琥珀の記憶、世界の心臓
第一章 影に潜む飢餓
夜の街は、感情のるつぼだ。アスファルトを濡らす湿った空気には、人々の心から放出された無数の『影の靄』が溶け込んでいる。悲しみ、嫉妬、焦燥。俺、カイは、その澱んだ空気の中を、飢えた獣のように彷徨う。俺が求めるのは、影ではない。その対極にある、温かく、まばゆい光。
路地裏のベンチに、寄り添う若い男女がいた。彼らの胸元が、衣服越しに淡く発光している。心臓に宿る『光の塊』。それは、彼らが育んできた愛と幸福の証だ。男が囁き、女が笑う。そのたびに光は甘く脈動し、俺の空っぽの腹を締め付けた。
抗えない。この渇きは、生命そのものの要求なのだ。
俺はゆっくりと彼らに近づき、すれ違いざま、男の肩にそっと触れた。指先から冷たい何かが流れ込み、代わりに熱い奔流が逆流してくる。夏の日の浜辺、初めて繋いだ手、プロポーズの瞬間の、眩暈がするほどの多幸感。男の人生で最も輝かしい記憶が、俺の精神を焼き尽くす。
「……あれ?」
男が虚ろな声を上げた。彼の胸の光は、蝋燭の火が消えるように掻き消えている。隣の女が訝しげに彼を見つめるが、男の瞳には何も映っていなかった。理由のわからない喪失感に、彼の顔が絶望に歪む。
俺は逃げるようにその場を離れた。罪悪感で吐き気がする。だが、それ以上に、体内に満ちていく他人の幸福が、俺を生かしていた。頬を、熱い雫が伝う。ぽたり、と地面に落ちたそれは、光を受けて妖しく輝く琥珀色の結晶だった。俺が流す、幸福の化石。誰かがこれを拾えば、一瞬だけあの男の幸福を追体験し、そして永遠の喪失を知るだろう。
第二章 消えゆく光彩
近頃、街は不気味な噂で満ちていた。『光の消失事件』。人々が、心臓の光を完全に失い、忽然と姿を消すのだという。最初は都市伝説の類だと思われていた。だが、日に日にその数は増し、新聞の一面を飾るまでになっていた。
「まるで、心臓だけを綺麗に抉り取られたみたいに、光の痕跡が全くないらしい」
「それに、消えた人たちの『影の靄』も、どこにも観測されないんだとさ」
カフェの片隅で、俺は息を殺して人々の会話に耳を澄ませていた。自分の能力が暴走したのではないか。その恐怖が、背筋を氷のように冷たくした。だが、事件はあまりに広範囲で、一度に数十人という規模で発生している。俺の能力では、一度に一人、触れた相手からしか光を奪えない。物理的に不可能だ。
ならば、一体誰が? 何が?
不安は、やがて奇妙な使命感に変わっていった。この謎を解かなければならない。それは、俺自身の無実を証明するためだけではない。このままでは、街から全ての光が消えてしまう。そうなれば、俺もまた、喰らうべき幸福を失い、飢えて死ぬのだから。俺は、俺自身が生きるために、この謎を追うことを決めた。
第三章 残滓の叫び
消失事件の現場の一つに、古いアパートがあった。そこには、三人家族が住んでいたという。扉には鍵がかかっておらず、軋む音を立てて開いた。部屋の中は、時間が止まったようだった。テーブルには食べかけの食事が並び、壁には子供が描いたであろう太陽の絵が飾られている。だが、そこに人の気配はなかった。
奇妙なことに、彼らの存在は、すでに隣人の記憶からすら薄れ始めていた。心臓の光を失った者は、世界との繋がりを断たれ、忘れ去られていく。それが、この世界の法則だ。
床に、小さなテディベアが落ちていた。俺は吸い寄せられるようにそれを拾い上げる。その瞬間、指先を鋭い痛みが走った。それはいつもの、幸福な記憶の流入とは全く違う感覚だった。脳内に響いたのは、甲高い悲鳴。暖かな光ではない、何か巨大で絶対的な存在に飲み込まれる瞬間の、純粋な『恐怖』の残滓。
ありえない。ネガティブな感情は『影の靄』として体外に放出されるはずだ。恐怖の感情が、これほど鮮明な記憶の残滓として物体に宿ることなど。
この事件は、俺の理解も、世界の法則すらも超えている。犯人は、幸福も絶望も、感情の全てを根こそぎ奪い去っているのだ。一体、何のために。
第四章 共鳴する時計塔
調査の末、俺は一つの奇妙な共通点に辿り着いた。大規模な消失事件は、必ず満月の夜に、街の中心にそびえる古い時計塔の周辺で発生している。何かが、そこにある。
満月の光が石畳を白く照らす夜、俺は時計塔の広場に立っていた。予感は的中した。広場には、何かに引き寄せられるように、十数人の人々が集まってきていた。彼らの顔は誰もが憔悴しきっており、胸に宿す光は、今にも消え入りそうに弱々しく明滅している。
だが、その弱い光が、互いに共鳴し始めたのだ。まるで磁石に引かれる砂鉄のように、小さな光の粒子が寄り集まり、一つの巨大な光の渦を生み出そうとしていた。
その凄まじい光の奔流に、俺の体質が激しく反応した。飢えが、理性を焼き切る。駄目だ、抑えろ! 心の中で叫ぶが、身体は言うことを聞かない。俺は無意識に両手を広げ、渦の中心へと歩み寄っていた。
「やめろ……!」
俺の喉から漏れた声は、誰にも届かない。指先が光の渦に触れた瞬間、世界が反転した。ダムが決壊するような勢いで、そこにいた全員の、人生全ての幸福な記憶が、俺の中に雪崩れ込んできた。
第五章 世界の心音
意識が、無数の記憶の洪水に飲み込まれる。
生まれたばかりの赤子が見た母の笑顔。初めての恋、卒業式の涙、結婚の誓い、我が子を抱いた日の温もり。何十、何百という人生が、俺の中で再生されては消えていく。あまりの情報の奔流に、カイという個人の輪郭が溶けて、曖昧になっていく。
だが、その混沌の渦の底で、俺は気づいた。全ての幸福な記憶の、さらに奥深く。その源流に、共通する一つの巨大な記憶の断片が存在することに。
それは、遥か太古の、この世界が生まれた瞬間の記憶だった。
原初の光。暖かく、全てを肯定する、絶対的な幸福。人々が心臓に宿す『光の塊』は、この原初の光から分け与えられた小さな欠片に過ぎなかったのだ。人々は生き、愛し、喜び、その光を熟成させていく。そして、光が一定量まで増え、飽和状態に達した時、世界は自らの均衡を保つために、最も熟した光から回収を始める。それが『光の消失事件』の真相。犯人は特定の誰かではない。世界そのものが、自らの呼吸として、光を回収し、リセットしていたのだ。
恐怖の残滓も、消えたはずの影の靄も、全てはこの『世界の回収』に飲み込まれ、原初の光へと還っていた。
そして、俺は。俺のような特異体質を持つ者は、その巨大なリセットの過程でこぼれ落ちた、個人の記憶という名の『感情のゴミ』を吸収し、分解・希釈するための安全装置だった。俺は世界の均衡を保つための、ただの処理装置に過ぎなかった。
第六章 永遠の墓守
全ての真実を悟った時、俺の中から「俺」という感覚が消え失せた。もはや罪悪感も、飢えも、孤独も感じない。俺の精神は、吸収した無数の人々の幸福な記憶が渦巻く、巨大な図書館と化していた。俺はカイではない。俺は、彼らの記憶そのものだった。
ゴォン、と時計塔の重い鐘の音が響き渡る。
それは、始まりの合図。次なる世界の調整が近いことを告げる心音だ。俺は、もう琥珀の涙を流すことはない。ただ静かに、広場を見下ろす。やがて、新たな光を胸に宿した人々が、何かに導かれるようにこの場所に集まってくるだろう。彼らは、世界にその幸福を捧げるために。
俺は、それを『受け入れる』ためにここにいる。
個としての存在を失った俺は、永遠に他者の幸福の幻影を見続ける、生きた感情の貯蔵庫となった。これは罰なのか、それとも救済なのか。答えはない。ただ、世界の心音が鳴り響く中、俺は次なる記憶たちを、静かに待ち続けている。