影喰いのレクイエム

影喰いのレクイエム

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第一章 消えゆく色彩

水島湊の世界は、静かで、秩序立っていた。古びた紙の匂いが満ちる古書店「時の迷宮」で、彼は本の背表紙を指でなぞりながら日々を過ごしていた。客の顔と、彼らが最後に買った本のタイトルを記憶するのは、湊にとってささやかな特技であり、誇りでもあった。彼の記憶は、黄ばんだページに刻まれたインクのように、決して薄れることはないはずだった。

その均衡が崩れ始めたのは、秋風が街路樹を揺らし始めた頃だ。

「あれ、佐藤さん、最近見かけませんね」

湊が店主の田所に話しかけると、彼は分厚い眼鏡の奥の瞳を瞬かせた。

「さとうさん? うちにそんな常連さん、いたかな」

田所の言葉に、湊は息を呑んだ。佐藤さんは、毎週火曜の午後に必ずやってきて、決まって歴史小説の文庫本を買っていく、白髪の穏やかな男性だ。先週も、彼は幕末の志士についての本を買い、湊と少しだけ言葉を交わしたはずだった。

「いえ、そんなはずは……」

湊は慌てて売上記録をめくった。しかし、先週火曜日の記録に、佐藤さんの名前も、彼が買ったはずの本の記録も存在しなかった。まるで、最初から存在しなかったかのように。

その日から、世界から少しずつ色彩が失われていくような奇妙な感覚に襲われるようになった。街角の赤い郵便ポストが、ある日ふと見ると、くすんだ錆色に見える。いつも聴いていた喫茶店のジャズが、どこか輪郭のぼやけた音の塊に聞こえる。それは気のせいだと、疲れているだけだと自分に言い聞かせたが、違和感は日に日に濃くなっていく。

ある晩、湊は悪夢を見た。妹の陽菜(ひな)が、彼に向かって何かを叫んでいる。しかし、その声はノイズ混じりで聞き取れない。陽菜は三年前に病でこの世を去った。彼女の笑顔は、湊にとって世界で最も守りたい宝物だった。夢の中で、その笑顔がおぼろげな陽気に溶けていく。必死に手を伸ばすが、指先は空を切るだけだった。

飛び起きた湊は、汗ばんだ手で枕元の写真立てを掴んだ。そこに写る、向日葵のように笑う陽菜の顔を見て、ようやく安堵の息をつく。だが、その写真も、心なしか縁からセピア色に侵食されているように見えた。

翌日、古書店の常連で、いつも快活に話しかけてくれた女子高生、美咲の姿が見えなかった。湊が他の客に彼女のことを尋ねると、誰もが「そんな子は知らない」と首を傾げるばかり。湊の背筋を、冷たい汗が伝った。佐藤さんと同じだ。また一人、世界から「消えた」。

湊だけが覚えている。佐藤さんの穏やかな声も、美咲の屈託のない笑い声も。しかし、彼の記憶を証明するものは、この世界のどこにもない。人々が忘れただけではない。記録からも、痕跡からも、その存在が綺麗に削り取られている。

湊は、この街に巣食う「何か」の存在を確信し始めていた。それは人の記憶を、いや、存在そのものを静かに捕食していく、名状しがたい恐怖の影だった。彼は日記帳を開き、震える手で書き留めた。『佐藤さん。白髪の男性。歴史小説好き。美咲ちゃん。セーラー服の高校生。笑顔が可愛い』。

明日、このインクが滲んでいなければいい。そう祈りながら、湊は消えかけた世界の片隅で、ただ一人、忘れられた人々の名前を呟き続けた。

第二章 執着という楔

忘却の浸食は、津波のように静かに、だが着実に湊の世界を蝕んでいった。日記に書き留めた名前は、翌朝には黒い染みとなり、意味をなさなくなっていた。湊が必死に記憶に留めようとすればするほど、対象はより速く薄れていくようだった。まるで、彼の記憶そのものが、忘却の潮流に抗う脆い防波堤でしかないかのように。

湊の恐怖は、やがて一つの点に収束した。陽菜だ。

妹の記憶だけは、何があっても失うわけにはいかない。彼は陽菜の写真を肌身離さず持ち歩き、彼女が好きだったピアノ曲をイヤホンで繰り返し聴いた。彼女との思い出を、些細なものまでノートに書き連ねた。公園で食べたアイスの味、二人で見た映画のセリフ、喧嘩した時の彼女の拗ねた顔。書く。語る。思い出す。その行為だけが、湊を正気でいさせてくれる唯一の儀式だった。

「お兄ちゃん、また陽菜ちゃんの話?」

ある日、店主の田所が心配そうに声をかけてきた。湊が昼休み中、一心不乱にノートに何かを書きつけているのを見ていたのだろう。

「……ええ。忘れたくないんです。絶対に」

「気持ちは分かるがね。水島くん、少し思い詰めすぎじゃないか。死んだ人間は、少しずつ忘れていくのが自然なことなんだ。そうやって、残された者は前に進むんだよ」

田所の言葉は正論だった。だが、湊には毒のように響いた。忘れることなどできない。忘れてしまえば、陽菜は二度死ぬことになる。この世界で、陽菜の存在を証明できるのは自分だけなのだから。

その夜、湊は古書店の薄暗い書庫の奥で、答えを探していた。民俗学やオカルトに関する古い書物を、埃に塗れながら読み漁った。そして、一冊の和綴じの本の中に、求めるものを見つけた。

『影喰い。人の記憶の影に潜み、存在を喰らうものなり。忘れられしものより喰らい始め、やがては人の縁、生の証、悉くを無に帰す。されど、強き想いは忘却に抗う楔となりて、その存在を繋ぎ止める』

「影喰い……」。湊はその名を呟いた。これだ。街を覆う怪異の正体。そして、対抗策も見つけた。「強き想い」。自分のやり方は間違っていなかったのだ。陽菜への想いを、執着を、さらに強く、鋭く研ぎ澄ませば、影喰いから彼女を守れるはずだ。

その日から、湊の執着は狂気じみたものになっていった。彼は仕事以外のすべての時間を、陽菜の思い出を反芻することに費やした。部屋の壁には陽菜の写真を隙間なく貼り付け、彼女の声を録音したテープを延々と流した。食事も睡眠も疎かになり、彼の目の下には深い隈が刻まれた。頬はこけ、瞳だけが爛々と異様な光を放っていた。

彼の脳裏には、陽菜との最後の日の記憶が鮮明に焼き付いていた。病院の白いベッドで、細く、か弱くなった陽菜の手を握ったこと。彼女が「お兄ちゃん、ありがとう」と微笑んだこと。その顔を、声を、手の温もりを、一瞬たりとも忘れてはならない。それが、影喰いと戦うための唯一の武器なのだから。

しかし、湊は気づいていなかった。楔を深く打ち込めば打ち込むほど、その楔が引き起こす歪みに。そして、その歪みに引き寄せられる、より深く、昏い影の存在に。彼の執着は、陽菜を守るための盾ではなく、影喰いを呼び寄せるための灯台の光と化していた。

第三章 偽りのレクイエム

嵐の夜だった。古書店の窓を激しい雨が打ち付け、遠くで雷鳴が轟いていた。湊は一人、店番をしながら、いつものように陽菜の思い出をノートに書きつけていた。その時、店の奥の暗がりが、墨を垂らしたように不自然に揺らめいた。

来た。湊は直感した。

それは定まった形を持たなかった。ただ、そこにあるだけで空間が歪み、光が吸い込まれていくような、絶対的な喪失感の塊。影喰い。それがゆっくりと、湊に向かって滲み出してくる。本棚の本のタイトルが掠れ、壁の時計の針が溶けるように消えていく。忘却が、具現化して迫ってくる。

「陽菜は渡さない……!」

湊は叫び、陽菜の写真を強く握りしめた。彼の強い想いが、抵抗のオーラとなって影喰いを押し留める。拮抗。しかし、影喰いは湊の抵抗を嘲笑うかのように、さらに濃く、大きく膨れ上がった。湊の執着は、影喰いにとって極上の饗宴に他ならなかったのだ。

絶望が湊の心を覆い尽くそうとした、その瞬間。

「お兄ちゃん」

懐かしい声が、彼の鼓膜を震わせた。影喰いの向こう側、空間の歪みの中に、陽菜が立っていた。三年前と変わらない、セーラー服の姿で。

「陽菜……! 助けに来てくれたのか!」

希望の光が差し込んだように、湊は手を伸ばした。だが、陽菜は悲しげに首を横に振った。その表情は、湊の知らない、ひどく哀しみに満ちたものだった。

「もう、いいんだよ」

陽菜の幻影は、透き通るような声で言った。

「私のこと、もう忘れていいんだよ」

「何を言うんだ! 忘れるもんか! お兄ちゃんが、ずっと覚えていてあげるから!」

「違うの!」

陽菜は叫んだ。その声は、湊の記憶を根底から揺さぶる、衝撃の真実を告げた。

「私は、病気で死んだんじゃない。私も……『あれ』に喰われたの」

雷鳴が、湊の頭蓋の中で炸裂した。

嘘だ。陽菜は病院で、確かに自分の腕の中で息を引き取ったはずだ。あの温もりの喪失、あの絶望を、忘れるはずがない。

「そんな……はずが……」

「お兄ちゃんは、私が少しずつ皆から忘れられて、消えていくのに耐えられなかった。だから、自分で記憶を書き換えたの。『陽菜は病気で死んだ』って。皆が納得できる、悲しいけど受け入れられる物語を、自分で作ったのよ」

湊の脳裏に、封じ込めていた本当の記憶が濁流のように蘇る。

陽菜の姿が、友人たちの記憶から消えていく恐怖。彼女の写真が、少しずつ白紙に変わっていく絶望。そして最後に、自分の記憶からも彼女の笑顔が消えかける寸前、幼い湊が泣き叫びながら、偽りの物語を必死に紡ぎ出す姿。それは、あまりにも辛い真実から心を守るための、幼い兄の必死の防衛本能だった。

湊が必死に守ろうとしていた「思い出」は、彼自身が作り出した、美しくも悲しい虚構の鎮魂歌(レクイエム)だったのだ。

「ずっと苦しかった。お兄ちゃんの強い想いが、私をこの世とあの世の狭間に縛り付けてた。お願い、お兄ちゃん。私を解放して。私を、忘却に還して……」

陽菜は涙を流しながら懇願した。

影喰いが、すぐそこまで迫っていた。湊が握りしめる写真は、すでに陽菜の顔が判別できないほどに色褪せ、ただの光の染みになっていた。

第四章 愛の残滓

偽りの記憶が崩壊し、真実の絶望が湊の心を打ち砕いた。彼はその場に崩れ落ち、ただ嗚咽した。守っていたものは砂上の楼閣で、その土台を固めていたのは自分自身の弱さだった。陽菜を忘却から守るためではなく、自分が孤独になるのが怖かっただけなのだ。妹を、その死さえも利用して、自分の心の平穏を保っていた。

影喰いは、心の折れた湊を喰らおうと、最後の距離を詰めてくる。もう抵抗する気力もなかった。陽菜と共に、このまま消えてしまおう。そう思った時、陽菜の幻影がそっと彼の頬に触れた気がした。それは幻だったが、確かな温かさがあった。

『お兄ちゃん、ありがとう』

その言葉は、湊が作り出した偽りの記憶の中で、陽菜が最期に言ったはずの言葉だった。しかし、今響いた声には、偽りではない、本物の感謝と愛情が込められていた。

湊は顔を上げた。涙で滲む視界の中で、彼は決意する。偽りの思い出に縋るのはもうやめよう。だが、陽菜を完全に忘れることもしない。

彼は、ゆっくりと立ち上がった。影喰いに向かって、武器も持たず、ただ静かに。

「陽菜」

湊は、影喰いの向こうにいるであろう妹の魂に語りかけた。

「君が病室で死んだっていう作り話は、もう捨てるよ。君をこの世界に縛り付けて、苦しめて、ごめん」

彼の声は震えていたが、迷いはなかった。

「でも、これだけは本当だ。君は、俺のたった一人の大切な妹だった。君がいてくれて、俺は幸せだった。君が笑うと、俺も嬉しかった。そのことだけは、絶対に忘れない。君という存在が、確かにここにいた。その事実だけは、誰にも喰わせない」

それは、執着ではなかった。過去に縛られるための楔でもない。それは、喪失を受け入れた上で、なお残る、純粋で揺るぎない「愛」の告白だった。

その言葉が放たれた瞬間、猛り狂っていた影喰いの動きが、ぴたりと止まった。それは、理解できないものに遭遇したかのように、戸惑うように揺らめいた。忘却とは、存在を無にすること。しかし、湊が語る愛は、存在が消えた後にも残る何かだった。影喰いの理では、喰らい尽くすことのできない感情だった。

影喰いは、ゆっくりと後退を始めた。それは敗北ではなく、まるで、これ以上は関われないとでも言うように、静かに闇の中へと溶けていった。

陽菜の幻影が、最後にふわりと微笑んだように見えた。

翌朝、湊は古書店の床で目を覚ました。窓から差し込む朝日は、昨日までのくすんだ色ではなく、驚くほど鮮やかで力強い光を放っていた。街の喧騒も、一つ一つの音がクリアに聞こえる。世界に、色彩と輪郭が戻っていた。

湊は、胸のポケットに手を入れた。そこに、あるはずの写真立てはなかった。陽菜の名前を呼んでみても、その顔をはっきりと描くことはできない。彼女の声も、笑顔も、思い出の大部分は、夜の闇と共に忘却の彼方へ去ってしまったようだった。

だが、彼の胸の中には、確かな温かさが残っていた。

それは、愛されていたという記憶の残滓。大切な妹が、確かにこの世界に存在したという、消えない証。

湊は、書店の扉を開けた。新鮮な朝の空気を胸いっぱいに吸い込む。悲しみは消えない。喪失感がなくなることもないだろう。しかし、もう彼は過去の幻影に囚われてはいない。

忘却は、全てを奪う恐怖であると同時に、人を癒し、次の一歩を踏み出させるための救いでもあるのかもしれない。

湊は、温かい残滓を抱きしめながら、光の満ちる世界へと、静かに歩き出した。

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