻腔を突く。

視界が反転する。

俺は今、床に這いつくばっている。

目の前には、泥だらけの運動靴。

「ほら、舐めろよ」

「許してほしいんだろ?」

「みんな待ってるぜ?」

嘲笑。

哄笑。

誰かが背中を蹴り上げる衝撃。

俺の記憶じゃない。

あの子の記憶だ。

そして、佳奈が最期に味わった絶望だ。

「う、ぅぷ……ッ」

胃の中身をぶちまけそうになり、口元を押さえる。

同調(シンクロ)しすぎている。

境界線が溶けていく。

「お兄ちゃん?」

不意に、澄んだ声が響いた。

顔を上げる。

螺旋階段の踊り場。

白いワンピースの少女が立っている。

泥で汚れ、髪は乱れ、片足は裸足。

「佳奈!」

俺はよろめきながら駆け出した。

階段の手すりは錆びつき、触れるとボロボロと崩れ落ちる。

「来ちゃだめ!」

佳奈が叫ぶ。

その瞳は、焦点が合っていない。

虚空を見つめ、何かに怯えている。

「ルールなの。ここに来たら、みんなで遊ばなきゃいけないの」

「なんの話だ! 帰るぞ!」

「帰れないよ。だって、ほら」

佳奈が自分の腕を指差す。

白い肌に、無数の手形がついていた。

黒く、赤く、青く。

子供の小さな手形が、彼女の肢体を埋め尽くしている。

「あいつらが、離してくれないの」

ゾゾゾッ、と背筋を悪寒が駆け上がる。

佳奈の背後の闇。

そこから、無数の腕が伸びていた。

ずるずると、音もなく。

それらが佳奈の髪を掴み、服を引っ張り、奈落へと引きずり込もうとする。

『ずるいぞ』

『お前だけ』

『こっちこいよ』

『ムシ食べさせてやるからさ』

「いやぁぁぁッ!」

佳奈が悲鳴を上げる。

「やめろッ!」

俺は階段を駆け上がる。

足が重い。まるで泥沼の中を走っているようだ。

空気が粘り気を帯び、俺の進行を阻む。

この場所は、子供たちの処刑場だったのだ。

無邪気という名の凶器で、弱者を嬲り殺しにする祭壇。

佳奈は事故死じゃない。

過去の亡霊たちに、精神を汚染され、追い詰められ、自ら飛ぶことを強要されたのだ。

「佳奈、手を!」

俺は手を伸ばす。

指先が、妹の指に触れようとした瞬間。

バチンッ!

強烈な静電気が弾け、俺は弾き飛ばされた。

目の前の佳奈が、黒い霧となって霧散する。

あとに残ったのは、床に落ちた一冊の絵本だけ。

そして、俺を取り囲むように、五つの影が立っていた。

顔に『×』を描かれた子供たちが、ケタケタと笑いながら俺を見下ろしている。

第三章 古びた絵本の告発

踊り場にへたり込む俺の周りを、子供たちの影が回る。

カゴメカゴメのように。

頭が割れるように痛い。

脳の血管に、汚水が注入されているようだ。

『死ね』『死ね』『死ね』

単純で、だからこそ鋭利な言葉の刃物。

俺は震える手で、床に落ちた絵本を拾い上げた。

勝手にページがめくれる。

風もないのに、バタバタと激しい音を立てて。

最後のページ。

白紙だったはずの場所に、インクが滲み出す。

動画のように、絵が動く。

――三十年前の記憶。

少年がいた。

名はカズト。

線の細い、おとなしい子供。

彼を取り囲む、裕福そうな服装の少年グループ。

リーダー格の男の子が、カズトの口に何かを押し込んでいる。

『ダンゴムシ、うまい?』

『噛めよ、音聞かせろよ』

「……う、ぐッ」

俺の口の中に、土と虫の体液の味が広がる。

錯覚だ。

いや、五感の共有だ。

カズトは泣かなかった。

泣けば、もっと酷いことをされると知っていたから。

ただ、心を殺して、耐えていた。

場面が変わる。

この天文台の最上階。

『飛べよ』

リーダーが笑う。

『飛んだら許してやるよ。宇宙まで飛んでけよ、エイリアン』

ドン、という衝撃。

カズトの体が一瞬浮き、視界から消える。

直後、子供たちは顔を見合わせ、ニヤリと笑った。

『落ちちゃった』

『俺たち止めたよな?』

『うん、止めた止めた』

『あいつが勝手にふざけて落ちたんだ』

罪悪感の欠如。

自己保身の共犯関係。

その冷たい悪意が、この場所に澱(おり)のように溜まり、三十年かけて熟成された。

それが佳奈を喰らったのだ。

「……全部、見えたぞ」

俺は呟く。

歯の根が合わない。

恐怖ではない。

怒りですらない。

もっと根源的な、ドス黒い何かが、腹の底で渦を巻いている。

「お前たちが、殺したんだな」

俺は絵本を握りしめた。

爪が表紙に食い込み、血が滲む。

周囲の子供たちの影が、ピタリと止まる。

『×』印の顔が、一斉に俺を覗き込む。

『おじさんも、あそぶ?』

「ああ、遊ぼうか」

俺は意識の防壁を解いた。

普段なら、薬で抑え込んでいる感受性のフィルター。

それを、全開にする。

途端、津波のような「負の感情」がなだれ込んできた。

カズトの痛み。

佳奈の絶望。

三十年分の呪詛と怨嗟。

「ぐ、がぁぁぁぁぁッ!!」

脳が焼き切れる。

眼球の裏側が沸騰する。

内臓が裏返るような激痛。

人としての輪郭が溶けていく感覚。

倫理観、理性、優しさ。

そういった人間らしいパーツが、強酸に浸されたようにボロボロと崩れ落ちていく。

代わりに、空いた穴を埋めるのは、純粋な殺意と狂気。

俺は、俺じゃなくなる。

復讐のための装置(システム)へと書き換えられていく。

「全部……よこせ……ッ!」

俺は歯を食いしばり、その汚泥を飲み干した。

喉が焼け、胃が爛れる。

だが、止まらない。

痛みを受け入れるんじゃない。

痛みを燃料に変えるんだ。

数分後。

あるいは数時間後。

俺はゆっくりと立ち上がった。

頭痛は消えていた。

耳鳴りも止んでいた。

世界は、恐ろしいほど静まり返っている。

子供たちの影はもういない。

俺の中にいるからだ。

自分の手を見る。

血管が黒く浮き上がり、指先が微かに震えている。

だが、力は満ちていた。

禍々しく、冷たい力が。

ポケットのスマホが振動する。

画面には、ある男の顔写真と住所が表示されていた。

かつてのリーダー格。

カズトを突き落とし、その罪を隠蔽し、今は地元の名士として君臨する男。

「……さて」

俺は絵本を拾う。

表紙の絵が変わっていた。

星空の下、一人の青年が立っている。

その背後には、無数の子供たちの影が従っている。

青年の顔には、目も鼻も口もない。

「読み聞かせの時間だ」

俺の声は、以前の俺の声ではなかった。

もっと低く、ザラついた、底冷えする響き。

俺は口角を吊り上げた。

笑うという機能が、まだ残っていたことに安堵しながら。

第四章 復讐の童話

高級住宅街。

広大な庭を持つ邸宅の二階。

男は、不機嫌そうに目を覚ました。

喉が渇いたのだ。

「おい、水」

妻を呼ぼうとして、隣が空であることに気づく。

そういえば、妻とは別居中だったか。

舌打ちをして、男は体を起こした。

部屋の隅にある一人掛けのソファ。

そこに、人影があった。

「……誰だ?」

男は目を細める。

泥棒か?

にしては、あまりにも堂々としている。

「おい、貴様。ここを誰の家だと思っている」

男はベッドから降り、威圧的に歩み寄る。

恐怖はない。

この街で自分に逆らう者などいないという、長年の傲慢さが恐怖を麻痺させている。

「警察を呼ぶぞ。今のうちに土下座して謝れば、示談にしてやらんでもないが」

人影――朔は、顔を上げずに言った。

「いい夜ですね」

「は?」

「星が綺麗だ。誰かを突き落とすには、絶好の夜だ」

男の足が止まる。

背筋に、冷たい針を刺されたような感覚。

朔がゆっくりと顔を上げた。

月明かりに照らされたその表情は、能面のように無表情だった。

だが、瞳だけが、暗闇の中で爬虫類のように光っている。

「なんだ、お前……」

「忘れたんですか? 昔、よく遊んだでしょう」

朔が膝の上の絵本を開く。

「カズト君と」

男の顔色が、一瞬で土気色に変わった。

唇がわななき、後ずさりをする。

「な、なぜ、その名を……」

「彼が会いたがっていますよ。ずっと、あなたを待っていた」

朔が指を鳴らす。

パチン。

乾いた音が、部屋の空気を変質させる。

男の視界が歪む。

フローリングの床が、コンクリートの冷たい感触に変わる。

壁紙が剥がれ落ち、鉄錆の浮いた手すりが現れる。

「ひッ……!?」

男は周りを見渡した。

寝室ではない。

ここは、あの日、封印したはずの天文台の屋上だ。

「幻覚だ……こんなの、ありえない……!」

「いいえ、現実ですよ。あなたの心が作り出した現実だ」

朔の声が、頭の中に直接響く。

足首に、冷たい感触。

男が視線を落とすと、腐敗した小さな手が、パジャマの裾を掴んでいた。

「う、わあぁぁぁッ!!」

男は悲鳴を上げ、足を振り払おうとする。

だが、手は離れない。

一つではない。

床から次々と、子供たちの手が湧き出してくる。

『ねえ、あそぼ』

『こっちきてよ』

『おじさんだけ、ずるいよ』

「やめろ! 離せ! 俺は社長だぞ! 金ならやる! 許してくれ!」

男は半狂乱で叫ぶ。

朔はソファに座ったまま、その光景を眺めていた。

まるで、退屈な映画でも見ているかのように。

「金では買えませんよ」

朔は静かに告げる。

「彼らが欲しいのは、あなたの絶望だけです」

男の周囲に、五人の子供の影が現れる。

顔には『×』印。

彼らは男を取り囲み、指差して笑う。

『おちろ』

『おちろ』

『おちろ』

「あ、あ、あがが……ッ」

男は喉を掻きむしる。

息ができない。

三十年前にカズトが味わった窒息感が、男の喉を締め上げる。

過去に自分が吐き捨てた嘲笑が、何百倍にも増幅されて鼓膜を破壊する。

男は床に倒れ込み、のたうち回った。

白目を剥き、口から泡を吹き、失禁する。

精神が砕け散る音。

それが、朔には心地よい音楽のように聞こえた。

「……素晴らしい」

朔は呟き、絵本を閉じた。

男の絶叫は、声にならないヒューヒューという喘鳴に変わっていた。

彼はもう、こちらの世界には戻ってこないだろう。

永遠に続く「いじめ」の地獄の中で、死ぬまで踊り続けるのだ。

朔は立ち上がり、廃人となった男を一瞥もしないまま部屋を出た。

廊下。

姿見に映る自分を見る。

そこに映っていたのは、復讐を終えた英雄の顔ではなかった。

もっと空虚で、もっと飢えた、化け物の顔。

「次は、誰だ」

リストには、まだ数人の名前がある。

それに、この世界には、裁かれるべき罪人が山ほどいる。

朔は優しく微笑んだ。

その笑顔には、もう人間としての温度は微塵も残っていなかった。

夜の闇へと溶けていく。

呪われた絵本を小脇に抱えて。

AIによる物語の考察

【登場人物の心理】
主人公「俺」(朔)は、妹の無念を晴らすため、秘めた共感覚能力を解放します。妹や30年前の犠牲者たちの絶望、加害者たちの冷酷な悪意を全て飲み込み、人間としての倫理観を捨て「復讐の化身」へと変貌。その根底には、弱者を食い物にする「集団的悪意」への深い憎悪と、被害者の感情を追体験するからこその同化があります。

【伏線の解説】
冒頭の「鉄錆の味」や「死に際の電気信号」は、朔の特異な共感覚能力と、彼がこれから「悪意」を吸収する運命を示唆。妹の遺品「星のおはなし」は、単なる思い出の品ではなく、30年前の悲劇といじめによる妹の死を結びつけ、最終的に復讐を予言する「呪われた書物」へと変貌。絵本の変化が朔の精神的変容とリンクしています。

【テーマ】
本作は、場所や時間に染み付き、時を超えて連鎖・継承されていく「悪意」の根深さを描きます。無邪気な子供たちの集団が生み出す「凶器」としてのいじめの恐ろしさ。そして、その悪意に立ち向かうため、自らも人間性を手放し「化身」と化す主人公の姿を通して、復讐という行為がもたらす深い業と、その代償について問いかけるダークな物語です。
この物語の「続き」を生成する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと...

TOPへ戻る