影喰いの弔鐘

影喰いの弔鐘

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第一章 欠ける影

柏木湊(かしわぎ みなと)が自室の異変に気づいたのは、妹の斎(いつき)が死んでから一週間が経った、雨の夜のことだった。

デスクライトの白い光が床に落とす、自身の影。その輪郭が、まるで水面に落としたインクのように、僅かに、しかし不気味に揺らめいている。湊は瞬きを繰り返し、目を凝らした。気のせいではない。特に左腕から肩にかけての部分が、まるで黒い炎が立ち上るかのように、ゆらゆらと蠢いている。そして、その影の一部が、明らかに欠けていた。まるで何者かに齧り取られたかのように。

「……疲れているのか」

湊は呟き、無理やり思考を断ち切った。大学の研究室に泊まり込み、連日論文の執筆に追われていたのだ。疲労が見せる幻覚だろう。彼はそう結論付け、ベッドに潜り込んだ。

しかし、現象は続いた。日を追うごとに、影の欠損は広がっていく。最初は左腕だけだったのが、やがて胴体の部分にまで及び、まるで虫食いの葉のように、その黒い領域にいくつもの穴が空き始めた。街灯の下を歩けば、アスファルトに映る自分の姿は歪にねじくれ、ショーウィンドウに反射するシルエットは、おぞましいほどに不完全だった。

恐怖が、じわりと理性の土台を溶かし始める。そして彼は、ある法則性に気づいてしまった。

影の異変が顕著になるのは、決まって妹の斎を思い出し、胸が締め付けられるような悲しみに襲われた直後だった。斎の笑顔、快活な声、事故現場のサイレンの音――それらが脳裏をよぎり、どうしようもない無力感に包まれると、決まって影が蝕まれるのだ。

その夜、湊は斎の遺した日記を手に取ってしまった。そこに綴られた、未来への希望に満ちた言葉たちを読み、堪えきれずに嗚咽が漏れた瞬間だった。

部屋の隅、カーテンの降りた窓と壁が作る直角の闇が、不自然に膨張した。それは単なる暗がりではない。全ての光を飲み込むような、絶対的な「黒」。その中心から、まるで粘度の高い液体が染み出すように、黒い染みがじりじりと床を這い始めた。それは明確な意志を持って、ベッドに蹲る湊へと向かってくる。

「ひっ……!」

湊は悲鳴を上げ、日記を放り出した。そして、訳も分からず、頭に浮かんだ唯一の対抗策を実行した。必死で楽しいことを考えたのだ。先日成功した実験、友人と交わした馬鹿話、好きな映画のワンシーン。脳をフル回転させ、無理やり口角を上げて笑みを作る。

すると、どうだろう。床を這っていた黒い染みの動きがぴたりと止まり、まるで潮が引くように、ゆっくりと部屋の隅の闇へと後退していくではないか。

湊は、全身から汗が噴き出すのを感じながら、悟った。

あの黒い染み――あの「何か」は、自分の悲しみを糧にしている。そして、自分の影を喰らい、存在そのものを消し去ろうとしているのだ。

妹の死を悲しむことすら、許されない。この日から、湊の静かな地獄が始まった。

第二章 感情の牢獄

湊は、自らに厳格なルールを課した。第一に、妹の斎を思い出させるものを全て視界から排除すること。彼女の写真は裏返して引き出しの奥にしまい、部屋に残された私物は段ボールに詰めて押し入れに封印した。第二に、いかなる時も感情の平穏を保つこと。特に「悲しみ」に繋がる思考は、芽生えた瞬間に叩き潰す。

彼は、感情のないロボットになることを自らに強いた。朝起きれば無心で顔を洗い、大学では研究に没頭し、夜は疲れて眠るまで専門書を読みふける。友人からの誘いも「忙しい」と断り続けた。誰かと話せば、ふとした会話から斎の思い出に繋がってしまうかもしれないからだ。

それはまるで、薄氷の上を歩くような日々だった。胸の奥底には、マグマのように熱い悲しみの塊が渦巻いている。それを悟られぬよう、意識の蓋を幾重にも重ねて押さえつける。だが、感情とは厄介なものだ。抑えつければ抑えつけるほど、その圧力は増していく。

ある日の午後、研究室の窓から夕焼けを眺めていると、ふと斎が好きだった茜色の空が目に映った。「綺麗だね、お兄ちゃん」――そう言って微笑んだ妹の幻影が、不意に心を過った。

しまった、と思った瞬間にはもう遅い。

足元に目をやると、西陽が落とす長い影の足先が、黒いインクのようにじわりと滲み、溶け出していた。そして、視界の隅、誰もいないはずの書庫の暗がりで、何かが蠢いた。それはもう、ただの染みではなかった。歪な人型をしていた。手足は異様に長く、頭部はのっぺりとしていて、まるで影そのものが無理やり立ち上がったかのような、冒涜的な姿だった。

「影喰い」

湊の脳裏に、どこかで聞いた古い伝承の名が浮かんだ。人の悲しみに惹かれて現れ、その影を喰らい尽くすという怪異。喰われた者は、誰の記憶からも消え、最初から存在しなかったことになるのだと。

全身の血が凍りつく。影喰いは、書庫の闇からゆっくりと姿を現し、ぎこちない動きで湊に一歩近づいた。その姿は、光の加減で輪郭が揺らめき、まるで蜃気楼のようだ。しかし、それが放つ圧倒的な喪失の気配は、紛れもない現実だった。

湊はパニックに陥りながらも、再び心のスイッチを切り替えようと足掻いた。論文の数式、元素記号、複雑なプログラミングコード。無機質な情報の羅列で頭を埋め尽くし、心を空っぽにする。

「……消えろ」

歯を食いしばって呟くと、影喰いはぴたりと動きを止め、不満げにその体を揺らめかせた後、すうっと書庫の闇に溶けていった。

湊はその場にへたり込んだ。心臓が警鐘のように鳴り響いている。

もう限界だった。悲しみを押し殺す生活は、湊の精神を確実に蝕んでいた。このままでは、影喰いに喰われる前に、自分が狂ってしまう。この恐怖から逃れる術はないのか。そもそも、影喰いとは一体何なのだ。

彼は震える手でスマートフォンを取り出し、民俗学を専門とする古い知人の名前を検索した。藁にもすがる思いだった。この得体の知れない恐怖の正体を、どうしても突き止める必要があった。

第三章 影喰いの真実

湊が連絡を取ったのは、大学で民俗学を教える老教授だった。事情を話すと、教授は意外にも真剣な口調で、いくつかの古い文献を送ってくれた。そのうちの一冊、埃をかぶった私家版の『異聞・影葬考』という書物に、湊は探し求めていた記述を発見する。

そこには、彼の知る伝承とは全く異なる、影喰いの側面が記されていた。

『――影喰いは、人の悲嘆を糧とす。されど、そは魂を罰するにあらず。忘失の淵に沈みゆく哀しみを、この世に繋ぎ止めるための縁(よすが)なり。人は、深き哀しみを遠ざけんとする。なれど、哀しみを忘るるは、すなわち、失いし者を二度殺すことなり。影喰いは、その忘却に抗うもの。喰らうは影にあらず。影に宿りし、薄れゆく記憶の残滓なり――』

湊は息を飲んだ。指先が冷たくなっていく。読み進めると、さらに衝撃的な一文が目に飛び込んできた。

『――影喰いは、喰らいし記憶をその身に宿す。ゆえに、その姿は時に、失われし者の面影を映し出すという。そは、忘れるなという、死者の声なき声か。哀しみを正しく受け入れ、涙をもって弔うとき、影喰いはその役目を終え、喰らいし記憶の欠片を影へと還し、静かに去る。これを古は「影満ちの儀」と呼ぶ――』

全身に鳥肌が立った。

間違っていた。全て、自分が間違っていたのだ。

影喰いは、湊を罰するために現れたのではなかった。彼の敵ではなかった。むしろ、その逆だった。

湊は、斎の死という耐え難い現実から逃れるため、悲しみを、そして斎の思い出そのものを封印しようとしていた。斎を忘れることで、痛みから解放されようとしていた。

影喰いが喰らっていたのは、湊の影ではない。彼の忘却によって、この世界から消え去ろうとしていた「斎の記憶」の残滓だったのだ。影の欠損は、湊の中から斎の存在が消えつつあることの証だった。影喰いは、それを必死に繋ぎ止めようとしていたのだ。斎が、この世界から完全に忘れ去られてしまわないように。

湊が感じていた恐怖は、影喰いが放つものではなかった。それは、湊自身の心の奥底にある、「妹を忘れてしまうことへの恐怖」が具現化したものだった。

「……斎」

湊の口から、掠れた声が漏れた。彼は自分の愚かさに愕然とした。悲しむことをやめた瞬間から、彼は自らの手で、最も愛する妹の存在をこの世から抹消しようとしていたのだ。

涙が、堰を切ったように頬を伝った。それは恐怖の涙ではない。後悔と、そしてようやく溢れ出すことを許された、純粋な悲しみの涙だった。

その瞬間、部屋の空気が急速に冷え込み、あの絶対的な黒が、今度は部屋の中央に渦を巻いて現れた。影喰いが、これまでで最も明確な輪郭を持って、彼の前に姿を現す。

だが、湊はもう逃げなかった。彼はゆっくりと立ち上がり、震える足で、その冒涜的で、しかしどこか神聖ささえ感じさせる存在へと向き直った。

第四章 涙の儀式

影喰いは、湊の目の前で静かに佇んでいた。その歪な人型の表面が、水面のように揺らめいている。湊は、もうそこに恐怖を感じなかった。ただ、深い、深い哀しみが胸を満たしていた。

「ごめんな、斎……。俺は、お前を忘れるところだった」

湊は、嗚咽を漏らしながら語りかけた。それは影喰いに向けた言葉であり、天国の妹に向けた言葉であり、そして何より、自分自身に向けた懺悔だった。

彼は斎との思い出を、一つ一つ、声に出して紡ぎ始めた。幼い頃に二人で行った夏祭り。初めて自転車に乗れた時の、彼女のはしゃいだ笑顔。受験の前夜、彼のために夜食を作ってくれた時の、優しい眼差し。楽しかったことも、喧嘩したことも、全てが愛おしい記憶として蘇り、その度に涙がとめどなく溢れ出した。

彼は、自分の弱さを認めた。斎を失った悲しみに耐えきれず、忘れることで逃げようとした自分の卑劣さを。

「悲しいよ、斎。お前がいなくて、寂しくて、胸が張り裂けそうだ……!」

心の底からの叫びだった。感情の牢獄を打ち破り、ありのままの悲しみを解き放った瞬間、影喰いがゆっくりと動き出した。それは湊に近づき、異様に長い腕を伸ばす。

湊は目を閉じなかった。その腕が、自分の足元に落ちる影に、そっと触れるのを見つめていた。

影は喰われなかった。それどころか、影喰いの指先が触れた場所から、温かい光のようなものが広がり、虫食いのように欠けていた影の穴が、次々と埋まっていく。まるで、失われたパズルのピースが、あるべき場所へと戻っていくかのように。

そして、湊は見た。

影喰いの、のっぺりとしていたはずの顔の部分に、一瞬だけ、はっきりと、懐かしい妹の横顔が浮かび上がったのを。それは、悪戯っぽく、そして全てを許すかのように、優しく微笑んでいた。

幻ではない。それは、影喰いが繋ぎ止めてくれていた、斎の記憶そのものだった。

「ありがとう」

湊の口から、感謝の言葉が自然と零れた。

影喰いは、湊の影を完全に修復すると、満足したかのように体を揺らめかせ、その輪郭を闇に溶かしながら、静かに消えていった。部屋には、デスクライトの光と、湊自身の完全な影だけが残されていた。いや、よく見ると、その影は以前よりも少しだけ、色濃くなっているような気がした。

湊は、床に落ちた自分の涙を指で拭った。もう、悲しみを恐れることはない。悲しみは、罰でも呪いでもない。失った大切な人を、自分の心に永遠に刻み続けるための、神聖で、切実な儀式なのだ。

彼はこれからも、何度も斎を思い出し、その度に胸を痛め、涙を流すだろう。

しかし、その悲しみはもはや、彼を苛む恐怖の源ではない。彼と斎を繋ぐ、決して消えることのない、温かくも切ない絆の証として、彼の影の中に、彼の心の中に、生き続けるのだ。

窓の外では、いつの間にか雨が上がっていた。月光が差し込む部屋で、湊はただ一人、静かに、しかし確かにそこに在る自分の影を、穏やかな気持ちで見つめていた。

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