瑕疵(かし)ある記憶の聖域

瑕疵(かし)ある記憶の聖域

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第一章 完璧な記録の瑕瑾(かきん)

橘蓮(たちばな れん)の脳は、完璧な書庫だった。生まれた瞬間から今この瞬間に至るまで、見たもの、聞いたもの、触れたもの、その全てが日付と時間と共に、一分の狂いもなく整理され、保存されている。超記憶症候群。医者はそう診断したが、蓮にとっては呪いと同義だった。六歳の誕生日に食べたショートケーキの甘酸っぱさも、先週、古書店の店先でアスファルトに染みを作った雨粒の数も、彼は忘れることができない。忘れたい、苦痛に満ちた記憶でさえも。

だからこそ、今、蓮を苛んでいるこの現象は、彼の世界の根幹を揺るがす異常事態だった。

始まりは、一週間前のことだ。神保町の裏路地にある古書店『迷宮書房』での仕事を終え、静まり返ったアパートの一室に戻った時、蓮は違和感を覚えた。窓際に置いた観葉植物の葉に、朝にはなかったはずの水滴が一つ、煌めいていたのだ。蛇口は固く締まっている。結露にしては季節外れだ。彼の完璧な記憶は、その水滴が存在する論理的な理由を何一つ提示できなかった。

些細な綻びは、日を追うごとに広がっていく。昨日、ゲーテの『ファウスト』を置いて眠ったはずの枕元には、なぜかカフカの『変身』が置かれている。自分が淹れた覚えのない、微かに湯気の立つコーヒーカップが、机の隅に佇んでいる。蓮は自身の記憶を疑った。だが、彼の記憶は絶対だ。昨日、カフカを手に取った事実はない。コーヒーを淹れた事実もない。では、これは何だ?

恐怖が、じわりと彼の内側を冷やしていく。それは、暗闇への恐怖とは違う。自らの存在証明が、足元から崩れていくような、形而上的な恐怖だった。

そして今夜、その恐怖はついに形を成した。

読書灯の淡い光だけが照らす部屋の隅。本棚と壁が作る深い影の中に、何かがいる。それは人のかたちをしていた。黒い靄(もや)が寄り集まってできたような、輪郭の曖昧な人影。それはただ、じっとそこに佇み、蓮を見ているようだった。

蓮は息を呑んだ。瞬きをしても、それは消えない。視線を逸らし、三分二十八秒前に読んだ文庫本の活字を脳内で再生してみる。落ち着け。疲れているだけだ。だが、再び視線を戻すと、影はまだそこにいる。それどころか、ほんの少しだけ、こちらに近づいているように見えた。

心臓が氷の塊になったように冷たく、重くなる。彼の完璧な記憶の中に、この影に関する記録は一切ない。これは、彼の書庫には存在しないはずの、未知の頁だった。蓮の世界に初めて生じた、「記憶にない」異物。それは、彼の聖域であるはずのこの部屋で、静かに、しかし確実に、その存在感を増していた。

第二章 影の侵食

影は、蓮の日常を侵食し始めた。最初は部屋の隅にだけ現れていたそれは、やがてキッチンに立ち、蓮が眠るベッドの足元に佇むようになった。その輪郭は日に日に鮮明になり、時折、長い髪の少女のように見えることがあった。

蓮は眠れなくなった。目を閉じれば、影がすぐ側まで迫ってくる気配がする。彼の脳は、疲労を訴える肉体とは裏腹に、過去のあらゆる記憶を際限なく再生し続けた。幼い頃に見た悪夢。道端で死んでいた蝉の感触。初めての失恋の痛み。忘却という救いを持たない彼にとって、過去は常に現在と地続きだった。

特に、脳裏に焼き付いて離れない記憶がある。八歳の夏。妹の沙耶(さや)が死んだ日の記憶だ。

夕暮れの蝉時雨。公園からの帰り道。繋いでいたはずの、小さく柔らかな妹の手。ふと、その手を、彼が離してしまった瞬間の、ぞっとするような感触。彼の視線の先には、鮮やかな赤いボールがあった。それに気を取られた、ほんの一瞬の油断。甲高いブレーキ音と、母親の悲鳴。血の匂いとアスファルトの熱。沙耶の好きだった白いワンピースが、夕陽よりも赤い色に染まっていく光景。その全てが、色褪せることなく、昨日のことのように彼の脳内でリフレインされる。

「お兄ちゃん…」

ある夜、影が初めて声を発した。それは、か細く、掠れた、沙耶の声に酷似していた。蓮はベッドの上で飛び起きた。心臓が肋骨を突き破るほど激しく鼓動する。影はベッドの脇に立ち、虚ろな輪郭で蓮を見下ろしていた。

「どうして、手を、はなしちゃったの…?」

違う。やめろ。その言葉を口にするな。蓮は耳を塞ぎ、頭を振った。だが、声は彼の記憶に直接響いてくる。彼の脳が、彼の罪悪感が、彼自身に問いかけている。お前のせいだ、と。

蓮は狂いそうだった。完璧な記憶は、もはや彼を苛むための拷問具でしかなかった。彼は自分の記憶そのものを疑い始めた。本当に影は存在するのか? それとも、長年の罪悪感が見せる幻覚なのか? 彼はノートを買い、日々の出来事を克明に記録し始めた。記憶と記録を照合することで、正気を保とうとしたのだ。

しかし、その試みは更なる混乱を招いただけだった。ノートには『昨夜、影は現れず』と書かれているのに、蓮の記憶では、影は一晩中、彼の枕元に座っていた。どちらが真実なのか。完璧なはずの記憶と、自らの手で記した記録との間に生まれた齟齬は、蓮の精神を崖っぷちへと追いやっていく。彼はもはや、現実と幻の境界線を見失いかけていた。影は沙耶の姿を借りた、彼の罪悪感の化身なのだ。そう思うことでしか、この恐怖を説明できなかった。

第三章 忘れられた写真

このままでは壊れてしまう。蓮は、一つの決断を下した。諸悪の根源である、妹・沙耶の記憶と決別する。そのためには、過去を物理的に葬り去る必要があった。彼は週末、重い足取りで、十年以上足を踏み入れていない実家へと向かった。

埃っぽい匂いが鼻をつく。彼の両親は数年前にこの家を売り、今はもっと小さなマンションで暮らしている。蓮の部屋と、そして沙耶の部屋だけが、時間が止まったかのように当時のまま残されていた。

沙耶の部屋は、少女趣味の家具と、色褪せたぬいぐるみに満ちていた。蓮は息を詰め、クローゼットの奥から段ボール箱をいくつか引きずり出した。中には、沙耶の描いた絵や、作文、そして古いアルバムが詰まっている。これを全て処分すれば、あの影も、悪夢も、消えてくれるかもしれない。

無心で遺品をゴミ袋に詰めていく。その手が、一冊の分厚いアルバムに触れた時、不意に止まった。表紙には、沙耶の拙い字で『たからもの』と書かれている。ページをめくると、家族旅行の写真や、誕生日会の写真が、楽しげなコメントと共に貼られていた。蓮の記憶と寸分違わぬ光景がそこにあった。

最後のページに、一枚だけ、ポケットに差し込まれたままの写真があった。それは他の写真とは明らかに異質だった。ピンボケで、構図も傾いている。おそらく、近くにいた誰かが咄嗟にシャッターを切ったのだろう。そこに写っていたのは、例の事故現場の公園だった。

夕陽を背にした、幼い蓮と沙耶。蓮は、沙耶の前に立つようにして、何かに向かって必死に腕を伸ばしている。沙耶は彼の背中に隠れるようにして、驚いた顔で固まっている。そして、蓮が手を離したはずの沙耶の手は、彼の服の裾を固く、固く握りしめていた。

その写真を見た瞬間、蓮の頭の中で、錆び付いた巨大な歯車が軋みながら回り出すような感覚がした。キーンという耳鳴りと共に、視界が白く点滅する。

そうだ。違った。記憶が、違う。

俺は、沙耶の手を離したんじゃない。

突如、封印されていた記憶の扉が破壊された。本当の光景が、濁流のように脳内へとなだれ込んでくる。

あの日、公園の茂みから、リードが外れた大きな犬が、沙耶に向かって猛然と飛び出してきたのだ。蓮は咄嗟に沙耶を庇い、犬の前に立ちはだかった。その瞬間、バランスを崩した沙耶が、彼の背後で転倒し、運悪く車道へとはみ出してしまったのだ。彼は手を離したのではなく、妹を守ろうとした。その結果、妹は死んだ。

では、なぜ記憶は改竄されていたのか。答えは、その直後の、一瞬の感情にあった。犬が自分を通り過ぎ、沙耶が車に轢かれるまでの、コンマ数秒。蓮の心に浮かんだのは、恐怖でも悲しみでもなく、「ああ、自分じゃなくてよかった」という、醜く、利己的な安堵だった。

その罪悪感。妹を守れなかった無力感と、その瞬間に抱いてしまったおぞましい感情。幼い蓮の心は、その罪の重さに耐えきれなかった。だから、無意識のうちに記憶を書き換えたのだ。「自分が油断して手を離した」という、より分かりやすく、しかし遥かに耐えやすい罪の形に。

部屋の隅に現れた影。それは沙耶の亡霊などではなかった。それは、蓮自身が作り出し、封じ込めた「罪悪感」そのものだった。完璧な記憶の書庫の、決して開けてはならないと鍵をかけた禁断の書物。それが今、彼の目の前で開かれようとしていた。

第四章 罪悪感との対話

実家からアパートに戻ると、影は部屋の中央に立っていた。以前よりもずっと濃く、はっきりとした輪郭を持っている。だが、その姿はもはや沙耶ではなかった。夕陽を背に、怯えたように立ち尽くす、八歳の頃の橘蓮そのものだった。

「お前のせいだ」

蓮は、過去の自分に向かって呟いた。声が震える。

「お前が、あの時、安堵したから。沙耶が死んだのに、ほっとしたから…だから、俺はずっと苦しんできた」

影――幼い蓮は、何も言わずに俯いている。その小さな肩が、小刻みに震えているのが分かった。まるで、泣いているかのようだ。

蓮は一歩、また一歩と、自分自身の罪悪感の化身へと近づいていく。憎しみが胸の内で渦巻いていた。こいつを消し去れば、楽になれるのかもしれない。だが、泣きじゃくる幼い自分の姿を見ているうちに、憎しみとは別の感情が湧き上がってくるのを、蓮は感じていた。

それは、憐れみだった。

八歳の子供が、どうしてあの状況を正しく受け止められただろう。死の恐怖を前にして、自己防衛本能が働くのは当然ではないか。それを誰が責められる? 誰よりも重い十字架を、この小さな背中はずっと一人で背負ってきたのだ。記憶を改竄してまで、自分を守ろうとしてきたのだ。

「…ごめんな」

蓮の口から、思いがけない言葉が漏れた。

「辛かったよな。ずっと、一人で。ごめん」

彼はゆっくりと膝を折り、幼い自分の前にしゃがみ込んだ。そして、震える腕を伸ばし、その影をそっと抱きしめた。触れることはできない。それは実体のない、記憶の残滓だ。だが、確かに温かいものが、蓮の胸に流れ込んでくるようだった。

「君は、悪くなかった。…いや、俺は、悪くなかった。ただ、必死だっただけだ。沙耶を守りたかった。それだけだったんだ」

許しの言葉を口にした瞬間、抱きしめていた影が、柔らかな光の粒子となって、ふわりと霧散し始めた。光は部屋中に広がり、長年蓮の心を覆っていた分厚い暗雲を、優しく溶かしていく。

ありがとう。さよなら。

誰の声ともつかない、温かな響きが心に残った。

気がつくと、部屋には蓮一人だけがいた。部屋の隅の影は、もうどこにもない。代わりに、窓から差し込む朝の光が、床の埃をキラキラと照らしていた。蓮の頬を、一筋の涙が伝っていく。それは、悲しみではなく、長い長い呪縛から解放された、安堵の涙だった。

超記憶症候群が治ったわけではない。沙耶を失った日の記憶も、おぞましい安堵の感情も、消えることはないだろう。だが、蓮はもう、その記憶から逃げようとは思わなかった。痛みも、後悔も、罪悪感も、全てが橘蓮という人間を構成する、消せない一部なのだ。彼は初めて、自身の完璧な記憶を、その瑕疵ごと、受け入れる覚悟を決めた。

数日後、蓮は『迷宮書房』のカウンターに立っていた。店を訪れた少女が、一冊の絵本を手に取り、彼に話しかける。

「おじさん、この本、面白い?」

以前の彼なら、最低限の返事をして、すぐに自分の世界に閉じこもっていただろう。

しかし、蓮は柔らかく微笑み、少女の目を見て言った。

「ああ、面白いよ。これはね、迷子になった星が、自分の還る場所を見つけるお話なんだ」

完璧な記憶は、時に呪いとなる。だが、その記憶があるからこそ、二度と忘れてはならない温もりも、確かにそこには記録されているのだ。蓮は、自らの聖域の、主となった。欠けた部分も、汚れた頁も全て含めて、彼はこれから、その書庫と共に生きていく。

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