第一章 静寂の中の異物
都会の喧騒と、常に時間に追われるような生活にすっかり疲弊しきっていた。デザイナーとして日々新しいアイデアを絞り出す仕事は、遥にとって生きがいでもあったが、その代償は心身を深く蝕んでいた。休日には、どこか遠くへ逃げ出したい衝動に駆られる。そんな遥にとって唯一の安息の地は、幼い頃に毎年夏を過ごした、山間の古びた祖父の家だった。
今年の夏も、ようやく取れた数日の休暇を利用して、遥は祖父の家へと向かった。最寄りの駅からバスに揺られ、さらに山道をしばらく歩く。杉の木立が鬱蒼と茂る中を分け入ると、ひっそりと佇むその家が、まるで遥の帰りを待っていたかのように視界に現れた。懐かしさが込み上げ、疲弊した心の奥底に温かいものがじわりと広がっていく。
しかし、門をくぐり、玄関の重い引き戸を開けた瞬間、奇妙な違和感が遥を襲った。いつも漂っていたカビと木の匂いに混じって、ごく微かに、しかし確かに、新しく乾燥中の絵の具のような匂いがする。気のせいだろうか? 誰も住んでいないはずのこの家で、そんな匂いがするはずがない。首を傾げながら、遥は薄暗い廊下を進んだ。
いつもは埃をかぶったままの居間も、なぜか少しだけ整理されているように見えた。拭かれた痕跡があるわけではないが、乱雑さが消え、何らかの意図で整えられたような印象を受ける。遥は荷物を置くと、まずは家の中を一通り見て回ることにした。二階の自分の部屋、広縁、そしていつも祖父が書物を読んでいた書斎。どこもが昔と変わらないようで、しかし、どこか何かが「違う」と、五感が警鐘を鳴らし続ける。
そして、遥は家の奥、いつもは農具や古い家具が押し込まれているはずの納戸の前に立った。記憶の中では、納戸の隣はただの壁だったはずだ。しかし、そこに、新しい板壁が設けられているのを発見した。古びた家屋に似つかわしくない、真新しい木材で組まれたその壁は、明らかに後から作られたものだった。
不可解な気持ちに駆られ、遥は恐る恐るその板壁に触れた。木肌は滑らかで、切り立ての匂いが微かに鼻をくすぐる。どこからか工具を探し出し、遥は板壁を固定している釘を一つ一つ丁寧に引き抜いていった。錆びた釘が軋む音だけが、静寂に包まれた家に響く。そして最後の板が外れた時、そこには、遥がこれまでの人生で一度も見たことのない、「新しい部屋」が姿を現した。
部屋の中は薄暗く、窓がないため自然光が差し込まない。しかし、壁一面に飾られた無数の絵が、遥の目を捉えた。そこには、遥自身が幼い頃に描いたような、しかし遥には全く記憶にない「理想の少女」の絵が無数に飾られていたのだ。少女は長い髪を風になびかせ、満面の笑みを浮かべている。時には野原で花を摘み、時には青い海辺で貝殻を拾い、時には祖父の家の庭で楽しそうに遊んでいる。その絵のタッチは、まさしく遥が子供の頃によく使っていた色鉛筆や水彩絵の具の筆跡と酷似していた。そして、部屋には、最初に感じた絵の具の匂いが、一層強く、鮮明に漂っていた。まるで、最近まで誰かがこの部屋で絵を描いていたかのように。
絵の少女は、いつも遥が都会の鏡越しに見ていた、疲弊し、どこか虚ろな自分よりも、はるかに生き生きとして、幸福そうに見える。その絵の中の少女の視線が、遥の動きに合わせてゆっくりと追いかけてくるような錯覚に囚われ、背筋に冷たいものが走った。この部屋は、一体何なのだろうか。誰が、何のために、この記憶にない部屋と、記憶にない自分自身の絵を、この安息の地に作ったのか? 遥の心臓が、妙なリズムで高鳴り始めた。
第二章 歪む記憶の調べ
現実離れした光景に、遥はしばらく立ち尽くした。夢ではないかと頬を抓ると、鈍い痛みが走る。これは現実だ。しかし、あまりにも現実離れしている。遥は恐る恐る部屋の奥へと足を踏み入れた。足元には、散らばった絵の具のチューブや使い古された筆、そして紙切れがいくつか。すべてが新しい。この家は十数年間、誰も住んでいなかったはずなのに。
壁の絵をよく見ると、描き方は確かに遥自身の幼い頃のタッチに酷似しているが、描かれているモチーフや背景は、遥の記憶にある祖父の家とは微妙に異なることに気づいた。例えば、庭に咲くはずのない種類の、見たことのない赤い花。かつてブランコがあった場所に設置された、見慣れない木製の滑り台。そして、何枚かの絵の隅には、遥には一度も会ったことのない、もう一人の「祖母」の姿が小さく、しかし鮮明に描かれているものもあった。
もう一人の祖母? 遥の祖母は、遥が生まれるずっと前に他界しており、遥は写真でしかその顔を知らない。しかし、絵の中の女性は、写真の祖母とは全く似ていなかった。まるで、遥の知らない家族の歴史が、この部屋に閉じ込められているかのようだった。
部屋の隅に、古びた木製の箱が置かれているのを見つけた。蓋を開けると、中には一冊のスケッチブックと、何枚かの古びた手紙が入っていた。スケッチブックを開くと、そこには壁の絵と同じ少女が、遥の幼少期と酷似した日付で描かれていた。そして、絵の横には日記のような記述も添えられている。
「おばあちゃんの家に来て嬉しい。またおばばちゃんと一緒に絵を描くんだ。」
「今日の夕ご飯は、おばあちゃんが作ってくれたトマトのシチュー。すごく美味しかった。」
「新しい滑り台で遊んだ。あの子が来るまで、私一人で練習するんだ。」
無邪気な言葉の羅列。しかし、その日記の筆跡は、遥が自分の子供時代の連絡帳で見た、あの丸っこくて特徴的な文字と完全に一致していた。そして、「あの子」という記述。遥には、祖父の家で遊んだ記憶のある友達は一人もいなかった。夏休みはいつも一人で、祖父と静かに過ごしていたはずだ。
遥は混乱に陥った。これは誰が、何のために作ったのか? 自分の記憶が曖昧なのか? それとも、誰かが巧妙に遥の過去を改ざんしようとしているのか? 疑問が渦巻き、頭の中がぐるぐると回る。
日が暮れ、祖父の家は深い闇に包まれた。遥は部屋の戸を閉め、鍵をかけた。しかし、一度見てしまった絵の少女の瞳が、瞼の裏に焼き付いて離れない。夜、布団に横たわる遥の耳には、風の音に混じって、絵の少女が囁くような、か細い声が聞こえるような気がした。そして、遥が寝入ろうとするたびに、外からは、本来この山奥にはいるはずのない、幼い子供の笑い声が、ひゅうっと風に乗って聞こえてくるのだった。その声は、遥の幼い頃の、あの特徴的な笑い声に酷似していた。
第三章 過去からの呼び声
翌朝、遥はほとんど眠れずに目を覚ました。寝不足で頭痛がするが、それ以上に、昨夜の出来事と、部屋の絵の存在が遥の心を強く揺さぶっていた。遥は、自分の記憶が本当に正しかったのかを確かめるため、祖父の家で過ごした幼少期のアルバムや手紙を探し始めた。屋根裏部屋の古いトランク、書斎の本棚の奥、押し入れの中。埃をかぶった箱を次々と開けていく。
しかし、見つかるのは、部屋の絵と同じような「改変された記憶」を示唆する断片ばかりだった。古いアルバムの特定のページは、まるでハサミで切り取られたかのように綺麗に破り取られていた。残された写真も、遥が一人で写っているものが多く、祖父や、かろうじて母親が写っているものも数枚だけ。そして、子供の頃に祖父と交わした古い手紙も、特定の単語や文面の一部が、不自然なほどに消えていたり、あるいはインクで塗り潰されていたりした。それらはどれも、遥の幼少期の記憶、特に祖父の家での出来事に関する記述だった。
遥は、実家に電話をかけた。母親は遥が祖父の家に来ていることを知って驚きながらも、遥の突然の質問に困惑を隠せない。
「お母さん、祖父の家って、納戸の隣に部屋なんてあった?」
「あら、遥ったら変なこと言うわね。あそこは昔から納戸しかないでしょう? 何か古いものが置いてあったのかしら?」
「じゃあ、もう一人、私に会ったことのない祖母がいたとか……?」
「もう一人? 遥、あなた一体どうしたの? おばあちゃんは、お父さんのお母さん一人だけよ。あなた、疲れてるんじゃない? 大丈夫?」
母親は遥の質問を理解できず、遥の精神状態を心配しているようだった。遥は何も答えられず、電話を切った。母親の困惑した声は、遥の不安をさらに増幅させた。自分の記憶が曖昧なのではない。母親の記憶も、この世界のどこかに存在する「遥の過去」も、すべてが歪められているのだと、遥は漠然と感じ始めた。
現実と記憶の境界が、次第に曖昧になっていく感覚に襲われる。遥は再びあの部屋へ向かい、戸を開けた。壁の絵の少女は、依然としてそこにいた。しかし、遥が部屋に入った瞬間、少女の瞳が、まるで生きてるかのように、スッと遥を見つめ返した。
「なぜ、私を忘れたの?」
それは、遥の耳元で囁かれた、幼い頃の遥自身の声だった。幻聴か? しかし、その声はあまりにも鮮明で、まるで部屋のどこかに隠されたスピーカーから流れているかのようだった。少女の口元が、わずかに動いたように見えた。遥は恐怖で体が動かない。声は繰り返し、遥に問いかける。
「なぜ、私を忘れたの? 約束したのに……。」
そして、次の瞬間、絵の中の少女の瞳から、一筋の涙が流れ落ちたように見えた。その涙は、絵の具で描かれたものではなく、まるで本物の水滴のように、ゆっくりと頬を伝い、絵の具の上に滲んでいく。遥の全身を、これまで感じたことのない種類の恐怖が貫いた。この部屋は、この絵の少女は、遥自身の記憶の中に封じ込められた、何らかの「過去」が具現化したものなのだと、本能的に理解した。そしてそれは、遥自身が向き合いたくない、最も忌まわしい過去なのではないかと。
第四章 真実の輪郭
絵の中の少女が流した涙。その光景は、遥の心に深く突き刺さった。それは幻覚だったのか、それとも現実だったのか。もはや、その区別さえ曖昧になっていた。しかし、遥は逃げることを選択しなかった。この得体の知れない恐怖と向き合わなければ、自分は永遠にこの歪んだ現実に囚われてしまうだろう。遥は、この部屋と絵が何なのかを理解しようと、執拗に祖父の家を調べ始めた。
何日も、昼夜を問わず家の中を探索した。壁の裏、床下、天井裏。そして、書斎の古い書物の中から、祖父の文字で書かれた一冊の薄いノートを見つけた。それは、祖父が遥のために秘密裏につけていた日記のようなものだった。ノートをめくっていくと、遥が幼い頃の出来事が克明に記されていた。
そこには、遥が小学校に入学したばかりの頃、祖父の家で長期休暇を過ごしていた際に、大きな事故に遭ったことが書かれていた。遥は、裏山で遊んでいる最中に崖から転落し、頭を強く打ちつけた。幸い命に別状はなかったが、その事故を境に、遥は一時的に記憶を失ったこと、特に「ある友人」との出来事を完全に忘れてしまったことが綴られていた。
その友人の名前は「美緒」。美緒は、遥が心を閉ざした原因となった、幼少期のいじめの被害者だった。遥は都会の学校で、幼い頃から周囲に比べて絵の才能に恵まれ、それが原因で孤立しがちだった。そんな遥にとって、美緒は唯一、遥の絵を心から褒めてくれ、一緒に絵を描くことを楽しんでくれた友達だった。しかし、ある時、遥は他の生徒にいじめられている美緒を見て見ぬふりをしてしまい、さらにいじめの中心人物に「美緒の絵は下手だ」と言ってしまった。その言葉が、美緒を深く傷つけ、二人の関係を決定的に壊してしまったのだ。
祖父は、遥の心を深く案じていた。事故後、何もかもを忘れてしまった遥の、真っ白になった心に、再び悲しみや罪悪感が宿ることを恐れた。そして、二度とあのような悲劇が起きないようにと、遥の記憶を「良い思い出」で上書きしようとした。そのために、遥自身の「理想の少女」の絵を描かせ、それを部屋に飾らせていた。しかし、遥の精神は不安定で、無意識のうちに美緒を模した絵を描き始め、次第に記憶の空白が絵の中で歪んだ形で現れ始めた。美緒との友情、そして罪悪感。それらが混じり合い、現実には存在しなかった「もう一人の祖母」や「新しい滑り台」といった虚構の記憶が絵の中に滲み出していった。祖父はそれに気づき、遥の心が壊れてしまうことを恐れて、その部屋を封印した、という内容が書かれていた。
遥は、あの「もう一人の祖母」の絵が、実は美緒の面影を重ねた遥自身の「理想の優しい大人」の姿であり、そして「別の少女」の絵が、忘れ去られた美緒の姿であったことに気づいた。そして、あの部屋と絵は、遥自身が「記憶の空白」を埋め合わせるために、無意識のうちに作り出し、描き続けていたものだったのだ。ホラーの根源は、外部の怪異ではなく、遥自身の過去の過ち、そしてそれを抑圧した深層心理から生まれたものだった。
絵の少女は、忘れ去られた美緒の魂であり、そして遥自身の罪悪感が具現化したものだった。遥は再びあの部屋へ向かった。壁の絵の少女は、以前にも増して遥を睨みつけているように見えた。遥は震える手で、最も大きく描かれた少女の絵に触れた。
「なぜ、私を忘れたの?」少女の声が、再び遥の脳裏に響く。
遥は目を閉じ、過去の光景を鮮明に思い出した。美緒の顔、美緒の絵、そして、美緒に向けた自分の残酷な言葉。それが、遥の心を深く切り裂いた。
「ごめんなさい」遥は、言葉にならない嗚咽と共に、絞り出すように呟いた。「ごめんなさい……本当に、ごめんなさい」
第五章 赦しと再生の色彩
遥は、絵の中の少女に向かって、ただひたすらに謝罪の言葉を繰り返した。忘れ去られた友人、そして自身の抑圧された罪悪感。全てを直視し、受け入れること。それが今、遥にできる唯一のことだった。激しい自己嫌悪と後悔の念に苛まれながらも、遥の心の中には、同時に静かな光が差していた。これまでの人生で感じていた漠然とした不安、虚無感、そして創作活動における行き詰まり。それら全ての原因が、ここにあったことを、遥は今、はっきりと理解した。
遥の目から、とめどなく涙が溢れ落ちる。それは悲しみの涙だけでなく、何十年も抱え込んできた重荷から解放される、安堵の涙でもあった。遥が心からの謝罪を口にしたその瞬間、部屋の壁に飾られていた絵の色彩が、かつての鮮やかさを失い、静かに褪せていった。少女の表情も、恨みがましいものから、どこか穏やかで、微笑んでいるかのようなものへと変わっていく。部屋に満ちていた絵の具の匂いも薄れ、異様な空気は消え失せ、祖父の家の本来の、懐かしい静寂が戻ってきた。まるで、遥の心が解放されたことに呼応するかのように、この部屋もまた、囚われていた過去から解き放たれたようだった。
遥は、部屋に残されたスケッチブックを手に取った。真っ白なページを開き、新しい鉛筆を握る。迷うことなく、遥はそこに自身の新たな絵を描き始めた。それは、過去と向き合い、未来へと進む、新しい自分自身の肖像画だった。絵の中の遥は、もう疲弊した顔はしておらず、清々しい表情で、遠くを見つめていた。その瞳には、もう過去の影はなく、静かな決意と希望の光が宿っていた。
もはや祖父の家は、偽りの安息の地ではなかった。それは、遥が真の自分と向き合い、罪を認め、そして再生するための聖域となったのだ。遥は、褪せた少女の絵を壁に残したままにした。決して記憶を封じ込めるためではなく、過去を忘れず、常に自分自身の心の奥底にある「声」に耳を傾けるために。少女の絵は褪せていくが、遥の心の中には、新たな希望の色彩が宿った。それは、贖罪と赦し、そして人生の再出発を象徴する、鮮やかな光だった。
遥は部屋を後にする。重い引き戸を閉め、鍵をかける。その背中には、以前のような疲れや虚無感はなかった。ただ、静かな決意と、穏やかな光が宿っていた。遥は、この部屋を、今度は自らの意思で、新たな「アトリエ」として使い続けることを決意した。過去を乗り越え、真に自由になった遥の筆は、きっと、かつてないほどに力強く、美しい作品を生み出すだろう。